167.ひとつの幕引きとその先の話:きっともう会えなかったはずのあなたと/クロ②


 今よりまだずっとちいさくて子供だった頃。

 クロは、きょうだいも友達もいない、ひとりぼっちの子供だった。


 クロの傍には、生まれた年の近い子供がいなかった。

 もとより幼少の宝種オーブは、同胞と交わることなく育つ。他種族の子供と友誼を結ぶ者もないではなかったが、傾向としては稀なるものだった。


 だが、たとえそうでなかったとしても。


 いつも大人の後ろに隠れてばかりの内気な子供が、友達作りに秀でているはずなどなかったし、何よりクロは、一人でいる方が好きだった。


 絵を描くのが好きな子供だった。

 心に映るものを形にするのが好きだった。

 思うようにならないもどかしささえ、クロにとっては手を繋いで自分をその先へと引いてくれる、得難い先達のひとりだった。


 生涯を共にする結合珠リンクも、未だ与えられることなく。

 その頃クロの『友達』は、彼女自身の心の中にしかいなかった。


『――何を描いているの?』


 そんな、子供だったから。

 自分より手足の伸びた、『年上のお姉さん』に呼びかけられた時――クロは心の底からびっくりして、そんな自分に恥ずかしい気持ちを抱いたものだった。


『ちょっとしか見えなかったけど、とてもかわいい絵だったね。キミが描いた絵、ボクにもっと見せてもらってもいい?』


 膝を抱えて座りながら、じっ――と見つめてくる、燃え盛る炎のように温かい瞳。

 黄水晶シトリンみたいな金色の髪と、土耳古石ターコイズみたいな青い肌をした彼女はニコニコしながら、まるで忠実な番犬がそうするみたいに、じぃっとクロを見つめていた。


 顔が熱く火照るのを自覚しながら、もじもじとためらい続けて――やがて、意を決して宝物のスケッチブックをずいと突き出した時、彼女はまるで花のように笑って、「ありがとう」と声を弾ませた。


「……あなたは、だれですか?」


 一枚一枚、目を輝かせながらスケッチブックの絵を見つめていた彼女へそう訊ねたのは、どれくらい経ってからだったろう。

 何枚目かの絵からぱっと顔を上げて、彼女は「ああ」と声を明るくした。


『ボクかい? ボクはルヴィ』


紅玉ルビー?』


 眼をしばたたかせるクロに、彼女は「ちがうちがう」と笑って手を振り、


『ルヴィ。ルヴィスエーザ。《龍種リヴァイアサン》さ。キミは?』


『クロ――えっと、クロロバナージアレキサイオラ、んと』


 その頃のクロは、まだ自分の名前を全部覚えきれていなかった。

 おとうさまもおかあさまも、娘のことは『クロ』と呼ぶ。


『そうか。なら、ボクはキミをクロと呼ぼう。いいかな?』


 そう言って、微笑みながら。差し出された手をどうしたらいいかが分からず、クロは顔を赤くしておろおろするしかできずにいたのだけれど。

 龍種の娘はそんなクロの手を取って、自らの手を握らせた。


 どうしたらいいかまったくわからなかったけれど。

 それでも、懸命に首を縦に振って頷くクロに、ルヴィはその笑みを深くした。


『はじめまして、クロ』


 ――それが、出会いだった。



 ――そして、夜の月明かりを浴びて。

 彼女は屋根の頂に立っていた。外套の裾を、吹く風に遊ばせながら。


「おはよう、クロ。まずそういうことで間違いないとは思っていたけれど――あの部屋に隔離されていたのが、キミでよかった。こうして無事に呪いを解かれたことも……ほんとうに嬉しいよ」


「ルヴィ……」


 もう、とっくになくしたものだと。

 そう思っていたひとが、今――凍りついたように立ち尽くすクロを見下ろしている。


「手記にあった『バナージ』って名前、やっぱりバナージさんのことだったんだね。キミのお父上の。もしかしたらって期待はしてたけど、確証はなかったからさ――あの部屋でキミを見つける未来が見えた時は、本当にホッとしたんだよ? また会えてよかった」


