166.ひとつの幕引きとその先の話:遠きむかしに別たれたひとびとを想い/クロ①


「じゃ、クロ。おやすみなさい」


「はい。おやすみです、フィオレ」


 エリクセルとナザリの夫婦が用意してくれた夕食と、それからお風呂をいただいて。

 濡れた髪が乾くまでだらだらおしゃべりしてから、クロは宛がわれた部屋へと戻った。


 毛先が黄玉トパーズの金へと変じる翠玉色エメラルドの髪は、腰より下まで届くほどに長い。

 ひとたび濡らせば、ヘアドライヤーでもない限りなかなか乾かすのが難儀な髪だったが、そこはフィオレの精霊魔術がどうにかしてくれた。


 熱風を吹かせる魔法。


 一言で言ってしまえばそれまでの魔法だが、『熱した風』を操作する彼女の術式構成は、《炎》と《風》を組み合わせた複合魔術バッチスペルである。それを、温度と風速、角度を変えながら自在に操作してみせた彼女の術式は、『髪を乾かす』というその行為の分かりやすさと相反し、魔術構成として見た場合きわめて難度が高い。


 森妖精エルフ達の精霊魔術がその特徴として挙げられる第一は、詠唱や儀式を介在せず『術者の意思』のみで発動するその『速度』だったが――事前の準備を要しない簡便さは別として、行使した術式の精度は紛れもなくフィオレ自身の技量である。



『ほら。私の場合は、契約した精霊が助けてくれるぶんもあるから』



 ──と。

 フィオレ自身はそう言って、照れくさそうにはにかんでいたが。



「……………………」


 すっかり乾いた髪をてのひらで撫でると、まだ乾燥の熱を残したふかふかの手触りは心地よかった。

 はちみつを溶いた温かいミルクを啜って、おしゃべりしながら待つ間。髪を乾かしながら櫛で梳ってくれるフィオレの手は、とても心地よくて――何より、懐かしい時間だった。


 誰かに髪を梳いてもらうのなんで、あの頃以来――まだ、《箱舟アーク》で家族と一緒だった頃以来だ。当たり前のことだけれど。


「…………………………」


 母に髪をいてもらうのが好きだった。

 鼈甲べっこうの櫛でかした髪を母のほっそりとした指先で結んでもらっていると、まるで一人前の淑女レディの、きらきらぴかぴかのおしゃれをしているみたいで嬉しかった。


「……おかあさま」


 父は髪を梳くのはあんまり上手じゃなかったけれど、ごつごつした大きな手で撫でてもらうのが好きだった。

 つやつやに梳いた髪に触れるてのひらがいつだってあたたかくて、胸の中まであたたかくなるのが好きだった。


「……おとうさま……」


 ――二人は、あれからどうしただろう。自分はだいぶん早いうちに、神さまの呪いにとらわれてしまったみたいだから。


 自分が『時間』を奪われ、宝石の体になった後――両親がどうなったのか、クロは知らない。

 ふたりの心は、ほかのたくさんの同胞オーブ達の心の洪水に混じって、もみくちゃのめちゃくちゃになって、すぐにどれがどれだか分からなくなって。


 それでも、すぐそばに来てくれれば、ふたりの心を見分けることができたけれど――いつしか、そうして訪われることさえ絶えた。それがどういう結果によるものかくらいは察することができたけれど、その後の二人に待つ運命がどんなものであったか、クロは知らないし、知る術もない。


 ただ――クロがずっと眠らされていた部屋の外。

 たくさんの壊れたカプセルが並んでいたあの部屋は、たぶんそのガラス筒のカプセルひとつひとつの中に、クロと同じ運命をたどった《宝種オーブ》の同族たちが眠っていたはずで。


