191.間章:再びユーグ達、《ヒョルの長靴》の話――《淫魔の盃》亭の女主人の目論見に関するいくつかのこと


 陽が大きく西へと傾いた、夕暮れの頃合い。

 ユーグ・フェットとロキオム・デンドランの二人が指定された時間に《淫魔の盃》亭の奥まった一室へ入ると、宿屋のそれとは到底思われない豪奢な設えの応接には、上座のソファにしどけなく座った女主人と、その後背に控える巨躯の男――おそらくは彼女のボディガードなのだろう、私兵が一人いた。


 上背があり、かがまなければ部屋の入り口も通れないほどの巨漢である。

 得物として背負った巨大な槌矛メイスはほとんど金棒のようで、新調したばかりのロキオムの戦斧バトルアクスよりさらに重量がありそうだった。


「約束通り、呼ばれてきたが」


「時間ぴったりよ。さすがは一流冒険者の貫禄というところかしらね――じゃ、行きましょうか」


 てのひらで弄ぶようにしながら眺めやっていた懐中時計の蓋をパチンと閉じて。女はソファから腰を上げた。

 女主人と用心棒の後にユーグとロキオムが続く形で、宿の裏口から外へ出る。


「そういえば、まだ一度も訊いていなかったな」


 人気ひとけのない路地を進む間に、ユーグは女主人――娼婦そのもののドレスの上にファー付きの毛皮のコートを羽織った彼女の背中には、そう呼びうるだけの威厳があった――の背中へ問いかける。


「依頼は商談の用心棒だと言っていたが。あんた、この物々しさで一体何を買おうってんだ?」


「宿よ」


「宿?」


「そ。冒険者宿。《忘れじの我が家》亭っていう、この街ならどこにでもあるような冒険者宿」


 眉をひそめるユーグに、女主人は振り返りもせず答えた。


「ティンジェル街にある冒険者宿でね。もう何年もずっと閉めてるんだけど――そこを買いたいの。前から何度か声をかけてるんだけど、持ち主のお嬢ちゃんが聞き分けのない子でねぇ」


 ――ティンジェル街。

 オルランド中央市街でも南東寄りに位置する、古くからの下町だ。


 《英雄広場》に程近いドラーキオン街と並び、複数の冒険者宿が軒を連ねる街でもある。歴史ある大店おおだなが並ぶドラーキオン街と比べ、ティンジェル街の宿は中堅以下のこぢんまりとした宿が多くを占め、またオルランドを訪った冒険者の多くが最初に拠点を構える街でもあった。


 北壁に程近い歓楽街に接した《淫魔の盃》亭とは、《英雄広場》をはじめとするいくつかの広場を挟んで真逆というべき位置にある。


「サティア・イゼットっていうお嬢ちゃんなんだけど――自分達じゃ使いもしない、もう使い道もない宿だってのに、ちっともこちらの話を聞いてくれないのよ。いい加減うんざりしちゃって」


「……それで、この物々しさか」


「そうよ? どんな商談をするにしても、まずは素直にテーブルについて、こちらの話を聞いてもらわなくっちゃねぇ」


 にんまりと笑みを広げる女主人。ユーグはひっそりと息をついた。


「つまりは、《淫魔の盃》亭ティンジェル街別館ってとこか――あんたのとこはたいそう儲かっちゃいるんだろうが、しかし何だってわざわざ、そんなとこに支店を出す気になったんだ?」


 《淫魔の盃》亭は色町に接し、その実質的な所有者はさる大きな娼館のオーナーだ。

 故に《淫魔の盃》亭では、色町で買えるものなら何でも手に入る――酒も、薬物クスリも、博打も、女も。ウェイトレスや掃除婦という体で働く《淫魔の盃》亭の女従業員は、いずれも肌も露わなドレスで飾った、娼館の娼婦たちである。


「最近じゃ、この街オルランドも随分とお上品になっちゃってねぇ」


 女主人は、「くふっ」と含むような笑い声を立てた。


「色町もすっかり締め付けが厳しくなって、女も薬物クスリも余りがちなのよ。あたしらみたいなのは、商売あがったり」


 哀れっぽさを装って嘆くその言葉がどこまで真実なのかは、推測するよりほかになかったが。

 ただ、おそらく『余っている』のは事実なのだろう。女主人は――ひいてはその飼い主たる娼館のオーナーは、その振り向け先を探しているということだ。


「人手が余ったからってクビという訳にいかないのが、渡世の義理というものでしょう? そうした余り女どもの働き先を、探してやらなきゃいけないのよね――雇用主としては」


「確か、都市計画に定められた色町以外での売買春は、トラキア州でも違法のはずじゃなかったか?」


「あら、詳しいのね?」


 女主人は最初、驚きに目を丸くし、それから眦を細めて面白がるように笑みを深めた。


 《遺跡都市》オルランドは、沿海十二州のひとつたるトラキア州の都市だ。

 当然、州の定めた法は、このオルランドへも適用される。


「メルビルから来たはずの冒険者が、トラキアの州法まで知っているだなんて。一流の冒険者は随分とお勉強家なのねぇ」


「お褒めいただき光栄、と言いたいところだが――実際そこんとこはどうなってんだ? あんたに手を貸すのがやぶさかって訳じゃないが、それで州の定めた法に抵触するってハナシなら、こちらとしちゃ困るんだよな。後々のオルランド滞在にまで響きかねん」