「そうじゃないです! ルヴィ、あなた――何でっ、何で……何で!?」


 震える声で喚くクロへ、少女は「おやおや」と軽やかな笑いを返す。


「『何で』、はひどくないかな? またこうして友達と会えたんだから、まずは再会を喜ぶのがひとの心ってものだろう?」


「それは! クーだって、それは――でも、でもルヴィは……あなたは!」


「キミがさっきから、そうして気にしてばかりいるのは」


 にぃ――といたずらものの猫のように眦を細めて。

 いっぱいに吊り上げた口の端。深い笑みを刻んだ唇に、鋭い犬歯を剝き出しにしながら――龍種の少女は問う。



「どうして『利他の竜リヴァイアサン』のボクが、こうして今も生きているのか――かな?」


「!…………」


「そうだよねぇ……ボク達にとっての『世界』とは、あの《箱舟アーク》そのものだった。ボクたちの最善、ボク達の幸いはあの揺り籠クレイドルと共にあった。その、《箱舟》のみんなが呪われてしまったのなら」


 龍種の娘は、黒々とそびえる《箱舟》の塔を見遣った。


「……『利他の竜』は『世界』のみんなを護るため、誰より真っ先に呪われてるくらいでなくちゃ。そうでなくちゃ、おかしいものね?」


 ――ふと。

 深海の深みから浮かぶ泡のように、ひとつの可能性がクロの脳裏へ浮かび上がる。


 あまりに飛躍した可能性を――けれど、クロは突き動かされるような確信と共に問いかける。


「……ルヴィが、……?」


「ん?」


 鈴を転がすような軽さで。事もなげに、彼女は首をかしげて、


「そうだね――《箱舟》と外を繋いで、世界の呪詛を招き入れた『誰か』のことを言っているのなら。その《咎人》はボクだ」


「何で!?」


「他にしようがなかったんだよ」


 いたずらがばれた時の子供みたいに、肩を縮めて誤魔化し笑う。

 悲壮感も、罪悪感も――後ろめたさすら、ない。日常そのもののささやかな些事を見咎められた、そんな顔で。


「ある日、突然、未来が決まってしまったんだ。、って風にね。ボクは『理性』を奪われ、けだもの同然の化物バケモノになり果てて、その挙句に討たれて死ぬ――そんな、どうしようもない未来が確定してしまった」


 十二柱の創世の神々が、《真人》種族の手によってこの世界から放逐された時――最も賢い魔術の神が世界に残したと伝えられる、『滅亡』の呪い。

 それは七柱の種族から、『ひとつずつ』を奪ってゆく呪いだった。


 《龍種リヴァイアサン》からは、『理性』を。

 『理性』を失った《龍種リヴァイアサン》は、衝動と欲望のまま破壊し、喰らう、本能のみに生きる化物へと変わる。


 理性なき、無名の怪物――災厄の竜ディアボロスへと。


「……あんまりに突然だった。ほんの少し前までは、まったく違う未来を見ていたはずだったのにね。

 だから、未来を変えうる分岐はないか。逃れる方法はないのか――これでも、頑張って探したんだよ? でも、どうにもならなかった。どう足掻いても、ボクの未来は『詰み』だった」


 ひとたび『理性』を喪えば、もはや元に戻る術はない。

 破壊と暴虐の限りを尽くした果てに、呪わしき悪竜として――敵意と殺意に囲まれ、ただの害獣として討ち滅ぼされる。


 『利他の竜』の名を冠するほどに、世界のために生ける種族が。

 その生涯の終わりに、尊厳と誇りのすべて穢されて――理性を亡くした自分自身の手で踏み躙って、命を終える。


「……でも、あなたは生きてる」


「そうだよ。あと七日でボクはおしまいだった。けれど、ある時不意に、そのに気づいたんだ――《箱舟アーク》を開きさえすれば、ボクの『終わり』は


「だから……《箱舟》の護りを……?」


「うん」


 少女は頷く。


「解いた。その決断が、ボクをこうして今も生かしている」


 その、一言で。

 それまでクロの中でずっと荒れ狂って、問いかける声を震わせていたものが――堰を切ったように、荒れ狂いながら噴き出した。


「だから、《箱舟アーク》を滅ぼしたんですか!? 自分が死にたくなかったからって……だからって、あの揺り籠クレイドルにいたひとたち、おとうさまも、おかあさまも、みんな!」


