139.窓越しに話をするとか屋根の上に降りるとか、ちょっと特別感があって浪漫を感じる気がしなくもありません。他に特段気にすべきことがなければ、という但し書き付きかもしれませんが


「はぁ……」


 浴室で湯を浴び、さっぱりした心地で。

 清潔な着替えに身を包み、シドは心地よく火照った息をついた。


 この時間まで厨房で明日の仕込みをしていたナザリとエリクセルに挨拶をし、タオルで髪を拭きながら階段を二階へ上がる。

 森妖精エルフ風の精緻な模様を美しく編み込んだ絨毯と、こちらもやはり森妖精エルフ風の文様を織り込んだタペストリ。鮮やかな色彩のそれらが飾る二階の広間は人気ひとけもなく、しんとしていて、先に湯をつかったフィオレやクロは早々に自分の部屋へ戻って就寝なりしていたようだった。


 耳を塞ぐような静謐。階下から上がってくる調理の音が、時折思い出したように、その重たい静けさを撹乱していた。

 何となしに物寂しさを覚えて、シドも早々に自分が宛がわれた寝室へと入った。


 客室は、箱型のベッドひとつでほとんどいっぱいの、こちんまりとした部屋だ。

 南向きの通りに面した上げ下げハング窓から、青褪めた月の光が差し込んでいた。


 布団を敷いたベッドへ飛び込み、肺に溜まった空気を深く吐き出す。


(なんだか、えらく疲れた気がするな……)


 ――と言っても、何をしたかとなれば大したことはできていない。


 クロの生活に入用となるものを揃えるついでに、《箱舟アーク》探索でなくした装備の代わりを調達する、そのあてをつけてきた程度。とはいえクロの身の回りの品に関しては、フィオレとセルマの女性二人に頼りきりの始末。


 それから、手紙──交易商人の少女サティア宛に、事態の終息を伝える手紙。

 この期に及んで彼女に対する報復にまで舵を切るラズカイエンではあるまいと見切って、風呂が空くのを待つ間に手紙をしたためるまではした。

 これは明日、連盟への行きがけなりそれ以外のどこかのタイミングなりで、郵便に出せばいい。


 本当ならもっと早くに──《箱舟》から帰還したときにすませておくべきことだったが、いろいろあって完全にタイミングを見失っていた。


 ──ろくに状況が進んでいない。

 というより、どうも万事に手が遅い。


 昔はまだ、もう少しくらい――きびきびといろいろなことを、できていたような気がするのだが。


(歳とったってことかなぁ……)


 ――それとも、今にして振り返るからこそそんな風に感じられているだけで。本当のところ、若い頃から自分はずっと、この程度のしろものだったということだろうか。


 次の探索までに、やらなければいけないことは未だ山積みだ。


 これから先、探索の拠点として世話になる冒険者宿を決めて。

 共に《箱舟》探索へと臨む、パーティの仲間を募集して。


 どのみち装備が揃うまでの間は如何ともしがたいところだが、この二つはこの先最大の難関というべきものだ。

 何せこちとら、うらぶれ者の中年男で、しかも《くすんだ銀オクシダイズド・シルバー》の冒険者である。そんな胡乱なおっさんを末席に加えてくれる冒険者宿が、そんなみすぼらしいおっさんとパーティを組んでくれる奇特な冒険者達が、果たしていてくれるものだろうか――


「……そうだ。バッジの再申請もしないと」


 《諸王立冒険者連盟機構》の紋章バッジは、《大陸》において冒険者の身分と実績を示す身分証である。これなしで冒険者として活動するのは推奨されない――というより、その土地で顔なり名なり知れている冒険者でもない限り、真っ当に冒険者として扱ってなどもらえない。


 他方、冒険者というのは荒事商売である。

 肌身離さず身につけるものであっても――というより、肌身離さず身につけていればこそ、今回の一件のような形で、あるいは様々な要因による事故で、紛失・喪失するケースはいくらでも起きる。

 そうした際に新たな紋章を発行するのも、連盟の業務、そのひとつである。

 そして、それはつまるところ、


(……もしかして、晴れて真っ当な形で、《くすんだ銀オクシダイズド・シルバー》脱却ってことか?)


