123.間章:序/夢見る宝石の目覚め



 ――《塔》の前に、クロは立っていた。


 ゆるやかに下草を鳴らす風が吹き、模造品の空に雲を流れさせていた。


 《箱舟アーク》の中枢――軌道エレベーターを構成する要のひとつたる《シャフト》。

 冷たく無機質に閉ざされた《塔》の扉と、クロは向かい合っていた。


 クロ――クロロバナージアレキサイオラゴーシェクロラルミナシリカシェリアルミニティタニアジェイドヴォーキコランジオーダメトリンコーパルエルパリドットイトルマヴェルデラクロローム=ベリル=エメロード。


 緑柱石ベリルすえにして翠玉エメロードすえ


 翠玉エメロードを核となし、数多の血統いし混合ドープせし連鎖の果て――今の時代において在る、絢爛にして煌々たる宝種オーブ裔娘すえむすめ。宝石の娘。


 温度を持たない無機質な扉の先に、彼女は『それ』を見ていた。

 もはや、心は繋がってはいない。遠く離れてしまったから、何ひとつ繋がらない――それでも一時いっときの間、確かに繋がっていた『それ』の姿を瞼の裏へと描きながら。クロは他にどうしようもなく、哀惜に引き攣れた胸の痛みを抱えて、そこに立ち続けていた。


「――いつか、かならず迎えにゆきます。《キュマイラ・Ⅳ》」


 他に、やり方を思いつけなかった。

 、クロはこれ以上の形で導き出せなかった。


 《キュマイラ・Ⅳ》は箱舟アークの守護者だった。『おむこさんリンク』を別にすれば、今の《箱舟アーク》でクロにとってたった一基ひとりの、味方と呼べる存在だった。


 けれど、『彼』はクロにとっての恩人だった。

 命と、の恩人だった。

 見捨てるなんてできなかった。


 『彼ら』が――彼の傍にいたひとびとや、たくさんの『外のひとびと』が。その『彼』にとって大切な、決して死なせてはならない存在だということも、分かってしまったから。

 ――ああ、だって仕方なかった。わたしクーは彼とも、心を繋いでしまったから。わかってしまったから。。だから。もはや誰一人死なせずに終わらせる以外の道を、クロは選び得なかった。


 誰一人死なせないためのやり方を、他に考えつけなかった。


 《キュマイラ・Ⅳ》は死なない。斃れない。疲れない。

 彼らはそうではない。すぐ死ぬし、すぐ斃れるし、すぐに疲れる。いともあっさりと、簡単に終わってしまう。たぶんクロ達よりも、ずっと簡単に。


 《キュマイラ・Ⅳ》の命令を書き換えることができたなら。

 その侵攻を、止めることができたなら。命じられた使命を、終わらせてあげることができたなら。

 もう、十分なんだと――そう、告げてあげることができたなら。


 そう、できたなら。

 きっと誰ひとり傷つけずに、すべてを穏やかに、終わらせることができた。


 けれど、わたしクーはそのための方法を知らなかった。知らされていなかったし、繋がった心の中にそれを見ることもなかった。たぶんすべてはクロが繋がれないくらい遠いところで行われて、何一つ解決しないまますべてが終わってしまった。


 《箱舟アーク》は潰えて、終わってしまった。

 『咎人』は、遠いどこかへ行ってしまった。

 きっともう、他に誰も残ってなんかない。


 わたしクーと、おむこさんリンクと、《キュマイラ・Ⅳ》。それから、名前も何もよくわからない、沢山の魔物や魔獣たち。それだけ。


 宝種クロの世界は滅んでしまった。

 後に遺った名残をどれだけかき集めても、世界にはまったく足りない。けれど――


「迎えに――きますから、ね」


 決して届くことなどないと。何の慰めにもなりはしないと、分かったうえで。

 それでも、そこに約束を残して、クロは踵を返す。


 踵を返して――顔を上げた、その先。



 そこに、



 ――亡者たちだった。

 知っているひとたち。知らないひとたち。知るはずのないひとたち。


 無数の同胞が――《宝種オーブ》達が、虚ろに曇った眼を、あるいは瞳すらなくした眼窩を、憎悪と羨望に染めて。クロを見ていた。クロを羨んでいた。


 ――痛い。


「ひっ!」


 聞こえるはずのない声が聞こえた。それはと一緒に、遠い過去となった『現在』へ置き去りにしたはずのものだった。

 世界の呪いが解かれ、『時間』を――その流れを取り戻した今、クロの耳には届くはずのない声だった。無限に重なり、永劫に重なり続ける『声』達だった。


 痛い。苦しい。嫌だ。やめて。死ぬ。助けて。やめて。許して。どうして。返して。痛い死ぬ痛い痛い死にたい死なせてやめて助けてひどい許して許して苦しいくるしいいやだたすけてやめてどうしてどうしてゆるしていたいいやだいやだくるしいいたいやめてやめてやめてやめてどうしてしなせてひどいやめてたすけておわらせていたいいたいどうしてひどいやめてやめていたいいたいいたいいたいどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――


「嫌ああぁあぁぁっ!!」


 耳を塞いで、悲鳴を叫ぶ。

 聞きたくない。もう聞きたくない。

 もう終わったはずなのに。『時間』を取り戻したはずなのに。なのに何で、まだこんなものが聞こえるの――!


