143.笑っていた時も怒っていた時も呆れていた時も、きみはもしかしてずっとずっと、胸の奥には苦しい気持ちを抱えていましたか?


 ――え?


 と。他にどうしようもなく、間抜けた呻きを上げかけた。

 困惑のあまり、誤魔化すような薄笑いを浮かべてしまっていたかもしれない。ぴしゃりとてのひらで顔を叩き、口元を覆い隠す。


「『前』のときは、《箱舟アーク》の中の真人じんるいすべてが呪われるまでがちょうど十二周期でした」


 クロは言う。


 それは即ち、《箱舟アーク》より溢れ出た魔物の猛威に地中海イナーシー沿海の全域が蹂躙され――その地獄より立ち上がった英雄オルランドが掲げる旗のもと、十年の戦いを経て、そのすべてを《箱舟アーク》のうちへと押し返すまでの時間。


 ――十二年。


「世界の呪いがどんなふうに真人クーを捉え、捕えるのか。それはクーにもわかりません。けれど、今こうして呪いを解かれた真人じんるいがクーひとりしかいない以上――この猶予ゆうよは『前』より短くなることこそあれ、長くなることはないでしょう。

 だから、お願いします――もしこの先、その『終わり』の時が来たのなら。その時はどうか」


「待ってくれ、クロ」


 懇願を遮って、シドは言う。

 空いたままだった一方の手を少女の肩に置き、訴える。


「はやまっちゃだめだ。正直、俺なんかじゃ確かめようもないことだけれど……きっと、きみの言うことはすべて本当のことなんだと思う。でも」


 クロは凪いだ面持ちで、じっとシドを見上げていた。シドの手を取った両手を祈るように胸元で組んで、まるで神さまを見上げる修道女シスターのように。


「でも、今はこうして呪いを解くことだってできたんだ。たとえ『次』があるとしたって、また同じように」


「また同じように、あの『部屋』が使える保証があると思いますか?」


 静かな、しかし当然と言うべきその指摘に、シドは言葉を失う。

 シドがクロの呪いを解くことができたのは、決して自分一人の力などではない。


「少なくとも、クーはその保証をできません。知らないからです。そして、あの『部屋』の援護なしには、シド・バレンスの『解呪』でクロの呪いを解くこともかないません――現にあなたは、一度クーの解呪を諦めかけていました」


 一言一句、過つところのない事実だ。返す言葉がなかった。

 項垂れるシドを見上げて、クロの凪いだ美貌が、ほどけるように微笑む。


「ごめんなさい。責めているのではないのです。勝算も何もないことを、命を懸けてやってくれだなんて言えません――助けようとしてくれただけで嬉しかったです。それだけでも、クーにはじゅうぶんなことでした」


 シドの手を取ったまま、祈るように握ったクロの両手に、きゅっと力がこもるのを感じる。


「心から感謝しています。ほんとうです。ここにこうしていられるのは、その試みのおかげで――奇跡みたいなことだって、思っています」


「クロ――」


「でも、でもあるのです。もう二度と、あの呪いの中に戻るなんて――あんなところに戻るのはイヤです。ぜったいにイヤなんです」


 握る両手に、強く力がこもる。

 痛くはなかった。ただ、血の気を失くして震えるほどに力のこもった少女の両手に、暗い予感を覚えずにはいられなかった。

 訴えるクロは真剣で、それ以上に、必死だった。


「体をバラバラの粉々コナゴナにされて死んじゃうのって、どんな感じだと思いますか。シド・バレンス」


「? 急に何の話を――」


「呪いの話です。『時間』を奪われるということ。《宝種オーブ》にかけられた、世界の呪いのおはなしです」


 神々が残した『滅亡』の呪いは、真人達からを奪っていった。


 ―― 《宝種オーブ》からは、『時間』を。


「きっと、すごく痛くて苦しいと思います。だってバラバラの粉々コナゴナですから。もうこのまま死んじゃうんだって、怖くてつらい気持ちでいっぱいになるんだと思います。

 でも、きっとそれらは、そんなに長く続くことはないんだと思います――痛さや辛さを感じる頭もバラバラだから。すぐに死んじゃうからです。すぐに、ぜんぶが


 ――まさか。

 その言葉で、ひとつの想像が脳裏にひらめく。


 それを察して――否、『見て』だろう――引き攣れた笑みが、少女の口の端を歪めた。

 それは罅割れ砕ける寸前の、絶望的な乾きの最中にもたらされた水の一滴を前にした時のような――それは、共感を得た者が広げるの笑みだった。


「時が過去へと消えることのない、永遠の滞留。刹那にも満たない『現在』という一点へ、時間のすべてがのです。

 痛みが消えることはありません。『過去』にならないからです。死から逃れられることもありません。『現在』になってしまったからです。……ずっとずっと、悲鳴を上げ続けているんです」


 ――旧い、伝承に曰く。

 ある山間の小さな小国は、その鉱山より算出された宝石でもって、《宝石の国》と呼ばれるほどに栄えたという。

 だが、鉱夫たちがその仕事場から持ち帰った『それ』は、鉱脈より掘り当てた宝石ではなかった。彼らが持ち帰り、王へと献じたそれは、宝石の彫像であった。


 鉱夫達が奥からひとつだけ持ち帰った彫像――祈りを捧げる金剛石の女を見た瞬間、王は目の色を変えて飛び上がった。



『なんと美しい! これは凄い、これは凄いことだぞ!! おい、何をぼやぼやしているんだお前達。ぼぅっとしておらんで、早くこれを城まで運ぶのだ! 山の中にある他の彫像も、ひとつ残らず運ぶのだ! 壊さないように、傷つけないように、ていねいに、慎重に、だ。わかったな!?』



