140.夜空に星を見上げながらする談笑って素敵ですよね。ただ、それだけで終わってくれたら、よかったんですけどね……

 二階の屋根へのぼると、夜のオルランドが一望できた。


 満天の星空と明るい月。その膝下へ敷いた黒豹の毛皮のように、夜を吸って黒々とした街並みが広がっている。


 ぽつぽつと、毛並みが弾く光のように灯る光点。オルランドの市街へ碁盤目状に敷かれた大道に沿って並ぶ、街灯のだ。


 東へ目を向ければ、南の丘から滑るように灯りが並んで明るい。街灯ばかりでなく、家々が灯す明かりもあるだろう――この時間まで明かりを灯しているのは、豊かな東市街、その中でも山の手にあたる丘陵地へ家を持てる、富裕な家ならではのことではあったが。


 それらはすべて魔光灯――魔法の灯りをともす附術工芸品アーティファクトである。ぽつぽつと灯る街灯だけが明るい中央の市街を挟んで、午後に行ってきたばかりの西の市街はそうした明かりを持たず、深い夜の底で眠っている。

 

 《オルランドの北壁》にも、同じ色味の光が等間隔で並んでいる。

 その微かな明かりと、月星の光で白々と青褪めた夜空の色を吸うようにして、《箱舟アーク》の影が遥か高みへと伸びている。


「シド・バレンス」


 呼ばれて見下ろした、その先。

 火をともしたランプを傍らに置いたクロが、ゆるやかな屋根の傾斜へちょこんと座って手を振っていた。

 ――準備万端である。


「最初から、ここまで呼ぶつもりだったのかい?」


「はい、いい景色でしょう?」


「……俺が、もう寝てしまっているとは思わなかった?」


「思いませんでした。心がつながっていたので。だからシド・バレンスが寝てしまう前にと思って、声をかけたのですけれど」


 ランプのあたたかい明かりに照らし出された横顔は、ニコニコと無邪気に笑っていた。

 シドは静かな諦観の心地で息をつき、クロの隣へ腰を下ろした。


 確かに、胸がすくようないい景色だった。それだけは間違いなく。


「どうでしたか? あの後は。いい買いものはできましたか?」


「そうだね――」


 ――と。

 問われるまま答えかけて、ふと疑問が引っかかる。


 もしかしたらクロは、自分とフィオレが二人で買い物をしている間も、ずっと『心が繋がって』いたのではないか。だとしたら彼女は既に、その間のことも知っているのではないか。

 仮にそうだとしたら――ここで彼女がそれを問う理由は、一体何なのだろうか、と。


「シド・バレンスは、やっぱり察しがいいのですね。時々ですけれど」


 クロはクスクスと、肩を震わせて笑う。


「でも、そこは横着せずにちゃんと答えてもらえると嬉しいのです。たしかにクーは、シド・バレンスの『その時』の心は知っていて、きちんと覚えていますけれど」


 でも、と。

 緩く抱えた膝の間に頬を落とし、細めた眦でシドを見上げる。


「でも、『今』のあなたがどんなふうにそれを振り返り、それを受け止めているか――それは、今このときにそれを思い、答えようとしてくれなければ、クーには決してわからないことなのです」


「今……」


 その、もってまわった言い方を、どのように受け止めればいいものか。

 正しい落としどころを見つけられたなどとは到底思えはしなかったが、それでもどことなく、得心いったものはあった。


「そうだね。いい買い物をできたと思う。今バタバタしてるのが、ぜんぶどうにかして落ち着いたら……またもう一度、今度はもっといい形で、《箱舟アーク》の探索に挑めるんじゃないかと思っているよ」


「それはなによりでした。クーも嬉しいです」


 その時、その時は、つらくてしんどくて面倒なばかりだったような時間でも。

 後から立ち止まって振り返れば、決して悪くなかった時間として思い出せることもある。


 終わってみれば、悪くない時間だったと振り返れることなのか。

 何とか終わったけれど、二度とやりたくないようなことなのか。


 それこそ――終わって後から振り返ってみなければ、分かりはしないことが。


 ただ、


「……フィオレには、だいぶん面倒をかけちゃったけど」


 ヘズリクの息子や弟子の鍛冶師たちに剣を見せる間、ひたすら待たせてしまったのもさることながら。

 手付金の支払いについても、結局フィオレの判断にゆだねる格好になってしまった。


 そも、既に現金の持ち合わせがほとんどなかったシドは、《ティル・ナ・ノーグの杖》探索の報酬として受け取った品から現物で、あるいはそれを換金したもので、手付金を支払う以外に術がなかったのだが。


