187.宿屋、《忘れじの我が家》亭にて。壮齢のお医者さんと、かわいい看板娘さんに出会いました。


 『Closed』の看板がかかった玄関の扉は、不用心なことに鍵がかかっていなかった。

 瀟洒なつくりの取っ手を握って押し込むと、それだけで宿の玄関はあっさりと開いた。


 一階の――往時は酒場兼宿屋であったのだろう広い空間へ入ると、西へ傾いた日差しの差し込むその場所は灯りがないために薄暗く、停滞した無音が満ちていた。

 机と椅子は隅に寄せられ、カウンターの向こう側に佇む棚の扉は几帳面に閉じられている。


 だが、それらは決して荒れてはいない。

 埃やゴミは綺麗に掃き清め、あるいは拭い去られて、そこは今晩からでも酒場を開くことができるだろうくらい、清潔に保たれていた。

 食器や酒瓶の類もすべて棚へとおさめられ、ただ、カウンターの上にはガラス瓶の霧吹きが一つだけ、ぽつんと取り残されたように置かれていたのが目に留まった。


 何となしに近づいたその瞬間、酒場の空気にはそぐわない、つんと鼻をつく湿った刺激を鼻先にかぎ取った気がして、シドは反射的に顔をしかめかけた。



「――どちら様だね?」



 奥から声がかかった。

 声のした先を見遣ると、そこにいたのは壮齢の男だった。

 白髪の混ざった黒髪を短く刈り、中背ながら屈強そうな太い手足をしていた。

 うさんくさげに目を眇めてじろりとシドを睨む男は、洗いざらしのシャツとズボンという上下の上に清潔そうな白衣を羽織り、首に聴診器をかけていた。


 ――医者だ。


「表に下げた看板が見えなかったのかね。ここはやってないよ」


「ああ、いえ。ええと――」


 ――だが、この医師は何者だ?

 サティアの関係者なのだろうか。だとしても、どうして医者が?


 中途半端な愛想笑いを広げながら、その実、思いがけない相手との遭遇に、シドは咄嗟に返す言葉を思いつけずにいた。その間に、うさんくさいものを見る医師の目がじりじりとその度合いを強めていく。


「せんせい、おねえちゃん帰ってきたの――?」


 ――と。

 宿の奥から呼び掛ける甘い声は、ちいさな女の子のものだった。

 ぎょっとして、弾かれたように医師が振り返るその先から、白い薄手の寝間着姿の女の子が、ひょこりと顔を出した。


 こちらは、年の頃は十歳かそこらだろうか。ミルクティーを思わせる飴色の髪を肩口に届くほどまで伸ばした、雪柳を思わせて痩せた小柄な女の子だった。睫の長い垂れ気味の眦はおっとりとして大人しやかだったが、可憐に整ったその目鼻立ちは、シドに記憶にある一人の少女のそれと、確かに重なるものがあった。


「ルチア、部屋に戻っていなさい」


 医師が声音を厳しくする。

 だが、ルチアと呼ばれた少女はバーカウンターの傍にいるシドに気づくと、おっとりした眦をまんまるに見開いた。


「あのっ。冒険者さん――お、お客さんですかっ?」


「え? ああ、うん……そうだね。そういうことになるのかな」


「わ。えと、あの」


 女の子は顔を真っ赤にしながら、自分の寝間着姿とシドとの間であわあわと視線を行き来させていたが――やがて、ウサギみたいにぴょこんと頭を下げた。


「い……いらっしゃいませっ」


「お邪魔してます」


 ちょこまかとして可愛らしい所作についほっこりしてしまいながら、ていねいに頭を下げ返すシド。半白頭の医師は自分のこめかみを指先で押さえながら、嘆くようにかぶりを振った。


「サティア――サティア・イゼットさんに用事があって伺いました。こちらの宿は、彼女の家で間違いありませんか?」


「おねえちゃんのお客さんですかっ?」


 女の子――ルチアは、睫の長い目をぱちくりさせる。

 所作のせいでウサギや野ネズミを思わせる愛らしさが目立つ少女だが、姉のサティアがそうであるように、目鼻立ちの整った顔立ちをしている。あともう何年か健やかに成長すれば、街を歩くだけで衆目を引く、可憐な美少女に育つことだろうと思わせた。


「ええと……おねえちゃんは出かけていて、まだ帰ってきてないです。お客さんは、おねえちゃんの、その」


「この街に来るとき、お姉さんの馬車に相乗りさせてもらったんです。それから、こっちで拠点にする宿の紹介をしてもらったり……今日はその件で、お姉さんに話したいことがあって来たんですけど」


