137.そこ、質問するところなんですか? と。逆に訊ねたくなってしまうおっさん冒険者、シド・バレンスの昔話です。
「……へ?」
思いがけない質問に、シドはぽかんと目を丸くする。
正直なところ、シドはフィオレが切り出すのを躊躇っていた短い時間の間、一体何を訊かれるのかと内心でかなり身構えていたのだが。しかし、果たして切り出された彼女の問いは、それらの一切とかすりもしないところを、ぽーんとボールのように飛んでいくものだった。
「えっと……なんだか、知り合いみたいだったし。女のひとみたいだし。たぶん、私がパーティを組んでもらうより前の知り合いなんだろうけど、どんなひとなのかなって」
――そういえば。
ヘズリクの口から『イルダーナフ』なる女の名前が出てから、すぐに工房の
その後は話を戻す機会もなく、今に至るまで何となく忘れてしまっていた。
「どんな……って、言われても」
しかし、そう訊かれたところで、一体どう答えればいいのか。
しかも、そうやって的を射た言葉を選ぶ間にも、じっと見上げてくるフィオレの表情がじわじわ不安に曇っていくのが見えて。シドは焦りのあまり、ほとんどやぶれかぶれの勢いで答えを口にした。
「そのひとは、ええと……よく知らないひと」
「……シド」
「本当なんだって!」
なぜか、自分がひどくみっともない言い訳をしているような心地に襲われながら。シドはいっそう焦って声を大にする。
「会ったこともないし、名前だっておやっさんから――ええと、ミッドレイの連盟支部で支部長をしてるドルセンってひとがいるんだけど、その彼から聞いたくらいで。彼女について俺が知ってることは、本当にそれだけなんだ」
《ティル・ナ・ノーグの杖》探索の旅が終わり、やむにやまれぬ事情でパーティが解散することになって。やむなく戻ったミッドレイで、はじめてその名を聞いた。
――ミッグ・ザスの森へと分け入った、『渡り』の女冒険者。
――いかなる経緯によってか知恵ある
《
「確かに、印象に残る名前ではあったけど。でも、まさかこんなところで聞くなんて思いもよらないことだったから……正直、かなりびっくりした」
「そのひとが、シドのお師匠さまと同じ剣を使うって、そう聞いたから?」
シドは頷く。
正直、今の今までろくに意識へのぼることもなかった、単に名前を聞いたことがあったというだけの何某が、やおら奇妙な存在感を携えてシドの胸中に根を張り始めていた。
フィオレは、「ううん」と難しい顔で唸る。
「同門のひと……なのかしら。剣術が同じってことは、そういうことでしょ? 知り合い同士だったりして」
「どうだろう……仮に同門だったとしても、俺が師匠に剣を習ったのなんて、二十年は前のことだからなぁ」
その頃のシドは、大人の男の年齢など見て取れるような年頃ではなかったが。
それでも、師匠に対して『若い』という印象を抱いたことはない。父や母と同じカテゴリの、『大人』として仰いでいた。
(今も生きてるなら……五十と幾つってとこか)
いや。とうに六十歳の峠を越えていても、おかしなことはあるまい。
他方、問題の『イルダーナフ』は、ドルセンとヘズリクの間で一致して『若い女』という評だった。件の彼女が何年前にミッドレイを訪ったのか、はっきりとしたところは聞いていなかったが――ドルセンやその息子であるヨハンの口ぶりからして、ここ二、三年の間ということはなさそうだった。
「どのみち、直接の知り合いってことはなさそうな気がするけど――ていうか、どうしたのフィオレ。いきなりそんなこと気にして」
もしかして自分は、そこまで気がかりにさせてしまうような大袈裟な反応をしていただろうか。
複雑な心地で訊ねるシドに。フィオレは最初、ふいとあらぬ方へ視線を逃がして、答えを躊躇ったようだったが。
「……私、シドのことあんまり知らないんだなって」
「え?」
「私ずっと、シドはクロンツァルトのひとなんだと思ってたわ。そう頭から思い込んで、疑いもしなかったの。でも」
でも、本当はそうじゃなかった。
シドの生まれは《十字路の国》クロンツァルトではなく、そこから西――パーン山脈の高地にその版図を広げる飛竜の王国、ウインディアだ。
「さっき、シドの故郷のことを聞いたらね。ああ、そうだったんだ――って。ほんとはそんなこと、ちっともなかったのに。なのに私は、それを確めようとも思わなかったんだなって、急に気づいて。そしたら……自分で自分に、びっくりしちゃって」
――ふと。
ちら、と怖気たような控えめさで、フィオレがシドの面持ちを伺う。
「その……聞かない方が、いいことだった……?」
「まさか」
苦笑を広げながら、シドは首を横に振る。
