188.これが正しい選択なのかどうか、おっさん冒険者には未だはっきりと分かりませんが。それでもそれらを知らないまま、放り出すのはできなかったのです。【前編】

 

 陽が西へ傾き、店内へ薄い帳のように少しずつ暗がりが影を落とし始める頃になっても、サティアは帰ってこなかった。


「おねえちゃん、遅いですね。あの、すみません、お待たせしちゃって」


「いえいえ、俺が勝手に来ただけですから」


 《忘れじの我が家》亭のカウンター席に座って。シドは時折こうして話しかけてくるルチアに答えながら、彼女が帰ってくるまでの時間を潰していた。

 仔猫が嘗めるみたいにちびちびとカップの牛乳を口にするルチアのさらに隣には、『医師せんせい』と呼ばれていた恰幅のいい男が座っていた。


 半白の頭をした、シドよりさらにひとまわり以上は年上だろう彼がそこに腰を落ち着けていたのは――初対面の見知らぬ大人の隣へ何の警戒もなしにちょこんと座った少女を、そのであるシドと二人だけで並ばせては置けないという、そうした警戒ゆえのことであっただろう。

 ルチアがシドといくぶんおっかなびっくりのつたない言葉を交わす間、医師は少女にそれと気取られない程度の警戒を眼光に乗せ、シドに対し掣肘の気配を突き刺してきていた。


(……まあ、それはそうだよなぁ)


 その視線に気を悪くするでもなく、シドはしみじみと思う。

 正直、居心地がよくないのは否めなかったが――さりとて、これがたとえば十歳のターニャが見知らぬ大人に何事か話しかけられているような場面に行き会ったとしたら、シドとて相応の警戒はするだろうと思う。


 ただ、それでも医師の警戒は、相応以上に刺々しいようにも思う。

 おそらくこの場にルチアがいなければ、医師は早々にシドを追い返しにかかっていたかもしれない。おっとりした幼げな少女の手前、荒事は手控えていたようだったが、そう感じさせるだけの気配が老いた医師にはあった。


「あの」


 薄い暗がりへ溶かすように、ぼんやりと思案を巡らせていたシドに。

 ルチアが何度目かの――最初に比べると、だいぶん打ち解けた声音の――呼びかけを向けてくる。


「おじさんは、おねえちゃんとは仲良しなんですか?」


「ん-……と」


 子供らしく直截な、そのぶんだけ答えにくい質問が飛んできた。どう答えたものか咄嗟には判じかねて、シドは唸りながら思案する。


「……お姉さんには、オルランドまで来る途中で馬車に乗せてもらったんだ。けど、本当にそれだけだからなぁ――仲がいいと言っていいのか」


「それは完全に他人じゃないのかね」


「せんせいっ」


 ぼそりと零す医師に、ルチアが「イジワルしちゃだめ」と言わんばかりの抗議にほっぺたを膨らませる。

 まあまあ、と宥めに入るシド。


「ただ――いい子だとは思ってますよ。そうでもなきゃ、たまたま街まで行きあっただけの俺みたいなのに、冒険者宿の世話なんてしてやくれないでしょうから」


「おじさん、冒険者さんなんですよね?」


 シドは「うん」と頷く。

 ――そういえば、と。彼女が初対面のシドに対し、開口一番に「冒険者さん」と呼んでいたのを思い出す。


「と言っても、実はこの街には来たばかりでね。クロンツァルトっていう――東の方の国から来たんだけど」


「あ、そこ知ってます。《十字路の国》クロンツァルト! ですよね?」


「そうそう、そのクロンツァルト――よく知ってるね」


「本で読みました。学校の地理の教科書や……あと、おねえちゃんやせんせいが借りてきてくれる図書館の本で」


 声を弾ませて褒めるシドに、ルチアは「えへへ」とはにかむ。


「クロンツァルトからもっと北に行くと、自由商業都市メルビル――メルビルの北には、おおむかしの山妖精ドワーフさんが掘ったふるいふるい洞窟があって、その洞窟を抜けた先には一年中ずっと冬の国があるって書いてありました」


「《大隧道だいすいどう》の先――ミスヴァール凍土地方だね」


「行ったことあるんですか!?」


 途端、興奮に目を輝かせるルチア。シドは後ろめたいような怯みを感じながら、「いや」と苦笑混じりでかぶりを振った。


「俺が行ったのは、大隧道――昔の山妖精ドワーフが掘った洞窟の反対側くらいまでなんだ。そのあたりだと、まだちゃんと四季があって、短いなりに春も夏もあるみたいだったよ」