 美しい金剛石の女にうっとりしていた国王は、鼻息荒く興奮しながら、王の付き添いで共に来ていた侍従達へと命じた。

 だが――やがて、恐怖に表情の強張った薄気味悪い彫像が次々と運び出されるようになると、今度はげっそり顔色を悪くした。



『……さっきの美しい像はあのまま残そう。だが、こっちの像は見ているだけで気分が悪い。どうせこのままでは売るに売れんし、仮に売るにしてもこの大きさだ、高値がつきすぎる。


 。そして、その宝石は他所の国へと売り出すのだ。我が国の鉱山から掘り出された宝石として、我が国の富へと替えるのだ――!』



「クーは、クー達には、そんなふうになってしまったひとたちの心がぜんぶぜんぶ。ぜんぶ見えていました。ぜんぶ聞こえていました。自分の身体を砕かれるさま。自分の身体をバラバラにする人達が笑う顔。自分の身体をバラバラに砕く人達の歌声。おしごとの気分を盛り上げる陽気な歌声でした。おらが国は宝石の国、今日からおら達ゃ大金持ち、って。声を合わせて楽しそうに歌いながら、誰もがみんな幸せな顔でみんなを見ていました。やめてってお願いしても許してってお願いしても誰も聞いてくれませんでした。誰にも聞こえないから。わたしたちはヒトじゃなかったから。。だから同胞オーブにしか届かない声でみんな泣いていました。祈っていました。痛い、痛い、苦しい、痛い、やめて、助けて、痛い、ゆるして。訴えても訴えても届きません。ゆるして、ゆるして、助けて、痛い、気づいて、聞いて、お願い、やめて、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたい――……!」


「――クロ!」


 ぞっ、と背筋に冷たいものが走った。肩を掴んだ手に力を籠め、シドが鋭くその名を呼ぶ。


――!?」


 シドの腕の中で。絹を引き裂くように喚く。

 心臓を鷲掴みにされたように、シドは竦みかけた。


「みんな、みんながクー達を呪っていました。クー達はまだ、痛くなかったから。まだ見つかってなくて、まだ壊されてなくて、まだ痛くもなくて死んでもいないから。苦しくなかったから。怖くて恐ろしくて震えているだけだったから。どうしておまえは無事なんだ、どうして私達だけ苦しいんだって。おまえもこっちにこい。おまえも私達みたいに痛くなって苦しめ、って。不公平だ。卑怯だ。ずるい。私達だけ苦しいなんてあんまりだ。おまえたちも苦しめ、死ね、苦しめ、死ね、って! みんながクー達を呪っていました!」


 痛みが消えることはない。

 怨嗟が消えることもない。

 恐怖が、悲鳴が、憎悪が消えることもない――時が進むほどに重なり行く、それらすべてが『現在』だから。


「だから――だから、怖くて、こわくなって、きっと誰かが叫んだんです。

 『!』『!』――そんなふうに、呪う声が、呪うことばが、して。でも、わかっていました。クー達もいつかそうなるんだって。いつかは誰かに見つかって、痛くていたくて苦しくなるんだって。喉を枯らしてまだ苦しくないひとたちを呪いながら、ずっと痛くて苦しくなるんだって――……!」


 声を枯らして叫ぶ声が、ぴたりと止んだ。

 少女の薄い身体を、胸の中へ――きつく、シドが抱き寄せたからだった。


「…………だから、また呪われるくらいなら。いっそこのまま死んじゃうのがいいかなって」


 かすれた声が訴える。強く押し付けた額を通して、シドの胸郭を震わせる。


「今はもう、みんなの心が見えないから……呪詛も悲鳴も、聞こえなくなったから。とても楽になりました。幸せです。いつか来るかもしれない怖くておそろしいことに、いつか永遠に苦しまなくちゃいけない未来に、何もできずに怯えなくても、よくなったからです」


 永遠の『現在』から解き放たれて。

 クロはそれらを、『過去』にすることができてしまったから。


「でも、ほんとうのほんとうは、死ぬのだって怖いんです。わたしクーがなくなるのはイヤです。呪われるのがこわくてたまらないくせに、死ぬのだって……こわくて……」


「うん」


 強がって、虚勢を張りながら。

 それでも命乞いをしてしまうくらい、怖いくせに。


 でも――まだ呪いがそこに在るのだと知ってしまえば、それはもっと恐ろしい。


「それはそうだよ。普通のことだ」


 かすれた声が湿って、やがて、言葉にならない呻きへほどけてゆく。

 華奢な肩を震わせる女の子の、かぼそい背中を叩いてやりながら――不器用に引き攣れた彼女の声が胸を震わせ、胸を湿らせてゆく間、ずっとそこから動かずいた。


「そんなのは――当たり前のことだ。クロ……」


 声を殺して震えつづける女の子を胸のうちへと抱きしめながら。彼女が声を取り戻すのを、ただ静かに待ちつづけた。

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