「ええ、ええ、もちろんその程度はあたしだって承知の上よ。よそ者のユーグ・フェットにあらためて言われずともねぇ」


 気分を害した風もなく、女は笑みを含んでうそぶく。


「女どもには、ウェイトレスや掃除婦として働いてもらうわ。力仕事に男どももやらなくっちゃいけないかしらねぇ? そいつらの稼ぎは、今までよりだいぶん減ってしまうでしょうけど――職をなくすよりは、まだしもマシってものじゃないかしら?」


「……よくも言う」


 女主人の言いように、ユーグは薄く笑った。

 そこに含まれた揶揄の気配を感じ取ってか、巨漢の私兵がじろりとユーグを睨む。


「《淫魔の盃》亭のウェイトレスや掃除婦どもってのは、つまるところ春をひさぐどもだったじゃねえか。つまりあんたは、新しい宿でも同じことをしようってつもりなんだろう? 色町ならざる下町でよ」


 それは言わば、色町の外に娼館を構えるのと同じ。

 明確に、トラキア州の法へ触れる行為である。


 ――だが、


「とんでもない――あたしは真っ当な宿屋の経営者、冒険者宿の女将なのよ? お上の法に背いて春をひさごうだなんて、そんな恐ろしいことこれっぽっちも考えちゃいないわよ!」


 脚を止め、首をねじって振り返る女は、ねっとりとした笑みをいささかも崩すことをしていなかった。


「ただ――世の中には、ってものがあるでしょう? 宿のウェイトレスや、使いっ走りの男衆を憐れんで、お客様というのは、そう珍しくもないものではないかしら」


 あまりにもあけすけなその言い草に、ロキオムは鼻白み、ユーグは口の端を歪めて笑みを深くする。


「――そういう惚れっぽいお客様が、給料が減って困窮してしまったを慈しみ、そのをしてくださるというのなら。あたしとしては、ありがたいの一言に尽きるわねぇ。お客様がたのやさしさに、感謝を捧げるばかりというところよ」


 ――ゆえに、それは売春ではなく、買春ではない。

 自由恋愛という、金銭の支援。そういう立てつけになる。


 両者の関係に、宿は決して立ち入らない。ただ、出会いの場が宿だというだけ――表向きは、そういう体裁になる。


 オルランドという都市の特異性ゆえに、冒険者宿は――そのネットワークは、市政に及ぼす影響力がきわめて大きい。冒険者宿の経営に関する法の取り締まりは無論存在するが、実態としては骨抜きにされている部分が多くある。


 《淫魔の盃》亭におけるいくつかの『商売』は、その隙間を縫う形で成立している。

 そして、この女主人は、その仕組みを色町の『外』へと広げるつもりでいる。


「――そいつは、さぞ儲かることだろうな」


「馬鹿言わないでちょうだいな。どうやって儲けるって言うのかしら――従業員達の『自由恋愛』よ?」


 白々しいことだった。

 だが、それら実情を暗黙の了解に置いて、現状は成立している。


 ロキオムは露骨に鼻白んでいたが――ユーグからすれば、そんな爛れた実情などはどうでもいいことだった。


 やりたい者がやりたいようにやればいい。

 こちらの邪魔にならなければ、それでいい。


「成功の暁には、報酬は弾んでもらうぞ?」


「ええ、もちろん。《ヒョルの長靴》の新入りには、うちの一流どころを世話してあげるわ」


 それを以て、この場で明かされたすべてに再び蓋をして。

 くるりと前を向いて歩みを再開する女主人に続いて、ユーグは日暮れ時の路地を進んでいく。


「――件の宿。《忘れじの我が家》亭といったか」


 ふと。何かを思い立ったように、ユーグが問いかける。


「もう何年も店を閉めていると言ったが――何だってそんなことになったんだ」


「亭主夫妻が行方知れずになったのよ」


 女主人は、笑みを含んだ声であっさりと答えた。


「宿にいた冒険者達も、それで先がないと早々に見切りをつけたみたいでね。揃って宿を去り――今はもう、冒険者宿としては死んだも同然よ」


「宿の亭主夫妻が行方知れずと言ったな」


 ユーグは淡々と、問いを重ねる。


「まさかと思うが――そいつもあんたの仕込みじゃあるまいな?」


「まさか」


 女は笑った。


「あたしは何もしてないわ。偶然よ、それは――」


 そう、笑い飛ばす調子で言い放つ女の声には――そのくせどこか、まるで魔除けの印を切るような、凍り付くように切実な、の響きが含まれていた。


「――それだけは、誓って。本当にね」


 ……………………。

 …………………………。


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