97.今、明らかとなる《キュマイラ・Ⅳ》の真の力!! 『最強』の称号は伊達ではない……!!



 シドの脳裏をよぎったのは、幻想獣キュマイラの牙に両腕を咬み裂かれる激痛の中で聞いた、少女の声だった。


 フィオレのそれと――それに、耳慣れないことばを紡ぐ声が、もうひとつ。

 シドはその時になって、自分の体を癒した術の主が誰であったのか、遅まきながらにして思い至った。


「クロ、きみが――」


 俺の傷を、治してくれたのか? と。

 もしそうなら、治してほしい相手が――と。


 同時に浮かびあがった二つの思考で言葉が目詰まりを起こしてしまったシドを、やんわりと眦を緩めて一瞥してから。クロはその後ろに巨人スプリガンを従えながら、膝をついたラズカイエンへと近づいていった。


「おい――」


「どうぞおかまいなくです、ラズカイエン。これくらいまで近づけば、無理なくきちんと治してあげられますので」


 クロはあっさりと言い、短い詠唱と共に最前の――巨人スプリガンの破壊を癒したのと、同じ術式を起動した。


「熱を除いて、傷を癒します。頼まれても触ったりなんかしませんし、これ以上近づいたりもしません。触りも近づきもしなければ、怪我の手当くらいはしたっていいでしょう?」


「…………………勝手にしろ」


「はい。もちろんなのです。クーの好きにしますです」


 忌々しさを堪える苦さで唸るラズカイエンへ、クロはにこりと無邪気な笑みを広げた。


「ラズカイエンの鱗はすごい熱ですねぇ。ここからでも、こころなしかちょっぴりぽかぽかしますです」


「煩い。手当なら黙ってやれ、人間サルもどきめ」


「はいはい、なのです」


 クスクスと笑って。

 クロは不意に、「ああ。そうだ」と何かを思い出した顔になる


「ところで、シド・バレンスの方はどうですか? シド・バレンスとは距離があったから、だいぶん無理な癒し方をしたので……まだ痛いところや、おかしなところ、ありますか?」


「え? ああ――」


 思わず自分の身体をあらためて見下ろし、ためつすがめつするシド。

 ――両腕は、ぼろきれとなって引き裂けたはずの袖も含めて、完全に癒えていた。今となっては、竜頭の牙に食いつかれた、その痕跡を見出すことすらかなわない。


「おかげで何ともない。クロが治してくれたんだよね? ありがとう」


「どういたしましてなのです。ラズカイエンもそうですけれど、あんな怪我をしていたら、これから走って逃げるのがつらいでしょう?」


「うん――」


 そうだね、と。流れで相槌を打ちそうになって。

 寸前ではたと気づき、シドは訝る。


 クロとの会話に、噛み合わない齟齬があったせいだ。

 それは、


「……『逃げる』って、どういう意味だい? このうえ、一体何から」


「わかりきったことをあえて言わなければいけませんか? もちろん、あの《キュマイラ・Ⅳ》からです」


 な。


 ――と、誰かが呻く声。

 もっとも覿面てきめんに反応し、露骨に顔をひきつらせたのはロキオムだったが――クロへと振り返った全員の面持ちは、一様に緊張で強張っていた。


 クロはラズカイエンへの治癒魔法を解き、冷めた目で《幻想獣キュマイラ》を見遣る。その時には、ラズカイエンの負傷は完全に――内側から破裂した腹部の負傷も、肘から先が吹き飛んだ右腕も、長大な手甲までもが。

 フィオレの治癒魔法で癒し切れなかったぶんも含めて、完全に元通りの状態へと治癒――否、『復元』されていた。


「第一層までは、《キュマイラ・Ⅳ》が乗ってきた昇降機エレベーターで降りるといいです。その間――少しくらいなら、『おむこさんリンク』にがんばってもらって、足止めしてもらえると思います。何なら、パネルの操作まではクーがやってあげてもかまいません。

 そうしてクレイドル――いえ、《箱舟アーク》を出た後は、人里を避けて、人のいない遠くまで逃げるのがいちばん安全だと思います。たとえこの先どう転んでも、いちばん長生きはできるでしょうから」


 言いながら。クロが見遣る先には――光輝く檻に囚われ、荒れ狂う雷光の中で全身を溶岩の槍に穿たれて咆哮を上げ続ける、《幻想獣キュマイラ》の姿がある。


「おい――おいおいおい! てめえ、ガキが何を訳わかんねぇことぬかしてやがる。さっきから黙って聞いてりゃぐだぐだと」


「《キュマイラ・Ⅳ》は殺せません」


 威嚇するように唸るロキオムへ、クロは淡々と言う。

 視線は、二重の極大魔術に囚われた《幻想獣キュマイラ》へと向けたまま。


らが強い魔法なのは、クーにもちゃんとわかりますです。クーがこの《箱舟》で呪われていた間にも、は大いなる飛躍をなしとげてきた。あれがその証左であることを、クーはただしく理解しています」


 けれど、と。クロは睫の長い眦を細める。


「けれど、そんなものとは何ら関係ないのです。あれでは《キュマイラ・Ⅳ》を倒せません。ゆえに、あなた達は《キュマイラ・Ⅳ》に勝ちえません。その厳然たる状況は、いっかな変わってなどないのです」


「クロ、きみは――」


 彼女の語ることばには、奇妙な齟齬がある。

 それは、今なおシド達へ向かって『逃げろ』と警告していることばかりではない。


 彼女の語ることばと、シドの中にある知識との間のにある『ずれ』が、度し難い違和感となって軋みを上げている。その感覚がある。なのに、もどかしいほどに空転する思考は、その違和感を正しく言葉にできない。

 彼女のことばの、意味するところとは、



「――《キュマイラ・Ⅳ》は



 クロは言う。乾いた声で。

 ただ、事実を告げるためだけの、諦観に乾いた声で――宝種オーブの少女の、やわらかな花の唇が、氷のように冷然と告げる。

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