182.間章:シド・バレンスと別れた後。路傍にて、交易商人の少女と宿の亭主たちの話


 ちいさな商談をひとつ取りまとめ、それから商店街で夕飯の買い物を済ませた頃には、陽は既に西へと傾き始めていた。

 ずっしりと重たくなった頑丈な紙袋を胸に抱えて。サティアは律動的な足取りで、家路へとついていた。


(今晩は、ルチアの好きなの作ってあげようかな……)


 ここのところ、妹の容態は安定していたようだった――五日前に一度、目の前でひどい発作があったのを除けば、だが。ただ、それはサティアがたまたま間が悪い時に立ち会ってしまったというだけで、おおむね元気ではあるのだろう。そのはずだ。


 ここしばらくは、食欲もある。

 医師せんせいは小康状態だと言っていたが、それでも妹は元気だ。


(……大丈夫)


 次の仕事も決まっている。


 妹の薬代を三年分先払いして、なお当座は焦らず過ごせるだけのお金もある。

 お金があるから、また留守の間にルチアを見ていてもらえるようお願いもできる。今年の税金だってまとめて払ってやったし、あとは向こう三年分は支払えるだけの額を、当座の生活費と別に取り置いてある。


 ふたりで食べていくご飯にも、妹を寝起きさせる家にも、困らない。

 ルチアだって元気だ。一頃はほんとうにひどかったのを思えば、ここしばらくは随分よくなったような気がする。


 何もかもが、上手くまわっている――あの箱いっぱいの宝石のおかげだ。あれがまとめてサティアの懐に入ったから、今はお財布が重くって、懐がとてもあたたかい。だから気持ちもあったかい。


 からっぽの懐を捩じ切るように掴んで、死にたいような思いに苛まれることもない。

 死にたいような思いに喘ぎながら、それでも「死ねない」というだけの理由で、地べたを這いずりまわる地獄で足掻くのも、せずに済む。


 ――お金があるって、最高。


 何もかもが宝石のおかげ。竜人さまさま。冒険者さまさまだ。


 ここ暫くは、そんな風でいられたから。

 だから今日なんかは、らしくもないことを喚いて、らしくもないお節介まで焼いてしまった。

 あんなの自分のキャラじゃない――『サティア・イゼット』の在り方なんかじゃ、なかったはずなのに。


(てか、あのおじさん上手くやれたのかな……)


 ――もちろん、それはとっぽいお人よしへのお節介だけが、理由ではなかったけれど。

 見ず知らずのを、サティアのいちばんやわい懐まで近づけたくなかった――そんな危機感ゆえの保身も、同時にあったのだけれど。


「……腕利きなんじゃなかったのかよ。あのおじさんはさぁ……」


 溜息混じりに零す。心から。

 直截に言えば、サティアはあのおじさんに対し、腹を立てていた。


 凡人から懸絶した、圧倒的な暴力を――サティアが欲しくてたまらない、それさえあればもっと、ずっと楽に生きてゆけるような素晴らしいものを持っているくせに、あのおじさんは使い方がてんでなっていない。宝の持ち腐れもいいところだ。


 圧倒的な暴力を持っているくせに、そんなもの自分の手にはちっともないみたいな素振りで途方に暮れていて。まるで、本当にどこにでもいる呑気なおじさんみたいにしょぼくれていたシド・バレンスという男が、サティアには腹立たしくて仕方がなかった。


 サティアはあの男の呑気さを、惨めさや悔しさなど地の果てほどに縁遠い――そんな人生を歩んできた結果だと思ったのだ。焼けつくような羨望と共に、その呑気さの根柢となるものに嫉妬していた。


