209.交渉成立。そして一件落着――の、その後に。①
宿の売買に関する正式な書状の取り交わしは、《諸王立冒険者連盟機構》オルランド支部の一室で、支部職員立ち合いのもと正式に執り行われた。
立ち会いの職員――《連盟》オルランド支部の副支部長たるサイラス・ユーデッケン立ち合いのもと売買契約書にサインを記したサティアは、瀟洒な仕立てのテーブルを挟んで体面に座るシドへ、彼からの署名を待つばかりとなった契約書を差し出した。
「ここに、サインを」
「あ、うん。ここだね……わかった」
三枚で一組となった契約書は、一枚がシドの、一枚がサティアの手元へ、そしてもう一枚が《連盟》の金庫で証拠として厳重に保管されるものである。
その一枚一枚に緊張の面持ちでペンを走らせたシドは、サティアの倍以上の時間をかけて、どうにか署名を書き終えた。
そして、
「――確かに。これを以て本契約が正式に取り交わされたことを、《諸王立冒険者連盟機構》オルランド支部副支部長、サイラス・ユーデッケンが確認いたしました」
その、厳かなひと声を聞いて。
シドは大きく天を仰ぎ、詰めていた息を吐き出した。
「終わった――……!」
「何も終わってないですよ、オーナー」
一仕事終えた安堵に、頭のてっぺんまで包まれているシドに向かって。対面のサティアが鋭くいった。
未知の何かを前にしたかのようにぎょっとして、シドは弾かれたようにサティアを見る。
「……サティア?」
「本契約の締結を以て、《忘れじの我が家》亭は正式にオーナーであるシド・バレンス氏の持ち物となりました。宿の実質的な差配にあなたの手を煩わせることはしないつもりですが、最終的な決定権がオーナーのもとにあることまで忘れてしまわれては困ります」
「いや。待って。サティア……どうしたの急に。そんな、堅苦しくしゃちほこばって」
「本契約の締結を以て、わたしは《忘れじの我が家》亭の従業員となりました。これよりわたしは、オーナーの部下です」
戸惑うシドへ。
睫の長い瞼を静かに伏せて、サティアは道理を語る調子で淡々と言う。
そうして物静かにしていると、若く勝気そうな少女の面は、恐ろしく澄んだ玲瓏なる美貌として映った。
「当然、わたしにもそれに相応しい振舞いというものが求められるでしょう。また、これまでの多大な非礼に対しても、あらためてのお詫びを――」
「待って! 何かこう、もうやめて! 怖いから!!」
「そういう訳にもいきません。仮にもオーナーである貴方には、外向きの対面というものがあります」
「そうかもしれないけど! いや、それはサティアの言うことの方が全面的に正しいのかもしれないけど!! その……ここは事情を知ってる身内しかいないからさ。せめてそういう場所では、もう少し打ち解けてほしいなぁー……というか」
「身内……」
サティアは片方だけぱちりと目を開け、二人の間に立つ形で立会人を務めていたサイラスをちらりと一瞥した。
そして、やれやれとばかりに息をつく。
「……わかった。おじさんがそこまで言うなら、あたしも妥協しといたげる」
「ありがとう……!」
本気で拝み倒してくるシドに、サティアは若干引いた。
「……そこまで気味悪がられると、あたしだってちょっとは傷つくんだけどな」
「気味悪いとかそういうのじゃなくてさ。何て言うのか、こう……何て言ったらいいか」
「あ、うん。いいデス、もう。おじさんがそうしたいっていうなら、べつにあたしからつけるケチはないからね」
言葉に窮して唸るシドを、そう宥めて。サティアはあらためて、高い位置に頭がある、サイラスの巨躯を見上げた。
「おじさん――じゃなくて、シド・バレンスさんのお身内だったんですか?」
「血縁、という意味でしたら違いますがね。シドさんからは、ひとかたならぬ恩を受けた身の上です」
「ははぁ、そういうこと」
――同類、ということか。
ひとまずのラベリングを済ませ、早々に今後の接し方を検討しはじめる。
「しかし、シドさん。所属先の宿決めにお困りだという話はセルマから聞いていましたが……まさか、宿ひとつを買い付けてしまうとは。私には想像もつかなかった遠大なる解決法です、さすがはシドさん!」
「まあ、その……いろいろと事情というか、あってね。そんな大層に褒め上げてもらうようなものじゃ、ないんだけどね。うん」
太鼓持ちみたいな台詞を大声でのたまいはじめる副支部長と、明らかに気が引けているシド。その短いやりとりで、サティアはこの二人の間柄がおおよそ理解できた気がしていた――至極、大雑把に、ではあるが。