 そう説明すると、ルチアの顔が安堵でほっと明るくなる。


「すぐ戻ってくると思います。あの……よかったら、おねえちゃんが戻るまでこちらで待っててください」


 そう言って、ルチアは椅子と机がまとめられた隅の一角へぱたぱたと走っていく。

 意図を察してその後を追いかけたシドは、彼女が手をかけた椅子を、一緒に持ち上げた。


「ありがとう。この椅子、俺も一緒に運ばせてもらっていいですか?」


「あ、はいっ……ありがとう、ございます」


 あたふたと顔を赤くしながら、ルチアはぺこりと頭を下げた。



「あの」


 カウンターまで持っていった椅子に、シドが腰を下ろした時。おずおずとこちらを見上げながら、ルチアが訊ねてきた。


「飲みもの……なにが、いいですか?」


 シドは咄嗟に言葉の意味を判じかね、目をぱちくりとさせていたが。二階まで吹き抜けになった高い天井を仰いで短く黙考し、それでようやくひらめくものがあった。


「じゃあ、ミルクがあれば、それを」


 言いながら、銀貨を二枚差し出す。沿海州の共通貨幣であるクロラ銀貨である。

 ルチアは最前のシドがそうだったように、睫の長い目をぱちくりさせて、びっくりした仔猫みたいな顔で銀貨を見つめていた。


「あ……もしかして、これじゃ足りなかったですか? ここ酒場だし、てっきり注文オーダー取りかと思ったんですけど」


「ふえぅっ? あ、えと……ご、ご注文うけたまわりました。すぐにおもちしますっ!」


 子供らしい頬を薔薇色に上気させながら、少女はぱたぱたとカウンターの向こうへ駆け込んでいった。

 その背中を――カウンターの向こうに隠れた後は、その足音を――追って視線を滑らせるシドを。酒場の隅で壁に背中を預けた医師は、腕組みしながらじっと睨んでいた。明らかな監視の目である。


「おまたせしましたっ」


 その間に。

 なみなみとミルクを注いだ木製のジョッキを両手で持って、ルチアがカウンターの反対側から戻ってきた。


「ご注文のミルクですっ……あの、牛乳です」


「ありがとう」


 礼を言ってジョッキを受け取り、口づけて傾ける。舌を滑り喉へと流れ込むミルクは濃厚に甘く、あらかじめ冷やしていたものなのか、喉に心地よい冷たさをしていた。

 そんなシドの様子を、傍らでじっと見つめるルチア。


「――何か?」


「はい。おじさんも――ええと」


 ふと言葉を途切れさせたルチアは、年上の男であるシドを『おじさん』と呼んでいいものか、迷ったようだった。

 そんな少女の稚い心配りが、『おじさん』のシドにはたまらなく微笑ましくて、くすぐったい。


「おじさんに何かご用ですか、ウェイトレスさん?」


 呑気な笑顔で応じるシドに、ルチアはほっと表情を緩める。


「おじさんも好きなんですか? 牛乳」


「ん、好きですよ。山羊のやつもよく飲むけど、牛乳が一番好きだなぁ」


「わたしも牛乳、好きです。あまくっておいしいから……あ、栄養もあるんですよ?」


 おずおずとしていた表情を明るくして、ルチアが声を華やがせる。


「牛乳は栄養がいっぱいだから、毎日飲むといいんだって……せんせいがいつもゆってます」


 ――医師せんせい。シドは壁際に立つ医師へ、一瞬だけ視線を傾ける。

 そうなんだ――とルチアへ相槌を打ちかけて、そこで不意に思いつく。


「なら、牛乳もう一杯。注文お願いしてもいいですか?」


「?」


 きょとんとして、小鳥のように首をかしげるルチア。おろおろと不思議そうに視線を走らせるその先――シドのジョッキの中身は、まだ半分も減っていない。

 シドは笑って言う。


「一人で飲んでても味気ないから、かわいいウェイトレスさんにも御馳走です。もし、ご迷惑でなければ、御相伴など願えますか?」


 冗談めかして言うシドに、ルチアは顔を真っ赤にして、あわあわと恥じらった。


 そんな物慣れない様子がおかしく、ついうっかりと笑ってしまいながら――シドは、壁際の医師へも呼びかけた。


「よければ、あなたもご一緒にいかがですか」


「私は結構だ」


 にべもなかった。撥ねつけられる格好となって、シドは苦笑する。

 無論――素性の知れない客など警戒されて当然であるし、つまりはこうした医師の態度は、無理からぬものではあるのだが。


 ――ともあれ。目を白黒させながらカウンターの向こうへ走っていくルチアの背中を見送って。

 シドは彼女の――それから、念のため医師の分の椅子も取りに、酒場の隅へと歩いていった。


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