 だから――その通りでいてくれないと困るんだ。

 思い通りにいかなくてどうしようもなく足掻いている、そんな弱っちいやつみたいなふりを、しないでほしい。


 でなきゃ、物事の帳尻がひとつも合わない。

 おかしいじゃないか。こんなにサティアが羨ましくてたまらないものが、何の意味もないみたいだなんて。だって、


 ――だって、そんなのはあんまり惨めじゃないか。


 まるで、あんたが――


「……サティアちゃん?」


 横合いからかけられた声に、弾かれたように振り返る。

 そうして声の主を見止めた瞬間、サティアは自分が完全に物思いに沈んでいたのを自覚して、ぞっと寒々しい心地になった。


 ――油断しすぎだ。こんなのは。


「なぁんだ……ウェスさんじゃん」


 朗らかな愛想を繕って、サティアは大輪の花のように笑った。

 影が落ちた路地に佇む声の主は、サティアの知った相手だった。

 《Adventurer's INN 灰犬グレイハウンド》の、宿の亭主だ。


「ひさしぶり、何年ぶりだっけ? ウェスさんがうちの宿を出てって以来かなぁ」


「三年ぶりだよ。レックスさんとユミナさんが……サティアちゃんのご両親が、行方知れずになって以来だからね」


「ああ、うん……そだっけ。あの時って、ウェスさんも来てたっけ? やだなぁ、ちっとも思い出せないや。あの時ってさ、ほんとにしんどいばっかりだったから――」


「忘れたふり、しなくていいから」


 せっかく繕ったばかりの笑顔が、軋んで割れる音を聞いた。

 痩せた体躯と面長の顔つきをした宿の亭主は、俯かせた視線を路地の片隅へと突き刺していた。


「あの時のことは……ほんと、後悔してるんだ。オレだって、悪かったと思ってるんだよ。レックスさん達には散々世話になったのに、お返しになることひとつできないでさ。残った君達ふたりのこと、見捨てるみたいにしちまったの」


「……………………」


「ほ、ほんとはさ! できることあるならしてあげたかったよ? でも、あの頃は宿の経営がカツカツで、こっちも余裕なくてさ。いや、今もようやく黒字が出るようになったくらいだし、それこそ君達のこと何とかしてあげられるような蓄えなんて、ずっとなくって……宿にいた冒険者だって、義理人情で動いてくれるような連中じゃなかったからさぁ。だから」


「――善人いいひと面で言い訳しに来たんなら、帰れよ」


 碾臼ひきうすで磨り潰したような、ざらつく拒絶に。

 男は青い顔をして、口を噤んだ。


「いいよ、べつに。謝らなくて……ウェスさんのこと、怒ってないし。てか、べつにウェスさんだけに突っぱねられた訳じゃないしさ、あの時は。だから、特別恨んでるとか、そういうのないから」


「……サティアちゃん」


「それに、おかげでいろいろ、人生経験っていうの? 勉強になったからさ。商売の。だから、もういいよ」


「そんなの……『もういい』って態度じゃないだろ。サティアちゃんみたいなのは……」


「いいって言ってんじゃん。煩いな」


 不貞腐れたような、拗ねたぼやきを零す男の物言いに。苛々と奥歯を噛み締め、きつく舌打ちする。

 もういいって言ってるのに――なのにこっちの態度にまで、いちいち文句をつけるのか。自分の胸が軽くなるように、慈母のように優しく許せとでも言いたいのか。何でそんな注文つけられなきゃならないんだ。


 紙袋を抱えたてのひらに、知らず力がこもりそうになる。

 ――何しに来たんだ、こいつ。一体。


「そんなことよりさ、ウェスさん。あたしが書いた紹介状、見た?」


 その問いを向けた瞬間、男はどうしてか、「ぐっ」と息を詰まらせたようだった。その反応をサティアが怪訝に思う間に、男は重い口を開いて――ひどく渋々と、答えた。


「……見たよ。あの、《くすんだ銀オクシダイズド・シルバー》のおっさんが持ってたやつだよね?」


 知らず、安堵の吐息が零れた。あのおじさんはサティアが言った通り、ちゃんと今日のうちに紹介先を訪ねてくれたらしい。


「……あのおっさん、一体何者? 何なの、あれ。気味悪いんだけど」


 男はぞっと呻いた。

 言葉通り、うそ寒さを覚えたとでもいうように。


「うちの看板と互角とかさぁ……ありえないでしょ、あんなおっさんが。ルシウスは琥珀階位アンバー・クラスなんだよ? 一流どこじゃない。超一流なんだ。それを、あんなうだつの上がらなそうな《くすんだ銀オクシダイズド・シルバー》がさぁ」


 サティアは薄く笑った。

 ――ほら、やっぱりあたしの見立て通りだったじゃないか。


 冒険者としての頂とまでいわれる白金階位プラチナ・クラスのさらに上――冒険者の頂点に立ち、さらにそれと認められるに相応しい功績を上げた者だけが授かる、琥珀階位アンバー・クラス

