194.少し時間を遡り。話の焦点は、おっさん冒険者と医者の先生の側へ戻ります。【後編】


 血を吐くように、最後の一言を絞り出して。医師は力なくその肩を落としていた。

 項垂れ、背中を丸めた身体は、その逞しさと相反して、とても小さく見えた。


「……これがすべてだ。納得いったかね」


 その小ささは、医師がこれまで打ちのめされてきた時間、そのもののようだった。


「では……今、あの宿は」


「分かりきったことを、何度も訊かないでほしいものだね」


 自嘲に尖った響きで、医師は唾棄するように吐き捨てる。


「言っただろう。もとよりまともにやっていけるはずがないと。ルチアは病気で、サティアには交易商人の仕事があった――親がいなくなったぶんまで、自分と妹の食い扶持を稼がなきゃならなかったんだ。このうえ、儲けのあてにもならない冒険者どもの面倒など、見ていられたと思うかね」


「………………………」


「もっとも――杞憂というべきだったがね、そんなものは。面倒を見なければならない冒険者なんてものは、あの宿には一人も残りやしなかった。それがサティアの『現状』だ」


 ――そうなった経緯は、シドにも痛いほどに理解できた。


 亭主夫妻が消え、宿そのものがまともに立ちゆかない。

 まして、その娘は危険な感染症に冒されている。


 冒険者として、まともにやっていけるはずがない。そんな場所では。

 他所へ移る――『逃げる』という選択肢は、彼らにとって、やむなきものではあったのだろう。たとえそれが、『保身』と唾棄される選択であったとしても。


 医師が言ったとおりだ。

 自分の人生が何より大切なのは、当たり前のことだ――人間ならば、誰しも。


「……どうしようもないんだ。あんな宿は、もはや手元に置いていても重荷にしかならないものだ。

 私は、宿を引き払って、他所に移るべきだと勧めたよ。あの子は首を縦には振らなかったがね――ああ、だがそれだって無理もないことなんだ。分かるだろう、あそこはあの子の『家』なんだ」


「ええ」


 後知恵で振り返るだけなら、もっと上手いやり方はあったと賢しらぶって言えるだろう。

 たとえば――宿は人を雇ってそちらに任せ、妹はどこか遠方の静養地へ移す。


 だが、そうはできなかった。おそらくは、のだ。

 より賢明な形へ落着を試みるより前に、すべての状況が動いてしまった。


 その時、合理的に『賢明な選択』を選び続けるだけの余裕を、彼女は、あるいは彼女と彼女を取り巻く人々すべてが、持ちえなかった。

 状況を俯瞰し、落とし込んで――ふと、シドはいつかに彼女の言葉を思い出した。


 外輪船ウォーターフォウル号で初めてサティアと出会った時、彼女は、



 ――『なんたって、こちとらあっての商売だし』


 ――『おじさんみたいに、ボーっと生きてなんかないからねー』――



(……そうだね。本当に、その通りだ)


 年若い娘の、向こうっ気の強さ。シドのような『おっさん』には眩しすぎる、若者の煥発さ。そんなものとばかり思い込んでいた。


 いや。彼女自身、そう思い込んでいて欲しかったのかもしれない。サティアは商人だ。


 どれほど苦しい内情を抱えていようと、『商売は順調だ』『すべては上手くいっている』と――外に向かっては笑顔でそう高らかに歌いつづけるのが、商人という生業なりわいだ。そうできる度胸がなければ、生き馬の目を抜くような商売の世界で、誰とも取引などできはしない。


 痛みを訴える胸の内など、がんじがらめの窮状など――本当は、誰にも知られたくなどなかったはずだ。まして、いざそれを知ったところで訳知り顔の同情くらいしかできそうもない、頼り甲斐のかけらもない中年冒険者なんかには。


(……ああ、いつだってこうだ。俺はこんなことばかりだ……まったく)