 その一切が破壊され――砕けた宝石の塵がガラスと混じってまばらに転がるばかりだった、あの部屋を見た後では。薄甘い希望など、抱けるはずもない。


 ――なるべく、苦しんでいないといいな、と。

 そんな乾いた祈りの白々しさに、唇を噛むことくらいしか。


「……………………」


 ひっそりと息をついて。クロはベッドに敷き詰めた布団へ身を投げ出した。


 大きく息を吐いて、物思いを切る。

 思い煩うだけ意味がない──なくしたものは、両親だけじゃない。おむこさんリンク以外のすべて。


 もう、きっと誰も残ってなんかない。

 家族も──友達も。


「…………………」


 どうしたって、ぜんぶ取り返しのつかないことだから。今は、できることをやってゆくくらいしか。


 きっと、何とかなる。

 世界の呪詛から解放された今、感じられる心のつながりはおおむね穏やかだ。もちろん穏やかでないものだってあるけれど、そんなのは誤差みたいなものだ。


 フィオレは布団に入るなり、あっというまに眠ってしまった。

 エリクセルとナザリは、まだ明日の仕込みをしているところ。

 シドは――《英雄広場》から引き返してくる途中。悩みが尽きないらしいその心に、クロはついつい苦笑を零してしまいそうになる。シド・バレンスはちっとも器用になれなくて、ほんとうにしょうがないひとだ。


 知ってるひとの心。まだ会ったことのない、知らないひとの心。

 繋がったいくつもの心から伝わってくるすべてを感じながら。クロは目を閉じ、漣のように寄せてくる眠りの気配に身を委ねて――


「!」


 唐突に、ぱっと跳ね起きた。


(心が……)


 突然、つながらなくなった。

 そればかりではない。今やクロの周囲は、物音の一切が絶えていた――耳鳴りがしそうなほどに静まり返り、空気が凍りついているかのようだった。


 これは――


(――異界領域)


 猫のような身軽さで、ベッドから床へ飛び降りる。

 半ば反射的に広間へ続く扉を見て、すぐにふるふるとかぶりを振る。

 中にいるとは思えない。いるとしたら、『外』だ。


 ガラス張りの上げ下げハング窓を引き上げ、窓から一階の屋根へと降り立つ。

 屋根の頂点、むねに立つひとつの人影が、白々とした月明かりを背景にクロを見下ろしていた。


 男とも女ともつかない、肉の薄そうな中背の痩躯を、ぞろりとした外套が覆っていた。

 フードを深くかぶったその奥に、ぼぅ、と影のように浮かぶ陶製の仮面が見て取れた。


 会ったことはない。けれど、知っていた。

 『心』に映った景色を通して、クロはそいつを見た。


「《来訪者ノッカー》……」


 夜でも残る街のざわめきすら絶えた凍土の静謐を、風にあおられたなびく外套の裾が立てるはためきが打ち据えていた。


 ここは、物理領域アッシャーから切り離された異世界。重なり合う世界領域レイヤーのひとつ――クロはそこへ喚ばれ、切り離された。


 こんなことをできる存在を、クロはひとつしか知らない。

 かつて、共に世界で栄えたいにしえの種族達――七柱の《真人じんるい》。あの時代のひとびとしか。


「……《龍種リヴァイアサン》、ですね?」


 今も、目の前の《来訪者ノッカー》とは心が繋がらない。

 こう言ってしまうのは非礼かもしれないが、今の人類種に宝種オーブとのつながりを断ち切る術を持ち得るなどとは、とてもではないが思えない。

 かつての《真人じんるい》でさえ、それをなし得て、のみならずそれを認められた種族は、たった一柱ひとつだけだった。


「いったい何のご用ですか。わざわざこんなところ異界領域まで呼び出して、どういうおつもりでいるのですか」


 応えはなかった。少なくとも、この時は。


 代わりに《来訪者ノッカー》は笑ったようだった。外套をかぶせた薄い肩を震わせて、こみ上げる笑い堪えきれなかったかのように。



「――。解放おめでとう」


「え……?」



 ――最初の一瞬。何を言われたのか、まったく分からなかった。

 けれど、クロはその声を知っていた。そう呼びかけてくるであろう《龍種リヴァイアサン》を、一人だけ知っていた。


「……ルヴィ?」


「うん」


 掠れて震える呼びかけに、応じるように。

 《来訪者ノッカー》は陶製の仮面を外し、外套のフードを下ろした。


 月に冴える、青褪めた青銅色の肌。少年のように短く切った黄金きんの髪。

 白目の美しい紅玉色の瞳は、蛇や蜥蜴を思わせる縦線のような瞳孔に彩られている。


「なん、っで……っ、あなたが――」


 年の頃は――人間であれば十三、四。クロとさほど変わらない。


 ――彼女を知っていた。


 友達だった。

 あの頃、わたしクーは、



「ルヴィスエーザ……!」



 ――わたし《クー》の、


 友達だった、龍種ひと


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