193.少し時間を遡り。話の焦点は、おっさん冒険者と医者の先生の側へ戻ります。【前編】
前を行く医師がその足を止めたのは、《忘れじの我が家》亭から少し離れた、路地の片隅だった。
そこで、シドが問われるままに自身の知るすべてを語った後、医師が浮かべていたのは如何ともしがたく厳しい――おそらくは、苛立ちの表情であった。
「……あの宝石の出所は納得したよ。たいした臨時収入だ」
眉間にきついしわを寄せた頭をゆるゆると振って、壮齢の医師はそのきつくしかめた面を、ぴしゃりと掌で覆った。
「何をやってるんだ、あの子は……あんたの言うとおりなら、そんなもの、一歩間違えれば自分が死ぬところだったんじゃないのか……!?」
「それは、彼女のせいではないでしょう。事の発端は、事情を伏せて彼女に運び屋を依頼した――」
「あんたに言われんでも分かっているさ、その程度のことはな!!」
激しい声で、医師はシドの言葉を遮った。
「だとしても、その仕事を受けたのはあの子の選択だ! 個人の運び屋だなんて、うさんくさい稼ぎに手を出したのは! その挙句に、自分で自分を危険に晒す真似をして――」
医師は不意に唇を噛んで、続く言葉を途切れさせた。
やり場のない怒りに震えていた肩を力なく落とし、あらためてシドへと向き直る。
「……どうやら私は、あんたに重ねて礼を言わなければならないようだ。あの子を、サティアを護ってくれたこと、感謝している」
「いえ」
シドはかぶりを振って、沈めるように深く下げた医師の頭を上げさせた。
「俺からお話しできることは、今のですべてです。というより、彼女とはこちらへ来る途中の船でたまたま出会ったばかりで――正直、知ってることなんてほとんどないんです」
「……つまりは、そんな見ず知らずも同然の娘が抱えた事情に首を突っ込むために、わざわざ《忘れじの我が家》亭までやってきたのかね。あんたは」
「…………そうなります」
それ以上は返せる言葉もなく、シドは恥じ入るように肩を落として項垂れた。
医師の要約を聞いてしまうと、我ながら自分という冒険者は、何とも不審きわまる胡乱なしろものである。
だが――と。
いたたまれなさを振り切って、シドは強いてしっかりと面を上げる。ここでへしょげて退いてしまっては、何のためにここまで来たのかわからない。
「ご納得いただけるものだったかとなれば、必ずしもそうではないでしょうが――約束は約束です。今度は俺の質問に答えてください。いいですね?」
「ああ、いいとも。なんなりと訊きなさい」
背筋を正し、シドの問いへ耳を傾ける医師に、シドは問うた。
「《忘れじの我が家》亭の――サティアを取り巻く現状について、です。ある程度の概略は、《
「ウェスのやつか。彼は何と言ってたんだね?」
逆に問い返され、シドはしばし黙考する。
「……妹さんが病気になった。それと時を同じくして、ご両親が行方知れずになった」
「それだけか?」
「いえ……」
――そして、そんな時にサティアから助けを求められて。
自分はその手を、手ひどく振り払ったのだ――と。
《
仕方なかった。
自分にも余裕がなかった。
このうえ他人の面倒までしょいこむなんてできなかった。共倒れになるのが目に見えていた。
シドの問いに答える間、彼は幾度もそんな言葉をさしはさんでいた。そわそわと落ち着きなく足を踏み鳴らしながら、彼は懺悔のように、そう訴えずにはいられなかったようだった。
「――まあ、おおよそはウェスの言ったとおりだ。ルチアが病気になって、二人の両親は行方知れずになった」
「《忘れじの我が家》亭は――」
「やっていける訳がないだろう。ルチアは病気で、サティアにも仕事があった」
シドの察しの悪さに苛立ったように、医師は声を強くした。
「だが、仮にサティアが交易商人を辞めて宿を継いだとしても、意味は無かっただろう。二人が行方知れずになって宿の先行きが見えなくなるや否や、冒険者どもは早々に《忘れじの我が家》亭を見限って、他所に行ってしまったんだからな」
「そんな」
「彼らの立場からすれば、無理もないことだ。宿を切り盛りしていた夫婦がいきなり消えて、娘の片方は感染症だ。まともに冒険者宿を続けていけるはずもなし、悪くすれば自分達もヘルマン氏病などというものを
そう語ることばこそ、理性的ではあったが。
吐き捨てるようにそれらを口にする医師の態度からは、今なお煮え滾る彼らへの憤懣が、ありありと伺えた。
「――それが、それまでどれほど世話になった古巣であったとしても、だ。恩義を感じ、それに応える義務などない。自分の人生が何より大切なのは、人間ならば当たり前のことだ」
不意に、医師は舌打ちした。
そして口を閉じ、毒づくことばとなって奔流のように溢れ出す激情を、胸の奥底へと鎮めていったようだった。
「その、二人は――」
医師の総身から噴き出す怒気が静まるのを待ってから。
シドはあらためて問いかけた。
「行方不明と仰りましたが……サティアの両親は、どこへ行ったのでしょうか。最後にどこへ行ったとか、そんな話すら残っていないのでしょうか」
「わからない」
医師はかぶりを振った。
「あの日――ルチアがはじめて血を吐いたという日に、私は妻と二人で、都市外の山で起きた事故へ呼ばれていた。それを知っていた二人は、私達を呼びに馬車で門の外に出て――そこまでは、はっきりと分かっているんだが」
医師の語る口は重く、日に焼けた顔色は、心なしか青褪めていた。
「処置を終えて、怪我人を受け容れる準備のために街へ引き返していた私が見つけたのは、雨の中、路傍で置き去りにされた、空っぽの馬車だけだった」
「馬車……」
シドは眉をひそめた。
状況がそれだけなら――不謹慎な物言いになるが――物盗りにあった、何かの事故で馬車を降りざるを得なくなったと、可能性は簡単に思いつける。最終的に二人の行方が知れないままに終わってしまったのが事実としても、歯にものが挟まったような医師の言いようは、いかにも不可解だった。
シドの疑念を感じてだろう。医師はゆるゆるとかぶりを振った。
「本当に分からないんだ。何があったのか……馬車は物盗りに荒らされた様子もなければ、どこかが壊れた様子もなかった。何かが争った跡も……強い長雨のせいで、道はぬかるんだ地面に車輪の轍がはっきり残るほどの有様だったというのに、馬車の周りには足跡ひとつ残っていなかった」
まるで――馬車に乗っていた人間だけが、
神隠しとしか言いようのない状況だった。
「口さがない者の中には、娘の病気が
だがな、私に言わせれば、あの二人に限ってそんなことは絶対にあり得ない――あの二人がサティアとルチアを置いて姿をくらますなど、到底考えられないことだ。そもそも、あの時点では血を吐いた理由すら明らかではなかった」
不意に、じろりとシドを睨み上げた医師の眼光には、「もしその類のことを口にしたら、今からでも決して容赦はしない」という、強い憤りが露わだった。
無論、そんなつもりなどシドにはなかった。
断定的なほどに強い医師の確信は、サティアの両親がどれほどの信頼をこの医師から得ていたか――その人柄をうかがわせるのに、十分なものだった。
「神隠し……と、いうことですか」
「……ああ」
きつく、苦しげに眉根を寄せながら。慄くように震える声で、医師はシドの言葉を肯定する。
「そうとしか言いようがない。あの二人は……あの日を境に、消えてしまったんだ」
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