171.ひとときの閉幕:丘の無名慰霊碑にて


 その日。

 彼女はいつものように花束を両手にで抱え、河川港の街ラーセリーの傍らに伏せる丘の、その頂へと続く道をのぼっていた。


 五十の峠に手が届こうかという年頃の、中年の婦人である。つづら折りの道を登る足取りは未だしっかりと若々しかったが、白髪の混じった髪や深いしわの刻まれた面相からは、これまで彼女が辿った半生の苦労が伺えた。


 ニミエール川に面する河川港の街、ラーセリーの郊外。

 森に包まれ、穏やかに伏せる丘を登った先――雄大なるニミエールの流れを一望できる開けたそのいただきには、ひとつのいしぶみがある。


 無名慰霊碑である。


 かつてニミエール川流域の一帯は、行き交う船舶をその獲物とし、積み荷や乗客の金品を狙う匪賊どもの巣窟であった。匪賊どもは船から金品を奪うのみならず、人を浚って他国へ奴隷として売り飛ばし、また河川沿いの町や村を襲って略奪の火を放った。


 頻発する被害にたまりかねた商人たちの訴えを受け、ニミエール川流域の諸国は、一斉に本格的な匪賊の討伐へと乗り出した。

 その甲斐あって、今や匪賊による船舶の襲撃は絶無に等しい状態となり、流域の治安は、ニミエール川の流れのように穏やかとなった。少なくともここ十年、匪賊による船の被害は一度もなかった――ほんの少し前までは。


 だが、討伐を経て匪賊がその姿を消したとしても。

 匪賊の跳梁によって失われたものまでが、戻るわけではない。


 匪賊どもは容赦なく人の命をその手にかけ、ニミエール川の流れは罪なき人々の血で赤く染まった。他所の土地へ売り飛ばす奴隷として連れ去られたきり、消息の絶えた人々も多くある。


 丘に佇む無名慰霊碑は、匪賊どもの跳梁によって失われた多くの命――彼ら彼女らを弔うために建てられたいしぶみだった。


 ラーセリーで娘夫婦と暮らすその女は、週に一度、必ず丘を登り、その無名慰霊碑への花を手向けていた。


 弔いの花を添え、広場を掃除して帰る。子供達が独り立ちし、母親の手を離れてからの、それが彼女が己に課した習慣だった。


 すっかり通い慣れた道を登り、頂上の広場へ辿り着く。

 同時に――だが、その日の彼女は、呆気にとられたようにぽかんとして、その足を止めていた。


 先客がいたせいだ。


 女は週に一度、この慰霊碑へ花を供えに来ていたが――その行き帰りでも、丘の頂の広場でも、他の誰かと行き会う機会など、既に絶えて久しかった。


 彼女に背を向ける形で慰霊碑と向き合っていたのは、黒檀の鱗をした巨躯の竜人ドラゴニュートであった。

 気の弱い者ならば、その巨躯を前にしただけで青褪めてしまいそうほどの偉丈夫だったが、彼女は不思議とその竜人を、恐ろしいとは思わなかった。


「どなたか、お身内を亡くされたのですか?」


 歩み寄りながら声をかけると、黒檀の竜人ドラゴニュートはのそりと振り返った。

 ぎょろりとした目も。鋭い牙も。彼女の頭くらいなら握りつぶしてしまいそうなほど大きい、鋭い爪を生やした手も。いずれも肉食獣を思わせて剣呑だった。

 ただ、その竜人がまとう空気は、粛然として凪いでいた。恐ろしいと感じなかったのは、きっとそのためだ。


 その手に、花や手向けこそなかったが――竜人のそれは、弔う者の静謐だった。


 竜人は、女から声をかけられたのがよほど意外だったのか、花束を抱えて立つ彼女をしばしじっと見遣っていたが。

 やがて、その視線を慰霊碑へと戻すと、岩をこすり合わせるような、低い男の声で答えた。


「…………母を」


「そうでしたか……お母様を」


 船で犠牲となったか。あるいは、河岸を襲う匪賊の手にかかったか。

 いずれにせよ、近しい家族を亡くしたもの同士と分かり、竜人への同情と共に親近感を覚える。


 ラーセリーから西へ向かうと、獣人達がその王国を築く《月夜の森》が、鬱蒼とした梢を広げている。

 彼はその森から、わざわざ遠いところを来たのだろうと、そう見当をつける。端然と慰霊碑に向かい合う竜人の年頃までは、さすがに判然としなかったが――思うに未だ若い、青年の年頃なのではないかと、三人の子供を育てた母親の直感が告げていた。


 珍しいまれびとの訪れに、もう少し話してみたいという衝動が女の胸中へとこみ上げたが。しかし、それは自制する。無関係の他者からの呼びかけなど、竜人の青年が母の冥福を祈る、その邪魔にしかなるまいと察していた。