 こんな調子だから、いつもいつも上手くやれない。

 本当に、どうしようもない――自分は。


 だが――


「さあ、私に話せることはこれで全部だ。これで満足したかね? 冒険者の好奇心は満たされたかね」


「……事の経緯は理解しました。話しづらかったでしょうことをこうしてお話しいただいたこと、感謝します。ありがとうございました」


 シドは頭を下げる。

 ふん、と殊更に鼻を鳴らす医師の態度には、シドに対する苛立ちと、揶揄の気配が色濃かった。


 そうだろう。無理もないことだ。

 こんな話を聞いたところで、たかだか一介の冒険者にできることなどありはしない。

 詮索好きの好奇心を満たし、同情させる程度の役にしか立ちはしない――であるならば、そんな無能な詮索屋など、彼にとって疎ましい存在以外の何物でもあり得まい。

 だが、


「ただ――お願いします。もう少しだけ話を続けさせてください。俺は多分、彼女の現状を変えられるを持っています」


 医師がシドを見る。その目を真っ向から見返すシドに、当惑の気配を広げながら。


「……何だと? あんた、何と言った」


「確実なことかと問われれば、まだその保証はできません。ですが、俺は彼女の力になれる――可能性は十分にあると思っています。

 だから、もう少しだけ話を続けさせてはもらえませんか。あなたと――それに、サティアとも」


 ――切れる手札がある。多分。


 彼女を取り巻く現状の多くをやわらげ、好転させることができるだろう手札が、シドのもとにはある。

 だが、そのうえでシドには、今の時点で決定的に欠けているものがある。



 『信用』だ。



 サティアにとっても医師にとっても、所詮シドは盤外から突如として現れた無関係の部外者に過ぎない。


 彼女達がシドを信用できないのは、当然なのだ。

 そうする理由が何もない。シドには『信用』がない。


「俺を不審と思われるお気持ちは重々承知です。ですが、あなたが口添えしてくれれば、サティアを説得することができるはずなんだ。だから、どうか、もう少しだけ……俺の話を、聞いてもらうことはできないでしょうか。あなたの目で、可能性の真偽をはかってほしいんです」


 シドの訴えに、医師は困惑していたようだった。


 この男は何を言っているのかと、不審にたじろぎ、後ずさる。

 だが、その瞳にはそれらと同時に――「もしかしたら」という微かな希望の光もゆらめていた。その僅かな光明へ縋るように、シドは重ねて訴える。


「そのために、あなたに見ていただきたいものがあります。その、実は宿に置きっぱなしのものなので、今から取りに帰らないといけないのですが……その後で、どうかもう一度! きちんと話をするための時間を」



「わざわざ取りに帰る必要はないですよ、シド・バレンス」



 計ったようなタイミングで。

 甘くかろやかな少女の声が、シドの訴えに重なった。


 はっと振り返るその先――路地の出口から、微笑んでこちらを見つめる少女がいた。

 毛先が黄玉トパーズの金へ変じる髪は、翠玉エメラルドの緑色。


 右目は翡翠ジェイドの緑。

 左目は紅玉色ルビーの赤。


 猫のそれを思わせて輝く瞳孔を宿した翠紅異色虹彩ヘテロクロミアの輝きに見つめられ、医師が思わず息をのむ様を、シドは視界の端に見た。


「クロ……!?」


 呆気にとられるシドへ、クロはにこにこしながら手を振ってきた。


「――こんばんは、シド・バレンス。それからお医者さま。かくて今や舞台も大詰め、すなわち騎兵隊の登場なのですよ」



「クロ……え? え、何で? どうして、ここに。きみ」


 訳が分からず、混乱しきった声を上げるシド。

 そこへ――路地の出口にもう一人、こちらは森妖精エルフの娘がその姿を現した。

 ケープを羽織った肩を荒い呼吸に大きく上下させている、彼女は、


「フィオレ……きみまで!? 何だって、こんなところにいるんだ!?」


「それは、私が聞きたいくらいよ……」


 額に浮いた汗を、張り付く前髪ごと手の甲で拭いながら。

 フィオレは肩で息をしながら、ぐったりと呻いた。


「私は、シドのためだからって、クロに言われて……それでこの子を背負って、ここまで走らされただけ。この子、なんにも事情を話してくれないし」


 じとりと恨みがましい目でクロを見下ろすフィオレ。

 クロは悪びれない笑顔でニコニコしながら、


「たいへん感謝していますです、フィオレ。舞台の大詰めに颯爽登場する可憐な美少女が汗だくでぜいぜい息を切らせていたりいたら、なんとも場面がしまらなくて困ってしまいますからね」


「あなたね」


「ごめん、その辺の話はあとで聞かせてもらうから。それより今は――」


 言い合いになりそうな二人を宥めに入って。

 その時になって、シドは思い至る。


「――心を見ていたんだね、クロ」


「ええ。もちろん見ていました。シド・バレンスの心とも、、ずっとつながっていましたから。、あなたがこれから必要とするだろうものを、わざわざこちらへ持ってきてあげたのです」


 ひらりと手のひらで示した先――フィオレが腰に巻いたポーチは、シドのものだった。

 吸い込まれるようにしてそちらへ走り出しかけたシドを、クロは「それと」と静かに制する。


「――それから、もうひとつ。シド・バレンスは、宿屋さんに戻った方がいいと思います。今すぐに」


「え……」


 ――やど。


 ――《忘れじの我が家》亭。


「今、ちょっと面倒なお客さんが来ているみたいです。危ないことになる前に、戻ってあげた方がいいと――」


 ――思いますよ。


 と。

 続くクロのことばを、最後まで聞くことなしに。


 シドは路地から表へ飛び出し、《忘れじの我が家》への道を全力で駆け戻りはじめた。

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