八章 あらためて、おっさん冒険者再始動!――のために、まずは冒険者宿を決めないといけないという問題
172.幕間:ある姉妹の話
「はい――じゃあ、いつものとおり、ゆっくり息を吸って」
ベッドに腰かけた少女が彼の言うとおりにする間に、医師は少女の喉へ聴診器を当てた。喉の呼吸音を聞き、次いで寝間着をはだけた胸元へ、数か所。同様に聴診器を当てる。
次いで、背中側へ。もぞもぞと膝を滑らせるようにして後ろを向く少女の背中へ同様に聴診器を当てて、胸の音を聞く。
「――うん。もういいよ。服を直して」
首をねじりながら、こくりと頷いて。
少女はもぞもぞと腰まではだけていた寝間着を直した。
問診。
口を開けさせて、喉の具合を。
体温計で熱を測ってもらう間に、日々記録してもらっている体温の記録を見遣り、薬が日数分減っているのも確かめる。
そして、聴診器で胸の音を確める。
できることなど多くはない。せいぜいがその程度だ。
半白の髪を短く刈った医師は、今年で五十五歳になる。州都の大学を出て医師になってから三十年余りを、故郷であるオルランドのありふれた下町で、診療所の開業医として勤めてきた。
だから、今年で十一になる目の前の少女のことは、彼女が生まれたころから知っている。少女を取り上げた産婆は、医師の病院で看護婦としても働く、医師の妻だ。
「今日は調子がいいようだね。ここしばらくはずっと天気もいいし、ルチアが毎日きちんと薬を飲んでいるのもよかったんだろうね」
「……おねえちゃんが、帰ってきたから」
カルテにペンを走らせながらの雑談に、少女はぽつりとそう答えた。はにかむように緩んだ頬が、内心の嬉しさをあらわすように赤らんでいる。「そうだね」と応じる医師の頬も、自然と緩んだ。
「今くらい調子がいいなら、無理にベッドで寝ていなくてもいいね」
「ほんとに?」
「ああ、本当に。無理のない範囲で身体を動かして、あとは晴れた日には外に出て、お日様の光を浴びなさい。――と言っても、この前みたいに宿の掃除は駄目だよ。埃を吸ってしまうから、喉によくない」
「……おてつだい、したかったの」
「わかるよ。でも、それで調子を悪くしてしまったら、お姉ちゃんやモニクおばさんに却って心配をかけるばかりだ。私も心配だよ」
やんわり窘める医師に、少女は「はぁい」と肩を縮めた。
そんな、健気な少女の頭を撫でてやってから、医師は往診鞄を手に部屋を出た。
廊下へ出て扉を閉めると、『子供向け』の好々爺の笑顔を解いて、大きく息をつく。
「
それと同時に。
部屋の外で待っていた娘――少女の姉がやってきた。
「いつもありがと。これ、今日の診療代」
そう言って、銀貨を数枚差し出そうとする娘へ。医師はてのひらを向けて、支払いを謝絶する。
「代金は要らんよ。たまたま他の往診で出てきたから、ついでに寄っただけだ」
「でも」
「四日後に、次の分の薬を届けに来るよ。その銀貨は、その時の往診分ってことにしときなさい」
「
さっさと廊下を歩いていく医師の背中に、娘が追い縋る。
「……そういうの、よくないよ。それでなくたって
室内の少女に聞こえないよう音量を潜めて訴える声には、焦れたような響きがある。
負い目の重さに擦り切れた、焦燥の響き。否応なく察せられてしまう真っ直ぐなそれに、医師は敢えて気づかなかったことにする。
「薬だって診察道具だって、タダじゃないんだからさ。取れる代金は、ちゃんと取っとかなくなくちゃだめだよ」
廊下を抜けた先には、大きく開けた広間があった。
否。その言い方では語弊があるだろう。
掃除の邪魔にならないよう机と椅子を隅へ寄せたそこは、酒場――より正確を期すなら、宿の酒場兼食堂だった。
夕暮れ時。
輪郭の朧なる茜色の日差しが差し込む酒場は、ほの暗い。清掃こそしっかりされているが、それ以上の手入れはされていない――そこにあるのは『停滞』の静謐だった。
「ルチアの薬なら、三年先のぶんまで代金を貰ったばかりだろう」
「そうだけど。でもさ」
「サティア」
玄関の扉に手をかけたところで、医師は振り返る。
たたらを踏んで足を止める娘へ、厳しい声を作って言う。
「君は勘違いをしている。そもそも、別に私はタダで患者を診てるわけじゃない。あくまでツケにしてるだけだ――彼らの懐に代金を支払えるだけの金ができたら、その時には厳しく診療代を取り立てるつもりだよ」