「どうでしょうシドさん。これから少しお時間をいただいて、また一緒に食事でも……今回の顛末について、お話を伺いたいこともありますし」
「お昼かぁ。サイラスが大丈夫なら俺は――」
――と。そこまで言いかけたところで、不意にサティアの方を伺うように見てくる。サティアは答えた。
「今日は書類の取り交わしだけだから。おじさんにしてもらうことはもう何もないよ。あとはあたしがやっとく」
「そっか……ありがとう」
いえ、と答えて。席を立ったサティアは、あらためてサイラスへと向き直る。
「本日のところは、私はこれで失礼いたしますが……ユーデッケン副支部長とはこうして顔を合わせるご縁をいただきました。いずれの機会に、お話などさせていただければ」
「いいですね。ご都合よろしい時などあれば、いつでも声をかけてください」
にっこりと可憐に微笑むサティアに、サイラスは鷹揚に頷いて返した。
「――では、オーナー。私はお先に失礼いたします。どうぞごゆっくり」
「あ、うん……ほんと、今日はありがとう、サティア」
一瞬で楚々とした風情を作り、一礼を残して先に退出するサティアを、シドはぎこちなく見送るばかり。
少女の見事な『外面』に、シドは完全に気圧されていたようだった。
◆
《忘れじの我が家》亭での一連の顛末から、さらに二日が過ぎていた。
ルチアへはその日のうちに霊薬アニマでの治療を施し、しばらくは医師による経過観察を続けることで落ち着いた。
《忘れじの我が家》亭は、正式にシドの手に引き渡された。
『代金』として用意したものの大半は、サイラスに預けた契約書と共に、《連盟》の金庫で保管という扱いになった。
『不用意なとこに置いといて、なくなったら困るからね』
――というのが、サティアの意向だった。
《淫魔の盃》亭の女主人からの動きは、今のところない。
サティアの手当をする間、シドは医師に許可を仰いで宿の一室を借り、疲れ果てていたフィオレを運んで休ませていたのだが――借りた一室まで運ぶ間、フィオレは妙に挙動不審で口数も多くなっていた――彼女をベッドへ寝かせて酒場兼食堂まで戻った時には、女主人も用心棒も、その姿を消していた。
今のところは、その後どうといった動きの気配はない。
完全に諦めてくれたかまではさすがに分からないが、ひとまずの区切りはついたと見込んでいる。
なお、シドがその確信を得るに至ったのには、もうひとつ理由があった。
『よう』
サティアとの『商談』が妥結した日。その夕方である。
旅の荷物を背負ったユーグとロキオムの二人が、《忘れじの我が家》亭へと訊ねてきたのだった。
『急で悪いが、しばらくここに置かせてくれ。前の宿には、もういられなくなっちまったんでね――部屋の空きはあるだろう?』
――曰く。
一夜明けて目を覚ました女主人は、たいそうな荒れようだったそうである。
夜のうちに部屋を引き払って早々に逃げ出していたユーグ達が、直接その様を見た訳ではなかったが――件の宿の冒険者を捕まえ、食事と小銭で釣って聞き出したところによると、
『早々に逃げを打った俺とロキオムに対しても、大層お怒りだったそうでな。あそこに残っていたら何をされるかわかったもんじゃないが、ここなら自慢の用心棒を返り討ちにされて、這う這うの体で逃げ帰った場所だ。よっぽどでもなけりゃあ、しばらくは立ち寄る気にもならんだろう』
――と。
そういう訳で、《忘れじの我が家》亭の客室は、開業前から二人部屋のひとつが埋まることとなった。
これは『図らずも』の形ではあったが、シドが正式に《忘れじの我が家》亭へ移るまでの用心棒という意味でも、彼ら二人の存在はありがたくはあった。
シドはフィオレ達を《Leaf Stone》へ送った後、シドは昨日一昨日と《忘れじの我が家》亭に留まって過ごしたが――荷物の残りはまだ《Leaf Stone》の部屋に置きっぱなしだし、エリクセルとナザリの夫婦への挨拶もまだ済んでいない。フィオレとクロの二人の生活拠点をどちらに置くかについても、まだきちんと決まっていない状態だ。
とはいえ、近日中には――少なくとも、シドに関しては――《忘れじの我が家》亭へと、本格的にその拠点を移すことになるだろう。
シドと《忘れじの我が家》亭、イゼット姉妹と彼女たちを取り巻く現状に関しては、おおむねそんな形で落着していた。
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