 ――ずるい。


 無限に反響する怨嗟の中に、ひどくはっきりと――知らないことばを聞いた。

 えずくように、喉が詰まる。涙と嗚咽で、吐き戻しそうになる。


 ――ずるい。ずるい。どうしておまえだけ。おまえひとりだけ。


「やめて! やだ……いやぁ……!」


 喚く。激しくかぶりを振って、振り切るように走る。

 泥に漬かったように重い脚を、懸命に動かして。亡者の声から遠ざかろうと、もがくように走る。

 ――ああ、でも、わかってた。逃げられるはずがない。どこまでいっても逃げられやしない。


 彼らは/彼女らは、今もにいる。


 ――今もまだ、に在り続けているのだから。


「だって……だって、しかたないじゃないですか! 望んでこうなったんじゃないんです! たまたま、こうなっちゃっただけなんです! でも――だけど、まだ生きられるんだってわかったなら、あなた達だってもう、あんなのに戻りたくなんかでしょう!? 死にたくないって、戻りたくなんかないって、みんな思うのでしょう!?」


 ――ずるい。ずるい。うらやましい。ひどい。

 ――どうしておまえだけ。おまえひとりだけが。


「おねがいです、ゆるして……ゆるしてください、見逃して……もういやです、もうあんなのに戻りたくない……! もう二度と、『時間』をなくすのは……イヤぁ……っ!」


 ――もどってこい。もどってこい。

 ――わたしたちとおなじところに、おまえも、もういちどもどってこい。


「ゆるしてください、ゆるして……見逃して……おねがいです。おねがいします。おねがい……わたし、クーは、クーは何も……だから……おねがいです、ゆるして……たすけて、とうさま……かあさま……!」


 足が重い。泥にはまったように重く、動かない。

 どうして、と見下ろしたその先に在ったものに、クロは息を呑んだ。


 輝く宝石と化し、もはや一歩も動けなくなった、自分の脚。

 宝石と肉の境界が、雲母の剝げるようなぱきぱきという音と共に体を這いあがってくる、おぞましい光景。



「―――――――――――――――――――――!」



 無数の亡者が、嗤っている。

 亡者の腕がクロの腕を、足を、宝石と化した身体を掴み、折っていく。砕いていく。

 クロの体をただの宝石へと生まれ変わらせながら、亡者たちが嗤っている。


 否――そこに在るのは、亡者の群れではなかった。


 


 割られ、磨かれ、研ぎ澄まされ。今や数多の財宝へと生まれ変わった――澱んだ時間の牢獄で永遠の『現在』を重ね続け、永遠に死に続ける、同胞オーブ達の末路すがただった。



 ――どすん。


 と、床に落ちる衝撃で目が覚めた。


 窓から差し込む朝の陽ざしに、天井の木目がうっすらと影を帯びた様が目の前いっぱいに広がっていた。


 ひゅ――っ、ひゅ――っ……


 嗚咽に掠れた息遣いが少女の薄い胸を大きく上下させ、その耳を弄していた。


(どこ……?)


 ――『外』だ。


 ここは《箱舟アーク》の外。シド・バレンスとフィオレ・セイフォングラムが家代わりに寝起きしている宿屋。その一室。

 そこまで思い至ったところで、記憶のすべてが繋がった。自分が今まで、夢を見ていたことにも。


「……………………っ!」


 力の入らない手足に鞭打って、這うように床を進む。

 部屋の角には細長い姿見があった。どたどたと、てのひらや膝で無様に床を打つ音を繰り返しながら、姿見の前へ――よろめくようにしながら、立ち上がる。


「は……っ、は……ぁ……っ」


 鏡に映るクロの体は、どこも宝石になんかなっていない。それでもまだ恐れを振り切れず、乱暴に寝間着ネグリジェを脱ぎ捨てて、素裸の身体を鏡に映す。


 ――宝石じゃない。

 どこも――あたたかい肌と、生きた肉をした、クロの身体だった。


 それで、ようやくこみ上げた安堵に胸を浸して――クロは頬を濡らす涙を、ぐしぐしと拭った。


「――クロ、どうしたの? 何かあった?」


 緊張をはらんで気遣う声が、扉の向こうから響いてきた。

 フィオレだ。シドもたぶん、彼女の傍にいるみたいだった。クロがどたばたと煩くしたから、危ないことがあったのではないかと心配してくれている。


「――だいじょうぶなのですよ、フィオレ」


 声が震えそうになるのをかろうじて殺し、クロは能うる限りのやわらかさで、明るく応じた。


「ふつうに眠ったのが久しぶりすぎて、ちょっと寝ぼけてしまいました。ばたばたしてしまって、ごめんなさいです」


「そう……?」


「はいっ」


 床に脱ぎ捨てた寝間着を拾い、部屋の中を見渡す。

 ――そういえば、今日の服はどうしようか。新しいのをもらえるんだろうか。それとも昨日と同じのを着るんだろうか。


 ひとまずは、少女向けのかわいい寝間着ネグリジェを、頭からすとんと落として。

 自分の顔に涙の痕が残っていないのを、姿見の鏡で確かめてから――クロは隣室へと続く扉を、強く引き開けた。

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