「そうなんですか……」


 なぁんだ――と、少女はわかりやすくがっかりする。


「ただ、もっと北の果てまで行くと、本当に一年中雪の溶けない冬の土地があるって話は聞いたよ」


「ほんとうですか!?」


「本当。と言っても、そこまで行くとあんまり寒すぎて食べものにも不自由してしまうから、ほとんど人も住んでないとも聞いたけど」


「ふえぇー……!」


 感嘆の息をつくルチア。やがて、もそもそとお尻を滑らせてシドの方へ向き直ると、興奮気味に身を乗り出してくる。


「あの……あのっ。ほかにはどんなところに行きましたか? 東の頂の魔法国ディオ・クラウドや……《多島海アースシー》って行ったことありますか!?」


「あー……いや。そっちは、まだ」


 子供の期待に添えられないのがたいへんいたたまれない。

 とはいえ、こうした時に咄嗟の嘘なり法螺ほらなりをぶち上げることができないのが、シド・バレンスという男の性格であった。


「ただ……以前にパーティを組んでいた冒険者仲間が、頂の魔法国ディオ・クラウドの契法学院へ留学しに行ってるんだ。だから、もし次にその子達と会うことがあったら、東の話も聞けると思う」


 《ティル・ナ・ノーグの杖》の探索を終えた後、シドとは別々の道へ進むこととなった若い二人の冒険者。

 ミリーも、アレンも、今頃どうしているだろう――きっと、もうとうの昔に留学先であるグランズベイル契法学院に到着して、ミリーは本格的な勉強に取り掛かっていることだろうが。


「いいなぁ……」


 心から、羨ましそうに。どこか切ない響きを帯びた羨望を零し、ルチアは睫の長い瞼を伏せる。

 彼女はそんな風にして、閉じた瞼の内側へ、遠い国の空想を思い描いていたようだった。


「……冒険の話、好きなのかい?」


 シドが問いかけると。はたと目を開いて、ルチアは顔を赤くしながら、こくこくと何度も頷いた。


「うち、冒険者さんの宿屋さんだから……おとうさんとおかあさんもむかしは冒険者で、だからいっぱいお話を聞かせてもらってました。遠い国のおはなし」


「だから、俺のことも冒険者だって、すぐに分かったのかい?」


 ルチアは恥ずかしそうに顔を赤くしながら、コクンと頷いた。


 ――少し想像を巡らせれば、それは容易に想像できることだった。

 そも、《忘れじの我が家》亭は連盟のリストに名前の記載がある冒険者宿で、サティアとルチアはここで暮らしている。


 おそらくはサティアがそうだったように。往時の冒険者達と彼女の間に親交があったとしても、何らおかしなことはない。


 ただ、ルチアはシドを――武器も鎧も身につけていない、持っているものと言えば予備の短刀と財布くらいしかなかったシドを、出会いがしらに冒険者と呼んだ。


 これは自慢にもならないことだが、冒険者らしい装備の一切を外した時のシドは、街のその辺にいるおじさんと間違われるくらいに冒険者らしさを欠いている。彼女の側に冒険者の気配にがあったとしても、それでもその直感をもたらしたのは――ルチア自身の観察力、その賜物であるだろう。


 たぶん、彼女は聡い子だ。

 聡くて好奇心の強い、まだ見ぬ遠くの土地に空想を馳せる女の子。


「あのっ。おじさん、他に――」


 ――と。

 ルチアがさらに話を続けようとした、その矢先に。


「ただいま――」


「おねえちゃん!」


 からんからん――と、ドアベルを鳴らす音に続いて。玄関を開け、サティアが帰って来た。

 ルチアがぴょいと椅子から飛び降りて、帰ったばかりの姉を迎えに出る。


「おねえちゃん、お帰りなさい! お客さん来てるよ?」


「客? 客って――」


 怪訝に眉を顰めながら、それまで伏せ気味にしていた顔を上げ。

 カウンターに目を向けた瞬間、その面からすぅっと表情が抜け落ちるのを、シドは正面から見た。


「こんばんは、サティア。……お邪魔させてもらってる」


「シド・バレンスさん。冒険者さんなの! おねえちゃんにご用があるって――」


「なんでいるの」


 声を弾ませた妹の言葉も聞こえなかった様子で。

 サティアは極限まで冷え切り、尖った声で唸る。


「なんで、あんたがここにいるの――おじさん」




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