201.おっさん冒険者が《ビオトープの器》を知っていたのは、実はこうした経緯によるところだったという話。


 ――およそ三ヶ月前。


 この世界とは異なる領域に存在する、彼方の異世界。

 《妖精郷ティル・ナ・ノーグ》――常若の森。



『ぅ……』


『――アレン!』


 神秘の泉のほとりに横たえられた少年が目を覚ました時、溢れる歓喜の涙と共にその胸へと縋っていったのは、魔術士見習いの少女だった。

 鎧を外した胸へ急に飛び込んできた人一人ぶんの重さに、不意打ちを喰らった格好の少年の口からは「ぐえ」と潰れた呻きが溢れた。


っってぇ……って、ミリー? 起き抜けに何すんだよ、危ないなぁ……』


『ばか! ばかばかばか! 危なかったのはあんたの方よ、このばか! 考えなし!!』


『はぁー? 何だよいきなり、訳わかんねぇ!……つか、何で泣いてんだよ、ミリー』


『あんたのせいでしょうが、ボケバカアレン! 考えなし! おたんちん! 信じらんない! もうちょっとで死んでたとこだったくせに何なのよその間抜け面!!』


 寝起きそのものの不機嫌さで唸る少年アレンに、少女ミリーは泣きはらした顔を乱暴に拭いながら、声を限りに喚いた。


 顔中に『?』を浮かべて困惑する少年と、その胸へ覆いかぶさるようにしながら泣きじゃくる少女とを見下ろしながら――その時のシドは、ようやく安堵の息をついたものだった。


 それは、周りの大人達も同様だった。

 フィオレと――そして、その時共に旅をしていた冒険の仲間、神官戦士バートラドとその妻フローラの二人も、シドと同じく、それまで緊迫に詰めていた息をようやくの安堵でほどいていた。


 ――パーティのリーダー、ランズベリー大聖堂の神官戦士たるバートラド。

 ――バートラドの妻で、夫と同じく聖堂の神官戦士であるフローラ。

 ――クロンツァルトの騎士を志す少年剣士アレン。

 ――没落した魔術師の家に生まれ育った、勝ち気な魔術師見習いの少女ミリー。


 シドとフィオレが、奪われた《ティル・ナ・ノーグの杖》奪還の冒険を共にした、旅の仲間達である。


『アレン』


『あ、シドさん。おはようございます』


『おはよう。ところでだけど、きみ、自分が気を失う前のことは覚えてるかい?』


 えっ? と呻いて。

 呆けたように黙考すること数秒――アレンはようやく、現状に至るまでの経緯を思い出したようだった。


『――霧竜ミストドラゴンは!?』


 叫びながら跳ね起きるアレン。

 少年の胸元にしがみついたままだったミリーが、「きゃ」とかぼそい悲鳴を上げた。


『あそこにいるよ。何とか正気に戻せた』


 シドが振り返り、視線で示したその先には――泉の中央から長い鎌首を上げてこちらを見つめる、純白の霧竜ミストドラゴンの姿があった。


 妖精郷の守護者たる竜――邪法によって操られた竜を正気に戻すべく立ち向かった戦いの最中さなかで、アレンは竜の攻撃からミリーを庇い、自らはその吐息ブレスを避けきれずに瀕死の重傷を負ったのだった。


『それよりアレン。体の方はどう? 痛むところやおかしなところ、あったりしないかい?』


『ぜんぜん。何ともないです』


 ふるふると首を振って。アレンはそれから、あらためて自分の身体を見下ろして――そこで、ぎゅっと服の胸元を掴んだまましがみついているミリーに、複雑そのものの表情をひらめかせてから――あらためて答えた。


『あー……今はこう、ミリーが泣いてんのと鼻水で、服がドロドロなのが気持ち悪いかなー、ってくらいで』


『なああぁぁんですってええぇぇえぇ―――――――――!?』


『アレンくん』


 溜息混じりに。

 少年の傍らで膝を折ったフローラが、「めっ」とアレンの額を小突いた。

 常日頃から穏やかで、怒るということをしないフローラには珍しい、厳しく窘める態度だった。これでも。


『ほんとうに死んじゃうところだったのよ? ミリーちゃん、本当にほんとうに心配してたんだから……そんな言い方しちゃだめ』


『……ぅす』


『おへんじは?』


『…………はい。すみませんでした』


 よろしい、と厳しい声――彼女にしては、ということだが――をほどいて。てのひらでミリーを示すフローラ。

 アレンはあらためてミリーを見下ろし、ぎこちなく――ひたすらぎこちなく、蚊の鳴くような声を絞り出した。


『……その、悪かったよ。ごめん』


『ううん……べつにいい。もう』


 ――無事なら、もういいの。


 と――それだけ、答えて。ミリーはアレンの胸へと、額を押し付けるようにしてその顔を埋めていった。


 シドの胸へ戦いの終わりを実感させるのに、それは十分すぎる光景だった。



 《杖》奪還を果たし、のっぴきならない経緯で以てこの六人でのパーティが解散に至る――その、ほんの一月ひとつき前にあった、出来事だった。



 ――あの時、霊薬アニマを持ち帰るのを真っ先に、誰より強く主張したのは、ミリーだった。

 自分を庇ったせいでアレンが死にかけたのが、彼女にはよほど堪えたようだった。


 幸いにして、妖精郷の守護者たる白霧の霧竜ミストドラゴンはそれを良しとして、アニマの性質と、それ故に要求される霊薬の『持ち帰り方』を教えてくれた。迷惑をかけた詫びと、邪法の支配から解放してくれた礼だと言って。