 女は竜人の横合いを抜けて、慰霊碑の前に花束を置く。

 代わりに、先週備えた――今はもうすっかりしおれてしまった古い花束を抱え、慰霊碑の前から退く。


「この場所は」


 だから。

 竜人の方からそう話しかけてきたのは、女にとって意外なことであった。


「この場所のことは、つい先ごろ、ある戦士から聞いた――匪賊の犠牲となった者達を弔う、無名慰霊碑があるのだと」


「そう……」


 驚きと、そうして語る彼への同情が相半ばした心地で、女は応じた。この場所で他の誰かと言葉を交わすのは、本当に久しぶりのことだった。


「私も、匪賊のせいで家族を亡くしました。夫と――つい先ごろに、息子を一人」


「息子」


「ええ」


 女二人男一人のうち、二番目に生まれた長男だった。

 貨客河船かせんの船員だった夫が匪賊の手にかかって死んだときには、まだ五歳になったばかりだった息子だ。


「船員だった父親のようになるのだと、自分も河船の船員になって……それが、先日にあった匪賊の襲撃で、呆気なく」


「……………………」


 息子は、乗員を避難させるために船内を駆けまわる中で運悪く匪賊と鉢合わせ、その命を落としたのだろうと聞かされた。


 夫は、同じ船員の仲間を庇って死んだのだと聞かされた――何も親子揃って、そんな気取った死に方をせずともよさそうなものだろうに。


「そいつは」


 相変わらず、岩をこすり合わせるような――けれど、最前よりも沈んで聞こえる声で。竜人は言う。


「勇敢な戦士ニンゲンだったのだろう。……敬し、誇るべき男だ」


 ――その瞬間。

 もうとっくに枯れたと思っていた、心臓の奥底から噴き出した強烈な激情が、一瞬で女の喉元までこみ上げた。


 蘇る悲嘆と共に。息子の乗った船を襲った匪賊が、竜人ドラゴニュートだったという話を思い出した。その怒りを、そのまま隣に立つ竜人へと叩きつけそうになり――女は寸前で、その衝動を押し殺した。


「誇るべき……でしょうか」


「ああ」


 ――どうして、息子の乗った船だったんだろう。よりにもよって。

 十年以上絶えて久しかった、匪賊どもの狙った船が。


 もっと他の、裕福な客が乗った立派な客船を狙ってくれたらよかったのに。あんな、ありふれた外輪貨客船の一隻なんかじゃなく――息子はまだ、結婚すらしていなかったのに。


 いや、あるいはその方がよかったのだろうか。

 少なくとも息子は、かつて夫がそうしてしまったように、悲嘆にくれる妻や子供を遺して逝くことだけは――せずに済んだのだから。


「オレは戦士として以外に、死者へ対し哀悼を表するすべを知らん。己が責務に殉じ命を懸けた者は、戦士だ。戦士の命と魂の尊厳は……誇りをもって、讃えられなければならない」


 決壊寸前だった理性の内側で、女はかろうじて激情を静める。

 それが彼なりの哀悼の示し方なのだと理解できたから、その敬意に泥をぶつけるが如き振舞いをせずにいたかった。


 女は竜人へと向き直り、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます。息子や夫のためにも、あなたは祈ってくださったのですね」


「いや……」


 深く頭を下げる女から。竜人はどこかいたたまれなげな所作で、その顔を背けたようだった。


「頭を下げるのはよせ。そんな謂れはない」


 唸るようにそれだけ言った竜人の声には、悔いる気配が滲んでいた。

 こちらの内心を察せられてしまったのだろうかと、女はひどく恥ずかしい、いたたまれない気分になる。


「いいえ。ありがとうございました。見ず知らずの私の、夫や息子のために」


 いつしか溢れんばかりに浮いていた涙を拭い、女はあらためて頭を下げた。


「では、私はこれで――お先に失礼いたしますね」


「待て」


 丘を去ろうとする女を、竜人が呼び止めた。

 それはおそらく、完全に無意識の行動だったのだろう。鋭い牙が並ぶ口の端を悔やむようにゆがめた竜人は、ややあってその面を上げた。


「麓まで送る。静かな森だが、獣がいないとも限らん」


「まあ……ですけど、見ず知らずのお方に、そこまでお気遣いをいただくなんて」


「構うな。どのみちオレも、長くここにいるつもりはなかった」


「そう、ですか?……では、そういうことでしたら」


 竜人の青年からの申し出に戸惑いながら、しかし、今日はその厚意へ甘えることにする。丘に広がる森は穏やかだったが、しかし竜人の青年が言うように、時として危険な獣が入り込むことはあった。

 特に春先は獣にとって子育ての季節でもあり、郊外の丘を訪う女の習慣には、娘もその夫もあまりいい顔をしない。


 無名慰霊碑に背を向けて。女と竜人は丘を下る道を進んでゆく。


 竜人はふと足を止め、最後に一度だけ、頂きのいしぶみを振り仰いだ。

 きつく握ったその手に籠る力の強さに、先を行く形となった女が気づくことはなかった。


「どうされました?」


「……いや」


 竜人は再び背を向け、そして今度は振り返らなかった。

 女の隣へと並び、竜人もまた道なりに丘を下る。


 やがて、丘を駆け上がる風が、無名の人々のための碑を撫でて――その風は丘を包む木々の梢を、優しく静かにそよがせていった。

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