189.これが正しい選択なのかどうか、おっさん冒険者には未だはっきりと分かりませんが。それでもそれらを知らないまま、放り出すのはできなかったのです。【後編】


「……おねえちゃん?」


「ルチア、お部屋に戻っててくれるかな」


 戸惑うルチアに。

 サティアはそちらを見ることをしないまま、抑えた声で言った。


「てか、寝間着で宿の方うろうろしちゃだめってさ。いつも言ってるでしょ? もう日も落ちるしさ――夕飯、今日もルチアの好きなの作ったげるから。お部屋で大人しく待っててくれる?」


「え、と……でも、おねえちゃん」


 ――ただ。

 それでも、姉が発するただならぬ気配は、少女にも察して余りあるものであったのだろう。

 戸惑いを露わに、ルチアは怯えた声を絞り出す。


「あ、あのねっ! シドのおじさん、おねえちゃんにご用事だって――でね、ずっと待っててもらったんだけど、その間に冒険のおはなししてくれて。それでね」


「ルチア」


 ええと、ええと、と――懸命に言葉を継ぐルチアの肩へ。

 その傍らへ歩み寄っていた医師がそっと手を置いた。


「部屋に戻ろう。サティアは彼と二人で話がしたいそうだ」


「……せんせい」


「さ。行こう」


「えっ……でも、せんせ――おねえちゃん!」


 ――けふっ。


 と。不意に溢れた、乾いた咳が。悲痛に上ずりかけていたルチアの声を遮った。


「……ルチア?」


 ぞっと表情をこわばらせ、サティアは妹へ振り返る。


 少女は両手で口を塞ぎながら、けほけほと繰り返し溢れる咳に肩を震わせていた。

 ふらりと足元がよろめく。咄嗟に支えに入った医師の手に体を預けながら、医師と共にその場で膝をつく。


「ちょっと――ねえルチア、ルチア? しっかり――」


 サティアは妹の傍らへ駆け寄り膝をつく。もはやシドのことなど構ってはいられなかったようだった。

 彼女が、他にどうしようもなく妹の背中を撫でてやる間――それでもいっかなおさまる様子のない咳にルチアは体をまるめてうずくまり、なおも激しく咳き込みつづける。そして――



 ――



 口を押えていた両手。その指の間から、粘つく血が溢れた。不吉に赤々とした喀血が床にまで零れ、「ひっ」と詰まった悲鳴がサティアの喉から溢れた。


「せんせ、医師せんせい! 血っ――ルチア、すごく血を吐いて!」


「サティア、私の鞄を持ってきてくれ。ルチアの部屋だ」


「ねえ、こんな吐いたこと今までなかったよ!? 何これ、どうしよ――ねえ医師せんせい、これどうしたら、あたし、どうしたら!」


「――サティア!」


 サティアの肩を掴み。

 彼女達の傍まで駆け寄っていたシドが、彼女を一喝する。

 はっと我に返り、呆けたようにシドを振り仰ぐ彼女へ――医師が重ねて呼び掛けた。


「……サティアは鞄を持ってきてくれ。ルチアの部屋にある、私の鞄だ」


「う、うん……うん、わかった、取ってくる……!」


 蒼白になった美貌に、涙すら浮かべて。


 振り子人形のように何度も首を振りながら、サティアはぎこちなく立ち上がる。そして今にも転びそうな頼りなさで、よろめきながら奥へと走っていく――その間も。

 ルチアは激しく咳き込み、てのひらの隙間から血の混じった唾を滴らせていた。




 喉の血管が破れたのだろうと、医師は診断を告げた。



 あの後。

 サティアが持ってきた鞄を受け取った医師は、代わりにルチアを彼女へと任せ――少女の咳が収まるのを待って、調合したばかりの薬を飲ませた。

 病気を治す薬ではない。強い発作を抑えるための薬であった。


 ルチアを抱えて医師が奥へと向かい、サティアがその背中を追っていったその後。シドはルチアが吐いた血に、カウンターにあった霧吹きの中身――消毒液をていねいに噴き付け、濡らした雑巾で丁寧に拭った。