「誤解しないでよ、クロ。別にボクだって、あんな風にしてしまうつもりなんかなかったさ――ただ、自分が生き延びるために、ちょっと《箱舟》の封鎖を解いただけ。ボクがしたことなんて、本当にそれだけなんだから」


 誰が彼女に、そのやり方を教えたのだろう。誰であっても、きっと疑いなどしなかっただろう。世界のより良き未来を志向する、『利他の竜』の問いであれば。


 否。問う必要すらなかったのかもしれない。

 世界の分岐を望む先へと辿るための行動を、《龍種リヴァイアサン》は知ることができる。その行動がいかなる意味を持つか知らずとも、ただ分岐が示すままの行動をなぞれば、それでいい。


「まさか、たったそれだけで全滅しちゃうなんて。ボクにも思いもよらないことだったさ。魔法を極め、神すら凌ぐ世界の支配者を気取ってたひとたちがさ、まさかたったそれだけでなす術なく全滅だなんて、想像できると思うかい?」


「嘘つき! その目で未来が見えるくせに!!」


 分からなかったはずがない。《龍種リヴァイアサン》の瞳は未来を識る――未来視の目だ。

 あらゆる未来の可能性と、あらゆる未来へ至る分岐のすべてを観測し、最善の未来へ綱がる分岐を選択し続けるのが彼女達というしゅだ。


 その大いなる力を、彼らは己のためならず、すべてのひとのためにと行使した。

 故にこそ、『利他の竜』は尊称だった。その清廉なる在り方に――誰もがその在り方に、敬意を以てこうべを垂れたはずだった。


「みんな、ルヴィをたいせつにしてました! 『利他の竜』だって、敬ってた! クーだってルヴィは……友達なんだって、自慢だった! なのに!!」


「じゃあ何かい、クロ? キミは、ボクが死んでればよかったと?」


「!」


「大切にされて、敬われて、だから何だって言うんだい。ボクは理性を亡くして、化物ディアボロスになるんだよ? そしたらボクはキミ達によってたかって殺されてさ。ぬくぬく生き延びたキミ達から、『利他の竜』は使命に殉じましたとお涙頂戴してればよかった。キミはそう言いたい訳かい?」


「そんな、こと……!」


「キミが言ってるのはそういうことだよ、クロ。『友達』に向かって、ずいぶんとひどいことを言うじゃないか」


「違います! クーは」


「違わない。キミはボクに死ねと言ったんだ。誇りも尊厳も穢されながら、化物になって死ねってね!」


「違う! ちがいます、クーは……クーは、そんなの!」


「違わないよ、なんにも。未来はふたつにひとつだった。ボクが死ぬかボクが生きるかだ。ボクは自分を生かすために《箱舟》を開いて、けれどキミ達は自分を生かすための英知を得られなかった。自分で自分を護れなかった――そんなのは、あくまでキミ達の都合じゃないか?」


 甘い声が、嬲るように突きつける。


「ボクはボクの力を、ボクのために使った。それだけだ。それを、ただ『利他』であるのをやめたというだけで、ひどいだの嘘つきだのと、どうして悪党みたいに詰られなけりゃならないの? それが嫌なら、キミ達のために死ぬまで都合よくしてろって?」


 泣く少女へは、一顧だに暮れることなく。

 龍種の娘は嘆くように、大きくかぶりを振る。


「ああ、なんてひどい友達だろう! なんて友達甲斐のない、残酷な女の子だろう! あんまりだって思わないかい? ひどいことだって思わないかい? そんなのはさ――」


 紅玉ルビー色の瞳は、《箱舟アーク》の影を仰いでいた。

 滅び去った過去の遺跡。『咎人』が遺跡へと変えた、がらんどうの揺り籠クレイドル


「キミはさ、そうは思わないかい?――ねえ、クロ」


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2024/05/21

一部の表記誤り、その他修正を行いました。お恥ずかしい限りです。

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