常若の森の中心にあった遺跡――おそらくは旧き妖精達の聖域たる神殿には、古代の附術工芸品アーティファクトをおさめた倉庫と思しき一室があった。

 棚の一角をずらりと占めていた《ビオトープのうつわ》を持ち出し、その中へ神秘の泉の霊薬を詰めて。シド達は一人にひとつずつ、霊薬アニマの小瓶を妖精郷から持ち帰ったのだった。


(――それが、こんな形で役に立つ日が来るなんて)


 医師とサティアの視線は、今や机上の霊薬へ完全に吸い寄せられていた。


 医師は高揚とも戦慄ともつかない興奮に上気して。

 サティアはかすかに光が戻った双眸を、不安とおそれに激しくゆらめかせて。


「伝承をご存知なら、霊薬アニマがいかなるものかもご存知のことでしょう」


 シドは言う。


「これを用いれば、ルチアちゃんの病気は治せる――少なくとも、今後の快癒に向かう見込みは高い。より精度の高い手法で用いることができるなら、それはいや増すことでしょう」


「……中身を、検めさせてもらうことはできるかね」


 ごくりと重たい唾を飲みこみ、医師は慎重な口ぶりで問うた。

 それは彼の立場からすれば当然の要求ではあったが、シドは首を横に振るしかできなかった。


「霊薬アニマは《妖精郷ティル・ナ・ノーグ》の外へ持ち出せば、とおを数える間にその力を失い、ただの水へと変わってしまうものです。今は《ビオトープのうつわ》の中に封じることで、その霊性を維持していますが――この瓶を開けるのは、霊薬を使うその時でなければいけないんです」


「検証どころか、試すことすら不可能という訳か」


「すみません……」


 医師からすれば、その真偽すら明らかでない薬を、ぶっつけ本番で用いなければならないということである。病に苦しむルチアに対して。

 しわの寄った眉間に漂う不信は無理なきものではあったが、それでもこればかりは霊薬の性質に起因するものである。シド達の都合でどうにかできる類のものではない。


「確かに――そいつは私達にとって、またとない奇跡だよ。その小瓶の中身が、本物の霊薬だという確証さえ得られるならば、だがね。だが――」


医師せんせい


 如何ともしがたく、苛々と唸る医師を、サティアの静かな声が止めた。


「いいよ。やめよ。たぶんこのおじさん達が言ってるの、ほんとのことだよ」


「……サティア」


「大丈夫だよ、医師せんせい。このおじさん、どうしようもない『お人よし』の類だもの。だからさ、そこは信じていいって……思う」


 シドは安堵した。

 項垂れかけていた顔を上げ、サティアを見て――緩みかけていた表情を、はっと強張らせることになった。


「瓶の中身は――少なくともおじさん達はそう信じてるし、そう信じるだけの根拠もちゃんとあるんだ、ってさ。そこは信じて、前提に置かないと、話が何も進まなくなっちゃうでしょ?」


 口の端に薄く笑みを刻んだサティアの面に浮かぶ表情は、乾いた諦観のそれだった。勘の鈍さを自認するシドでさえ、はっきりと理解させられた。


「そういう訳だから――訊かせてほしいんだけど。この霊薬の代わりに、?」


 『信じる』、と。やわらかな声で、そう口にしながら。

 そのうえでサティアは、現状に対して

 あるいは、


「そんなすごいものをさ、いくらあたしだって、ただで貰えるなんて思わないよ。あたしが交渉のテーブルに載せなきゃいけないもの――おじさんが欲しいものは、なに?」


 ――『期待』という、都合のいい情動を。それそのものを倦厭けんえんし、疎んじている。

 彼女のような若者が、そんな目をするようになるまでに幾度、『期待』に裏切られてきたのか。それは、シドには想像もつかないことだったが。


(……怖気づくな。俺)


 分かっていたことだ。それは昨夜、すべてが片付いたその後に、予めことだ。だから、戸惑うことだけはせずにいられる。

 怯まずいられるよう、テーブルの下で床を踏む踵に力を籠めて。シドは身を乗り出すようにしながら、サティアの問いに答える。


「俺が希望するのは、きみとのだ」


「へえ?」


 と。

 零すサティアの瞳にかすかな光が灯るのを、シドは見た。こちらのことばにうっすらと興味を惹かれた様子で、交易商人の少女は口の端を緩め、声をかすかに弾ませたようだった。


「おじさん、あたしから何か買いたいものがあるってこと?」


「そういうことになる――厳密に言えば、少し違うんだけれど」


 なおあやふやに続きそうになる言葉を、唇を噛んで断ち斬る。

 腹に力を籠め、やもすれば細りそうになる声を、シドは強く絞り出した。


「――宿。そのための商談の場を、今ここで設けさせてほしい」

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