142.これは、ひとりの宝石の女の子と、世界を包む呪いのおはなし
クロはゆるりと手首を翻し、白魚のような細い指を三本立ててみせた。
「《キュマイラ・Ⅳ》に課された命令は、みっつ。
『ひと』を護ること。
『敵』を討つこと。
そして、《
その言葉で。シドの胸中でかすかにわだかまっていたひとつの予感が――《キュマイラ・Ⅳ》の撃退をなしたことで諸共に昇華されたはずだったものが、再びその形を確かにして、喉元までを重たく凝らせはじめていた。
そう。まるで、クロの解呪に触発されたかのように、突如として姿を現した伝承の魔獣。
オルランドにおける長き《箱舟》探索の歴史の中において、
英雄オルランドが、その生涯の最期に相対した魔獣――もしそんな魔獣が《箱舟》の中で生き続け、シド達の前へ現れたのと同じように《箱舟》の中を徘徊しつづけていたのだとしたら。それが五百年もの間、一度たりとも人の目に留まることなく存在し続けたなどという事態が、果たしてあり得るものなのか。
何より、最前のクロの口ぶり。
彼女のことばは、まるで、
「そうですよ。《キュマイラ・Ⅳ》が今この時に姿を現したのは、クーの呪いが解かれたからなのです。クーが呪いから解かれ――ひとたびは絶滅した護るべき『ひと』が《
ふと、
「護るべきひとを護るため。《キュマイラ・Ⅳ》は、クーのためにシド・バレンス達と戦ったのです。
クーたちの敵を
恐れ、畏れ、憐憫、哀切――いくつもの感情がないまぜになった、冷たく湿った
「なら、万が一の時に
やはり、と腑に落ちる感覚を、苦く噛み砕く。
クロは首肯した。
「何のことはありません。呪いが解ける前の、元通りに戻りさえすれば――クーひとりがいなくなれば、それは容易く果たされたのです。クーが、これまでみたいに呪われるか、あるいはこの命を絶つかすれば。おそらくは」
――何て事だ。
シドはきつく歯噛みする。
「それは、フィオレやユーグ達……それに《軌道猟兵団》の冒険者達は」
「もちろん、みんな知っていることです。階下の第三層で《キュマイラ・Ⅳ》を足止めしていた、あなたとラズカイエン――それと、石にされてしまっていたかわいそうなルネ・モーフェウス以外は。みんなです」
そこまで言って、クロはシドへと振り返り――口の端をきつく歪めたようだった。シドは一瞬、彼女が泣くのではないかと思った。
「怒らないのですね、シドは」
「え?」
だが、泣きはしなかった。ただ、ひび割れた宝石のように歪んだ口の端から、あやうい感情を溢れさせただけで。
「あなた達は最初から、命を懸ける必要などどこにもなかったのですよ?
あなた達みんなが死ぬような思いをしたのは、あなたがたいせつにしていた剣や鎧をぜんぶなくしてしまったのだって――ぜんぶぜんぶ、クーのせいなのです。みんなみんな、クーがこうして、のうのうとしているせいで」
「やめてくれ」
厭わしい羽虫を払いのけるような心地で、シドは強くかぶりを振った。
「シド」
「きみが望んで呪われた訳でもなければ、望んで解呪されたのでもないだろう。きみを解呪したのは俺だ」
クロはただ、そこにいただけだ。
呪われた宝石の姿で褥に横たわり、たまたまシドの手で解呪されただけ。そこには彼女の意思も選択も、何一つありはしなかった。
「俺が、そうした結果だ。もし本当に、すべてがきみの言うとおりなのだとしても――だとしたらあれは、俺の浅慮が招いた災厄だろう」
いかなる呪詛によってか、宝石に変えられた女の子を。助けようとして、前のめりになって。
ただそれだけの、シドの浅薄な正義感に――フィオレや、ユーグ達まで巻き込んだ。
「《キュマイラ・Ⅳ》を目覚めさせた、責めを負うべき誰かがいるのだとしたら。それは俺だ。ろくな考えもなしに目の前の事態へ飛びつくばかりだった、俺の浅はかさが引き起こしたことだ。だから――もう、やめてくれ」
「……………………」
「頼むよ」
「……はい」
項垂れるように、深く
恥じ入るようにかすれた、今にも消え入りそうな声で。クロは応えた。
シドは深くため息をつき、かぶりを振った。てのひらでぴしゃりと顔を叩き、懸命に頭の中を整理していく。
「……きみの呪いは、完全には解けなかった。そういうことでいいんだろうか」
「いいえ。それは、『いいえ』です」
顔を上げて問いかけるシドへ、ふるふると首を横に振る。
「クーの呪いは、たしかに解かれています。ただ、『呪いの源』が今も消えずにあるがために、またいずれかの時には再び呪われることとなるのだと。そのように理解してください」
「確かなのかい?」
「はい」
はっきりと、クロは首肯した。
「わかるんです。世界の呪いが今も
ほどいた両のてのひらを、少女は見下ろす。そこに、何かの痕跡を見出そうとするかのように。
「たぶん、クーが《
「……まさか、《
彼女を連れて外に出てしまった、そのせいで。
そのせいで、また呪われることになってしまったのか――
「『いいえ』です。いいえ、それは違います。ぜったいに――シド」
蒼白になるシドに、しかし、クロはふるふると首を横に振った。
「それはまったく関係のないことです。たとえ《箱舟》に閉じこもっていたところで、何の意味もありませんでした――ただ、クーが『気づく』か『気づかないまま』か、それだけの違いでしかありませんでした」
だからこそ、《箱舟》は無人の『遺跡』と化した。
「クーが気づこうと、気づくまいと――いずれ世界の呪いはクーがいるのに気づいて、かならずクーを呪いに
――はるかいにしえの時代。神々の時代の終わりに。
《真人》達の手によって十二柱の創世神がこの世界から追放されたとき、そのあまりにも度し難き愚かさに絶望した神々のひとりが、この世界にひとつの呪いを残していった。
それは真人たちからひとつずつ、たいせつなものを奪ってゆく呪い。
七つの《真人》種族をすべてを、いずれ最後の一人まで必ず滅し尽くす――恐るべき『滅亡』の呪いであったという。
神々が残した呪いは、
《
《
《
《
《
《
《
「世界の呪いとは、そうしたもの――そうしたもの、なのです」
――だからこそ、《箱舟》の
まるで老いた女がつくような、諦観の息をついて。
シドを見つめ、クロは微笑んだ。
「どうか誤解しないでくださいね、シド・バレンス。クーの呪いを解いてくださったこと――ほんとうに感謝しているのです。これは心から、ほんとうにほんとうです」
けれど、五百年前に壊れてしまった隔ては、今なお壊れたままで。
「でも、そうですね。もし――もしもシド・バレンスがクーを哀れな女の子と思ってくれるのなら、どうかひとつお願いを聞いてください。この輝ける時間の終わりに、またクーのもとへ、世界の呪いが訪う日には」
ふわりと傍らへ膝をつき、クロは両手ですくいとるように、シドの手を取った。
その胸元で組んだ手のうちへ、シドの手を包んで。まるで祈るように、懇願する。
「――この身が再び呪われる前に。
どうかこの手で、クーの時間を終わらせてください」
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