138.間章:宝石の娘は、未だ未来の夢を見れない
オルランドをその領内に置く沿海州における風呂事情は、公衆浴場が主としてその役割を担っていた。
《大陸》全土を見渡せば、肥沃なる中原地方、あるいは東方諸国においては、個人の家に浴室を設ける土地も増えつつある。そのため、それら諸国の文化が流入した余波でもって、
ただ、少なくとも庶民の世界において、それらは未だ一般的なものではない。
オルランドにおいてそれらの例外というべきは、市内各所に点在する宿である。
クロが一時の宿りとして預けられた《Leaf Stone》もまた、その例に漏れなかった。
「っ……はぁ――――……!」
大きな
フィオレが胸の奥から絞り出すように細く、心地よさに溶けた声を吐き出した。
長い髪を湯舟へ散らすように浮かべながら。クロは顎先まで湯につかって──ぐぅっと大きく伸びをするフィオレの様を、見るともなしにぼんやりと見遣っていた。
「……なんだか急に人心地ついたみたいな気持ち。昨日はお風呂に入り損ねちゃってたからかしら」
「そうでしたか」
元より湯量の確保に困らない温泉地でもなければ、風呂を使える時間は限られる。
湯を沸かす手間と、沸かした湯で風呂桶を満たす手間がかかるからだ。
「でも、こう言ったら失礼かもしれないけど、ちょっと意外。クロが『今』のお風呂の使い方を知ってたの。もしかして、昨日のうちにナザリさんから聞いてたの?」
「もちろん、それもありますが――」
ナザリは、昨日くたくたで宿へ帰りつくなり食事だけ採って眠ってしまったシド達に代わって、何かとクロの面倒を見てくれた。
終始押しの強いところこそあれ、世話焼きで気風のいい女性だ。もちろん、『実地』において彼女の存在に助けられた面はある。
が――
「同じ人型のいきものが使うものですからね。用途さえ分かっていれば、およその予想はつきますし――むかしの風呂屋さんとも似てましたから」
「え?」
きょとんとするフィオレ。湯の心地よさで思考が溶けているのか、いまいち頭の回りがよくない彼女に、クロは苦笑気味の笑みを浮かべる。
「クー達はおおよそ五百年前まで、《
第三層の
《
それは、いつか外の世界において『呪い』が消えるかもしれないという希望を抱いての観測であったが、同時に《
クロが生まれるよりずっと昔、『外』の文物や様式を取り入れた生活が、《
それらは流行の陳腐化と共に廃れ、一部の趣味人達による娯楽として、《
当世の貴族達が、狩りに遊ぶのと同じ。
都市へと配置された魔物を狩って愉しむ、遊技場の名残だ。
「それに、クーは心でつながっています。お風呂に入っているひとの心とつながれば、入り方を知るくらいはちょちょいのちょいということです」
「……もしかして、って。ずっと気になってはいたんだけど」
ぱちゃり、と掌で湯を救って落とすクロに。フィオレは探るような顔つきで訊ねた。
「その、『心で繋がる』っていうの――特定の『誰か』とじゃなくて、周りにいる人達と無作為に繋がっているってこと、なのね」
「はい」
ニコリと笑って、クロは頷く。
湯に浮かべたままだった髪が揺れて、微かに波紋が立つ。
「みんなと心でつながっています。どれくらいのひとと、と問われてしまうと、正確なところまでは言い切れませんが」
少し考えて、クロは答えた。
「シド・バレンスとフィオレの心とは、ずっとつながっていましたよ」
「そうなんだ……」
フィオレの表情は、困惑にも似て複雑な情動に曇っていたようだった。
――それは、そうだろう。そうであろうと、理解するのは難しいことではない。
「もちろん、それとて無限のものではありません。今のこの世界に、
この都市の全域――には、おそらく届いていないだろう。この街は東西に長く伸びている。
「……《
「『今も《キュマイラ・Ⅳ》と心がつながっているのか』という意味なら、それは『いいえ』です。《箱舟》から離れてしまったせいもありますが、もとより《箱舟》の『中』と『外』は、世界として断絶した別領域です」
フィオレはよくわからないとばかりに眉をひそめる。
クロはにんまりと笑みを深くしながら、そんな彼女でもわかりそうな、より適切な言葉を探す。
「《
ただ、外と中を物理的に隔てる扉が開いているがために、自由に行き来が可能な状態にある――言うなれば『歩いて行ける異世界』というべき場所になっているのが、今の《
フィオレは眉をひそめたまま、天井を仰いでしばし黙考していたが――やがて、この場で思考を続けることを放棄した。
――べつに、今はそれでもいいだろうと思う。彼女は魔術士で、それにちゃんと頭のいいひとみたいだから。
代わりに彼女が口にしたのは、それまでとはまったく別のことだった。
「……明日、セルマさんにもちゃんとお礼言わないとなぁ」
「そうですね、それがいいです」
《
世界とは重なり合った
そう――きっと、だからこそなのだろう。
《
最初に気づいたときは、まさかと思った。
もしかしたらと、儚い希望に縋りたくもなかった。
けれど、これは――たぶん、もうどうしようもなく、認めなくてはいけないことだ。
「…………………………」
湯舟からてのひらで湯を救って、落とす。
ぱしゃりと耳に心地よい音と共に波が立ち、てのひらに残った雫が灯火の灯りにきらめく。
水を弾く肌は、今もこうして女の子のやわらかさをしている。
今は、まだ。
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