 結局、最終的にどれを手放すのか。

 自分ひとりでは、最後まで決断をつけられなかったのだ。


「シド・バレンスは優柔不断なのですね。フィオレについていってもらって、ほんとうによかったです」


「本当にね……」


 いたたまれない心地で肩を縮めて、がっくりと項垂れる。


 結局その時は、シドが持ってきていたものの中から、額面やら価値やらで相応になるものをフィオレが選んだ。翡翠ジェイドを飾った、ブローチだった。

 ヘズリクはそれを一瞥し、程なく「ふむ」と唸って首を縦に振った。


 手付金の支払いについてはかくてあっさりと片がつき。受け取りの際の支払いまでにはちゃんと現金を作って持っておこうと、シドは内心そう決めた。


「それにフィオレだって、面倒だなんて思ってなんかないのです。そこは信用してあげてもいいと思うのですけれど」


「そうは言うけど……フィオレはあまり、ああいうのに縁のある子じゃないし」


「そこはクロのことばを信用するのがきの良きなのです。フィオレとも心がつながっていましたからね」


 ふふん、と胸を張るクロ。


「それでも、なお負い目があるというのなら。落ち着いたころに、街歩きにでも誘ってあげるといいですよ。ふたりで甘いものなど食べて、草木の多い公園なりで散策がおすすめです」


「いや……」


 胸を張ったまま自信たっぷりふんぞりかえって言うクロに、シドはなんとも渋い心地を覚えずにいられない。

 それは、街歩きというか、


「……そんな、デートみたいな」


「デートですよ?」


 臆面もなく言い切った。この子。


「臆面もなくというか、クーはそれくらいのつもりで言っていましたし。

 なんといいますか、シド・バレンスの中に『デート』という概念があったことが意外です。それならそれで最初からわかりやすく、デートってゆっていました」


 ……何をやらせるつもりでいるのか。デートって。

 三十七歳の、いい歳したおっさんに向かって。


「そうは言いますが、シド・バレンス。フィオレはシド・バレンスより年上なのですよ?」


「いや……それはね? 確かに実年齢はそうかもしれないけどさ。彼女はエルフだからね」


 声に出して、シドは唸る。


 ――ものすごくやりにくい。クスクスと弾けるようなクロの笑い声を聞きながら、シドは頭を抱えたい心地になっていた。


「俺のことより、クロこそ……あの後はどうだったんだい? ちゃんと買い物はできた?」


 訊ねる。話を逸らす意図がない訳ではなかったが、実際それも気がかりではあった。

 シド達が《Leaf Stone》へ戻った頃には、クロを送り届けたセルマはとうに帰ってしまっていたから、なおのことである。


「はい、もちろんなのです。当面必要そうなものは、きちんと揃ったと思います」


 ふふん、と得意げにするクロ。

 そうした様だけ見ていると、見た目相応――あるいはそれよりもう少し幼い年頃の、子供そのものの振舞いである。


「セルマ・オリゴクレースにも、迷惑などかけていませんよ? むしろ、迷惑ならクーがかけられる側でした」


「そうなのかい?」


 笑いながら、大仰なクロの長広舌を聞く。

 機甲人形オートマタとはいえ、沈着冷静で仕事もできそうなセルマがクロに迷惑をかける状況というのは、さすがにちょっと想像がつかなかったのだが。


「そうなのです。なので――その件について、シド・バレンスにはおはなししておかなければと思っていました」


 少女の愛らしさで微笑んだまま。

 明るい談笑の続きのように、クロは語った。


「実はあのあと、セルマと一緒に連盟支部へ行っていました。支部長さんやそれ以外のひと達と、《箱舟アーク》であったことのおはなしをしてきました」


 談笑で緩んでいた頭が、潮が引くようにざぁっと醒めた。


「……何だって?」


 そんなシドと対照的な明るい笑顔のまま、クロは続ける。


「クーのこと、《箱舟アーク》のこと、《キュマイラ・Ⅳ》のこと、これからのこと――クーが話せるたくさんのことを、おはなししてきました」

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