 あのおじさんは、それと並び立てるくらいの――圧倒的な『力』があるんだ。だからこそ、あんな風でいられる。


「なんか、クロンツァルトの方から来た冒険者なんだってさ。見た目は冴えない感じだけど、結構な掘り出し物でしょ?」


「そういうこと訊いてんじゃないんだけどね、オレはさ」


 上ずった声で苛々と唸る、その様がひどくおかしかった。


「なんなのあのおっさん……サティアちゃんの何なの?」


「べつに何でも? ただ、ラーセリーからこっちへ戻ってくる時、船で知り合いになっただけのおじさんだよ。オルランドまで一緒したけど、つきあいって意味ならそれくらい」


 実際、サティアが彼に関して知っていることなど、なきに等しい。たまたまオルランドへの帰路で知り合った腕利き。その程度のものだ。


「それ以外のことは、あたしもよく知らない。ああいう感じのおじさんだし、訊いてみたら教えてくれるんじゃない?」


 否とも応とも言わず。男は押し黙った。

 ひどく刺々しい沈黙が、日暮れ時の路地に漂う。


「……困るんだよね、ああいうの」


 やがて――男は焦燥に似た感情で焼けた、そんな声で唸った。


「あんなさぁ……《くすんだ銀オクシダイズド・シルバー》なんて紹介されても。そりゃ、腕は立つのかもしんないよ? でもさぁ、真っ当な冒険なんかしてないから、《くすんだ銀オクシダイズド・シルバー》なんだよ? まともな冒険者じゃないんだよ、あのおっさんはさぁ……」


 ぶつぶつと幽鬼の形相で独り言ちていた男の声が、次第にその声量を増してゆく。


「冒険者宿だって、商売なんだよ? 体面とか、体裁とか、評判ってもんがあるんだから……だからさぁ、困るんだよねぇサティアちゃん。『あんなのまでかき集めなきゃやってけない宿なのか』なんて思われちゃいそうなの、紹介されてもさぁ……!」


「――そういえばウェスさんって、うちの宿で冒険者だった頃にしょっちゅうなくしてたよね。紋章バッジ


 羽音のように耳障りな声が、ぴたりと止んだ。


。しょっちゅう――ってほどでもなかったかな。でも印象に残ってんだ。仕事中になくしちゃったって言って、そのたびにどっかで新調してもらってたの。あのひと毎回何してんだかなぁって、あたしずっと呆れてたんだけど」


 薄く微笑みながら。サティアは流し目を送るようにして、男を見遣った。


ねぇ、ウェスさん? でも、なんだかすごーくわかっちゃった感じするよ。

 ろくな冒険してない、《くすんだ銀オクシダイズド・シルバー》だなんて周りに思われちゃったらさ。お仕事大変になっちゃうものねぇ――」


「うるさいなっ……!」


 喚いた。

 ふうふうと荒い息をつき、きつく固めた拳を震わせている男の有様に、サティアは少し溜飲が下がった心地を覚える。

 そして、そんな自分の心の動きに、自分で嫌気がさした。


「ちゃんと、おじさんの面倒見てあげてね。あのひとアホかってくらいのお人よしだけど、掘り出し物の、腕利きだから。きちんとお仕事世話してあげたら、すぐに宿の看板にだってなれちゃうかもよ?」


 それだけ言い置いて。

 路地に留まる男をそのままに、その場を去ろうとして――不意に響いた別の足音に、サティアは踏み出しかけた足を止める。


「お取込み中だったかしら?」


「……別に?」


 男のいた路地の奥から、さらにもう一人が姿を現す。

 ぎょっとして振り向いた男の体を押しのけるようにして前に出てきたのは、娼婦風のドレスの上に外套コートを羽織った、年嵩の女だった。

 年嵩ではあるが、肉感的な肢体は蠱惑的に爛熟らんじゅくし、若く瑞々しい生娘とは異なる色艶を宿した――そうした類の女だった。


「あ……あんた、《淫魔の盃》亭の」


「こんばんは、サティア・イゼットさん。この前のお話、考えてもらえたかしら?」


 呻く男を路傍の石のように無視して話しかけてくる女に、サティアは眉をしかめた。


「あたしは、あんたと話すことなんかないんだけどな」


「お嬢さんになくても、あたしにはあるわ。大切な商売のお話が――今日こそいいお返事が貰えると、嬉しいわねぇ」


 薔薇のようにふっくらと赤い唇を依美の形にして、女は一方的に言う。



宿ための――大切なお話に、ね?」



 ……………………。

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