 後始末を済ませ、奥へ向かう。

 宿の従業員の生活スペースなのだろう、裏手の一角。枝分かれした横合いの廊下を見遣ると、一番奥の扉が少しだけ空いているのが見て取れた。


 そこが、ルチアの部屋だった。

 寝台には部屋の主であるが横たわり、今は最前の空恐そらおそろしい喀血かっけつが嘘のように、静かな寝息を立てていた。


 扉を開けてシドが立ち入ると、ベッドの傍らで椅子に座っていた医師と、中途半端な位置で立ち尽くしていたサティアの二人が、弾かれたように同時に振り返った。


「酒場の掃除、済ませました。その子が血を吐いたところの消毒も」


 その反応にいたたまれない気まずさを覚えながら、ただ、事実の報告として、シドは口を開いた。


「カウンターにあった消毒液、使わせてもらいました――匂いでそうだと判断したんですが、あれは消毒液ということでよかったですよね?」


「……ああ、あんたの見立て通りだ。手間をかけてすまなかった」


 緊張に強張っていた肩の力を抜いて。

 腰を上げ、シドへと向き直った医師は、項垂れるように頭を下げて礼を言う。


「感謝している。無関係のあんたに、後始末を押し付けた……後で、掃除をした後の手もちゃんと消毒をしておいてくれ。これは、あんたのためにだ」


「ええ」


 それは掃除を終えた後、自主的に済ませていた。

 ベッドで眠るルチアへ目を向け、シドは痛ましい思いで顔を歪める。


「病気だったんですね。彼女は」


「ルチアはヘルマン氏病だ。肺をやられている――ヘルマン氏病は知っているか?」


「名前くらいなら……」


 感染症の一種として、名前を聞いたことがあった。

 発症した際の症状は重篤の一言に尽きる。医療の遅れた土地では、事実上の死病に数えられるひとつだ。

 肺病として知られるが、それ以外の臓器に対しても発症するという話を、どこかで聞いた覚えがあった。


「健康な人間にとっては、さほど恐ろしい病ではないよ。体の防御作用に駆逐される程度の、弱い病だ――とりわけあんたのように健康そうな冒険者にとっては、あまり縁のない病だろう」


 健康な人間であれば、さほど感染を恐れる必要はない。

 だが、一度発症してしまえばその限りではない。


「……ルチアはちいさい頃から、あまり体が強くなくてな」


医師せんせい


 ぽつぽつと。雨垂れのように言葉を続けようとする医師を、サティアの鋭い声が止めた。

 サティアはつかつかとシドへ近づき、向かい合うように正面に立つ。


 俯けた顔は前髪に隠れ、その表情は伺い知れなかったが。


「表の掃除してくれたのには、お礼を言うよ、おじさん。でももう帰って」


「サティア」


「帰って」


 震える声が、圧するように低く唸る。


「……きみに、確かめたいことがあって来た。今すぐでなくていい。少しだけ、話す時間を」


「帰れって!」


 喚いた。


「何なんだよ! こんなところまでずかずか踏み込んできてさ――あんた何なんだよ!? 何のために、あたしがっ……」


 堰を切ったように、音程の壊れた悲痛な叫びが溢れる。

 医師が立ち上がって駆け寄り、制止しようとするその手さえ振り払って――サティアはこれまでシドが一度も見たことのなかった、激しい感情をぶちまけていた。


「あたしが何のために、あんたを《灰犬グレイハウンド》に紹介してやったと思ってんのさ!? おじさんには借りも恩もあったから……せっかく力になってあげたってのに! なのに……一体何しに来たんだよ!? わざわざこんなとこまで!!」


 溢れる感情のままに、きつく固めた拳を振り上げて。

 シドを殴りつける寸前で、サティアはその手を自制した。


 きつく歯を食いしばり、震える拳を下ろす。それは、を自制したのではなく、その結果として起こりうる逆襲を――、その結果のように見えた。


 激情に蓋をするほど深く根を張った、サティアのその自制が――シドには痛ましくてならなかった。


「……わざわざこんなとこまで来てさ。何か、面白いもの見れた? 愉しかった? 満足した……?」


「サティア」


「満足したんなら、もう帰って。病気伝染うつっても、責任なんか取れないよ」


「……………………」


「――帰れよ!」


 意志の力で降ろした拳を、きつく握ったまま。その手を震わせるしかできないサティアを、シドは見ていられなかった。


「わかった」


 顔を背け、肩を落として、そう告げる。


「すまなかった……俺が、浅はかだった」


 二歩。後ろへ下がって。

 シドは深く、頭を下げた。


 そして踵を返し、少女の部屋を――《忘れ地の我が家》亭を後にした。

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