「いつ取り立てるのよ、そんなの。そんな余裕あるひと達だったら、端からツケになんかなる訳ないじゃん」
「いずれ、そのうち、だ。ところでサティア、いくら君でも患者の悪口は困るな? 君のことは君が生まれたころから知っているが、こればかりは聞き捨てならないぞ」
「な――ち、違うって
「分かっているよ。君はいい子だ」
慌ててかぶりを振るサティアの頭を、医師はぽんぽんと子供のように撫でてやる。娘はひっかけられたのに気づいて、むっとふくれたが、ごつごつした医師の手を振り払おうとはせず、そのまま撫でられるに任せていた。
「ただ――そうだな。もしも君が、私に対して済まないと思ってくれているなら。どうかひとつだけ聞いてほしいんだが」
「ここから他所に移れって話なら、聞くつもりないよ。あたし」
「……サティア」
娘――交易商人のサティア・イゼットは、頑なな子供のようにぷいと顔を背ける。
「私への診療代や、薬代だけじゃないだろう。様子を見に来るお隣のモニクさんにも、君は金を払っている」
「あたしがいない間は、宿の掃除したりルチアの面倒見てもらったりしてるし。なら当たり前じゃん、お金くらい」
「今は『宿』じゃない。君達の家というだけの場所だ」
「『宿屋』だよ、うちは。今は休業中ってだけだもん」
「そうだね、確かに営業資格はそのままだ……これだけの土地と建物、おまけに宿の営業資格その他の権利。税金だって馬鹿にならないな。サティア、君は全部でいくら払ってるんだ? 君一人で、若い身空で」
顔をそむけたまま、娘はきつく唇を噛んでいた――気づいていたが、だからと言って何も言わずにおく訳にはいかない。
「ルチアのためを思うなら、二人でもっと空気のいいよその土地へ移るべきだ。君が傍にいてあげるのが、あの子にとって一番いい薬になる」
身を乗り出すようにしながら、医師は強く訴える。
「静養しながら暮らすだけなら、今ほど無理して稼ぐ必要もなくなるはずだ。土地も住む家も、現地の医者も面倒を見てくれる
「あたしが、ここにいたいの。ルチアだってそう言ってる――
「片意地を張るんじゃない。だいたい、この前の薬代は一体どういうことだ? 君は交易商人として上手くやっているようだが、だとしてもあの額は異常だ。あんな額の大金を、一体どうやって手に入れた!?」
「たまたま、箱いっぱいの宝石ポンってくれちゃう奇特な客がいたってだけ。真っ当な臨時収入だよ」
「ここのところは交易商人だけじゃなく、運び屋の仕事もしてるそうじゃないか。あれはその稼ぎか?」
ぎくりとしたように、娘の肩が震える。
サティアは苛立った顔で、眇めた目を医師に向けた。
「……何よそれ。
「怯まずお節介を焼いてよかったと、自分で自分を褒めてやりたい気分だったよ。個人の運び屋だなんて危なっかしい真似を、まして女の子の君が」
「みんなやってるし! それくらいの副業、交易商人なら誰だってやってる!!」
――ごとん。
奥の部屋から響いた重い音が、加熱した言い合いに冷水を差した。
「――ルチア!?」
はっとして振り返ったサティアが、宿の奥へと走る。
廊下の一番奥にある、妹の部屋。身体ごとぶつかるようにして扉を開けた時、そこではベッドから床に落ちた妹が、痩身を震わせるようにして激しく咳き込んでいた。
「ルチア――ルチア、しっかり!」
「姿勢を変えて、なるべく楽に。私は薬を準備する」
後から駆け込んできた医師からの指示が飛ぶ。
サティアは抱きかかえるようにして妹の姿勢を変え、激しく咳き込み続ける口元に清潔なハンカチを当ててやる。濁った喘鳴に震える妹の体は、悪寒を覚えるほどにちいさく軽い。
ややあって、どうにか咳がおさまると、医師が妹の体を受け取り、調合したばかりの薬をゆっくりと飲ませてやった。
妹が常用しているそれとは別の、不意の発作を抑えるための強い薬だ。
椀いっぱいの薬を飲み干した頃には、妹の容態も少し落ち着いたようだった。ただ、それでもその唇から漏れる呼気は、ひゅうひゅうと不吉に掠れている。
ふと――手元に残ったハンカチを見下ろすと、黒ずんだ不吉な赤が散っているのが否応なく目に入る。
きつく奥歯を噛み締め、サティアは溢れそうになる涙を乱暴に拭った。
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