べつに、意識して伏せていたことでも何でもない。ただ、単に話す機会がなかっただけで。
「だいいち二十二年もクロンツァルトで冒険者してるんだから、もうとっくにそこの人間みたいなもんだって。それに故郷って言っても、俺は十五の歳に飛び出したっきり、今まで一度も帰ったことなんかないんだから」
冒険者になってから今に至るまで、一度として帰ったこともない。家族の現在が気にならない訳ではなかったが、それとて今はもう、はっきり足を向けさせる衝動として熱を持つこともない。
帰って家族に合わせる顔があるでもない。
そんな故郷だ。
「俺からしたら、フィオレがウインディアのことを知ってる方がびっくりだな。何となく、フィオレには縁のないところみたいな気分でいたから」
「中原から東へ渡るときに、一度だけね。山越えで、飛竜に乗せてもらったの」
「……それ、竜の航空便で山越えするやつ?」
「? そうだけど、それが?」
思わず、念を押す調子で確認してしまうシドに、きょとんと眼を瞬かせるフィオレ。
だが――昔、シドが噂に聞いた話が本当だとするならば、山越えの飛竜は確かに速いが、代わりにおそろしく値の張るしろものだったはずだ。
にもかかわらず何の疑問も抱いていないフィオレの様子に、シドはしみじみ、自分と彼女の違いを噛み締める。
どれだけ気さくで親しみやすくあろうとも、彼女は肥沃なる中原で最大の
人間の世界で言うなれば、生え抜きのお姫様なのだ。
「シドは、その……気になったりはしないの? ご両親のこと、とか」
「……どうだろう」
まったく気にならないと言えば、それも嘘だ。
けれど、それ以上に胸を占めるのは、『今更』と零す諦観だった。
家族仲が悪かったのか、と問われれば、決してそんなことはない。両親はどちらも厳しいひとだったが、子供たちへ等しく愛情を注いでくれたひとだったのだと今なら分かる。妹たちとも――喧嘩や嫌な思い出がない訳ではなかったけれど、兄としての愛情は今もある。
けれど、あの家はとうに、二人いる妹のどちらかが婿を取って継いだだろう。
二十二年。いないも同然だった男が今更帰ったところで、居場所などあろうはずもない。
「むしろ、家を飛び出したきりの長男がいきなり帰ってくるなんて、いったい何事かって思われそうだし。あんまり歓迎されなさそうだなぁ……」
「そんなこと絶対ないわ。家族なんだから」
勢い込んで身を乗り出し、きっぱりと言い切るフィオレ。
その真っすぐな素直さを、シドは好ましく思う。その疑いのなさは彼女の心根の優しさを示すものであり、同時に、彼女の育ちの良さを示すものでもある。
「……もしかして、家に帰りにくい理由で出てきちゃった、とか?」
「それも、なくはないかな」
苦笑混じりに肩をすくめ、シドは星が浮かびつつある空を仰いだ。
何となしにそのまま口にしかけた言葉を、笑みを刻んだ口の端でかみ殺す。力のない笑みを広げ、そしてシドは答えた。
「『外』へ出てみたかったんだ。師匠みたいに」
――もう、お前に教えることは何もないよ。
――この先は、得たものを自分で磨き、研ぎ澄ましてゆくことだ。
皆伝を告げることばと、卒業の餞別に残した一振りの剣を置いて。
シドが十二歳の年に、師匠は再びどこかへ旅に出た。
師匠は旅人だった。それ故か、シドが剣を教わる間、彼は折に触れて、それまで旅した諸国の話を語って聞かせてくれた。
旅の物語を聞きながら。師匠がそうするように遠い異国を渡り歩く自分自身を、シドは夜ごと眠るたび、瞼の裏へと思い描いていた。
師匠が村を去ったその日――いつかその背を追って旅立つ自分を、シドは心のどこかで夢想していたかもしれない。
「東の《
それだけだよ、と。
言葉を切ったシドに対し、フィオレからの応えはなかった。
そんなことにさえ、気づかないくらい――シドはぼんやりと空を仰いで、その実シドが見つめていたのは、瞼の裏に浮かぶ遠い懐旧の景色だった。
故郷を、思い出したせいだった。
……………………。
………………………………。
◆
停留所に来た一番早い巡回馬車に乗って、《Leaf Stone》から一番近い停留所で降りて。
夕食の時間もほぼ終わりの頃合いにかろうじて駆け込んだ二人を待っていたのは、ふたりのぶんの夕食を取り置きながら苦笑気味にしていたエリクセルとナザリの夫妻。
そして、
「遅いですよ、ふたりとも。こんな時間までふたりしてほっつき歩いているなんて、シドもフィオレもわるい大人なのです」
呆れ切った調子で憤然と唇を尖らせた、クロからの出迎えだった。
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