 そんなことを思いかけて、いやいやとすぐさま首を横に振る。

 まず第一に、二日前に初めてセルマと知り合った際に若い冒険者ともめた一件で、シドが《くすんだ銀オクシダイズド・シルバー》だという事実は盛大に暴露されている。

 あの場にいた冒険者の多くは若い冒険者の揶揄を聞いていただろうし、そのうちの少なからぬ数が、シドの顔も見たことだろう。

 いくら紋章バッジを新品に換えて出直したところで、シドが《くすんだ銀オクシダイズド・シルバー》の冒険者であるという事実は、とうに知れ渡ったその後だ。


 そうして冷静に振り返ってみると、ほんの一瞬でもその事実をうやむやにできるのではないかと希望を抱きかけてしまった己という男は、たいへんみっともなく恥ずかしいものと思われてならなかった。

 両手で顔を覆って、湿った溜息を盛大につく。


(そもそもが、気の早い話なんだ。冒険の後始末すら、まだちゃんと終わってなんかいないんだから……)


 支部へは明日の午後に出頭だと、手紙で伝えられていた。

 何を訊かれるか分かったものではないが、心構えだけはしておくべきだろう。

 いや――フィオレとクロも一緒に呼ばれているのだから、二人とは事前に打ち合わせなりしておくべきだろうか。ていうか、どうしてその発想を今になって思いつくのか。それは明らかに、少なくともサティアへの手紙と同じくらいには、シドの買い物よりも先んじて済ませておかねばならないことではなかったのか――?



 ――コンコン



 寝入り端、次から次へと自分の失敗に気づいて頭を抱えたくなるシドの泥沼っぷりを断ち切るように。

 窓ガラスを叩く軽い叩音ノックが、室内の夜気を震わせた。


 仰向けになったまま、おとがいを反らして窓を見る。

 窓越しに部屋を覗き込む少女の顔が、シドを見出してにっこりと笑った。


「……クロ?」


 一挙動で身を起こしてベッドを降り、窓を開けに行く。

 上げ下げハング窓の下半分を引き上げると、やはりそこにいたのはクロで。シドと対面した少女は月明かりに照らされた宝石のように、明るく笑った。


「こんばんは、シド・バレンス。今日はもうおやすみするところでしたか?」


「ああ、うん。そのつもりだったけれど――」


 クロは?

 と、問いかけるのに半歩分ほど先んじて。クロは華やかな笑顔と共に、両手を打ち合わせた。


「でしたら、おやすみの前にちょっとおはなししませんか? クーはまだちょっと寝付けそうになくて、ヒマヒマの退屈さんなのです」


「話、って……」


 急なことに困惑しながら、クロの足元を見下ろす。

 窓の外の彼女は、一階の屋根の上へと降り立って、ニコニコとシドを見上げていた。


 横合いへ目を向ければ、クロの部屋の窓がこちらと同様に開いているのが、月明かりの中でかろうじて見て取れた。

 その間もニコニコとこちらを見上げているクロは屈託のない無邪気な少女そのもので、その誘いを無碍にするが如き言いようは、それでなくとも罪悪感を煽られそうになるが。しかし、


「……こう言っちゃなんだけど、クロ。夜も遅くに異性とふたりきりだなんて、若い女の子にはよくないことだよ。そのおしゃべり、フィオレとじゃだめなのかい?」


「だって、フィオレはもう寝てしまいましたし」


 ――そうだった。

 そういえば、基本的にすごく寝つきがいい子なんだった。彼女フィオレは。


 大人ぶった説教がましい言い草が見事に空振りする格好となり、シドは恥ずかしさと気まずさでいたたまれなくなる。


「あっちに、上の屋根へ上がれる梯子があるのです。この街は背が低いから、屋根に上がると景色がとてもよく見えますよ」


「あ、ちょっと――」


 止める間もなく踵を返し、かんかんと靴底で屋根瓦を鳴らして走っていくクロ。

 ――こうなってしまうと、無視して部屋に戻るのも躊躇われる。


「シド・バレンス! はやく!」


「ちょっと、待ってくれ。そんな急かされても――」


 窓枠をまたいで、すぐ外の屋根に降りる。

 幸い、シドの体重がかかったくらいでは、屋根が壊れたり瓦が割れたりということはないようだった。つくりがしっかりとしている。

 《Leaf Stone》の建屋の端に――確かに、クロが言ったとおり――二階の屋根へ続く梯子があった。


 左右の家と間隔が詰まった、密集した市街だ。足場なしで屋根へ上がるためのものであろう梯子でするすると上へのぼっていってしまうクロを目で追って、シドもやむなく、その後へ続くことにした。

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