63.初めて入った《箱舟》の中に、おっさん冒険者は大興奮です。当初の目的を、すっかり忘れそうになるほどに……やばいくらいに……


 そこは、石畳の美しい床が広がっていた。

 迷宮に入った経験がない者でも、たとえば洗練された都市の広場などを想起すれば、イメージとしては比較的近しいものを思い描けるだろう。


 傷も汚れもない、石材のタイルを敷き詰めた美しい広場。

 よく手入れされたその広場には宝石のように輝く水滴を噴き上げる噴水があり、花壇に植わった色とりどりの花や、行儀よく枝葉を茂らせて木陰を作る街路樹があり、そのさらに外には広場を囲むように広がる街並みが、街並みの奥へと続く道が、燦々と降り注ぐ陽光に照らされて暖かな蒼とぽっかり浮かぶ雲を湛えて遥か彼方まで広がる空がある。


 そして――シドが初めてたどり着いた《箱舟アーク》の中には、そのすべてがあった。


 唯一、広場を囲む『街』のイメージだけは、外界のそれでは代替不可能なものではあったが。

 天井を戴いた街並みといえば、都会のアーケードを思わせるかもしれない。ただ、広場を取り囲む『街』は、たとえるなら貴族の邸宅や王城――より卑近なもので例えるなら、都会の美術館や博物館に近しい、それらを『街』の規模まで拡大したようなつくりに見えた。


 広場を取り囲むように回廊があり、その先には部屋と思しき扉や、奥まった先へと続く道がある。

 回廊は上に向かって重なり、階段で結ばれている。全部で六層。同じ階層の回廊の間には橋と思しき構造物が渡され、回廊をぐるりと回らずとも反対側まで行けるようになっていた。


 全体が吹き抜けになった階層のさらに上は、それら構造物すべてを見下ろす天井。そこではナイフで切り分けたパイのように仕切られたガラスの天井が、青々とした空の色を映していた。


 絵――ではない。

 空だ。


 なぜなら天井越しに振り仰いだ空は、雲が風に流されている様を見て取ることができたからだ。


「これは……」


「本物の空だ。少なくとも、今のところはそういう事になっている」


 顎を落としてぽかんと頭上を仰ぐシドに淡々と答えたのは、やはりユーグだった。


「昔、この階層の『天井』を確認しようと、観測をやったやつがいるそうだ。馬鹿げたことに、二千メートルまでは上昇できた――それ以上は魔術の接続が維持できず、観測不能となったそうだが」


 シド達を除き、足を止める冒険者はいない。階段を上がって上の回廊へ上がる者もいれば、ユーグが指し示した出口から『外』へ出る者もいる。無論、その先は『塔の外』という意味では決してない――なぜなら、青々と芝が植わった公園のような『外』の景色は、《箱舟アーク》を囲む荒地のそれとはあまりにも隔たったものであるからだ。


 森の中には高々とした塔が、空の彼方へ吸い込まれるように高々と聳えている。


 《塔》の中にまた塔があるというのは、何とも不思議な光景ではあった。と言っても、問題の塔は《箱舟アーク》のそれほど大きくはなく、その高さを別にすれば、一般的な塔の規模に収まっているようだったが。 


「二千……ってことは、じゃあ、この上の階層に上がるためには、それだけの距離を昇らないといけないのか……?」


 重ねて問うシドの声は、動揺の色が拭えない。


「それとも、もしかしてここの回廊ひとつひとつが、《箱舟アーク》の『階層』なのか? 俺が聞いていた話とは、だいぶん違うんだけれど」


 もちろん、シドがこれまで聞いていた『オルランドの遺跡』の話など、所詮は他所からの旅人や、あるいはうさんくさい噂屋を経由した人伝ひとづての又聞きだ。彼らの話が単なるでまかせであったということなら、それもやむなきところではある。

 だが、


「そうじゃない。今こうして目に見えるこの全体が、《箱舟アーク》の『第一層』だ」


 首を横に振り、ユーグは答える。


「そして、第二層に上がるのはそこまで難儀でもない。屋敷の一階から二階――とはいかんが、せいぜい三階まで上る程度を想像すればいい」


「……空間が歪んでいるのか」


 状況は理解できる。だが、どうやってそれを実現しているのかは、まったく想像が呼ばない。


 はるかなるいにしえの時代、《真人》達は大陸すべてに広がり、絢爛にして芳醇なる魔法文明を築き上げたと言い伝えられているが――ユーグの言う通りならば、まさしくこの光景そのものが、言い伝えられた物語の顕現であろう。


ならそんなところだ。だが、『広さ』はそうでもないらしい。恐らく塔の外周までと観測されている」


「……塔の外周にあたる壁がある、という訳ではないんだな? 見たところそれらしいものはないし」


 ――何とも不可解な物言いだった。


 だが、ユーグの方はそれ以上の説明をするつもりはないらしい。いい加減辟易した気配を覗かせながら、皮肉げに口の端を吊り上げる。


「《軌道猟兵団》を追うんじゃなかったのか? 奴らがいるとすれば、おそらく第四層だ。あそこは未踏領域が多い」


「……すまない」


 《箱舟アーク》内部の光景に度肝を抜かれて、完全に我を忘れていた。

 ユーグを以外の《ヒョルの長靴》の冒険者達はリーダーであるユーグよりはるかに分かりやすく、総じてシドに呆れかえっていた。

 それどころか――フィオレですら、今のシドに対しては若干困ったものを見るような、途方に暮れた顔をしていた。


「ごめん……本当にすまない。その、第四層まで案内してもらえるだろうか」


「こっちだ」


 ユーグは奥まった方へ向かう通路、その先へと足を向ける。

 彼に従うパーティの背中に続いて、シドとフィオレもその先へと向かった。




 ユーグに先導される形で――より厳密に言えば、ユーグと、その隣を歩く斥候スカウトの男に先導される形で――向かった通路は、美しく瀟洒な表の街並みからはいっそ意外なほどに、無機質なつくりをしていた。

 

 成人男性が二人並んで歩ける程度の幅の通路は、装飾のないのっぺりとした壁と天井に囲まれていた。最初の広場にあった街並みのような、石畳や金属とは異なる材質の――やはりのっぺりとして、軽い手触りをした壁や、靴底に感じる感触がどことなくゴムを思わせる床を構成する素材は、シドにとっては完全に未知のそれだった。


 《箱舟アーク》の外壁を構成する灰色の素材は、金属とも石ともつかない材質不明の霊性金属、あるいは附術工芸品アーティファクトであろうと言われ、諸国の魔術師や研究者達の手で解析と素材の再現が試みられているとは聞いていたが――もしかしたら内部のこれらも、外壁と同様に未知の附術工芸品アーティファクトであるのかもしれなかった。


 窓ひとつない通路を抜けた先には、やはり機能性のみを追求した、薄暗い階段があった。そこを昇って第二層へと向かう。


 踊り場をふたつ経由してたどり着いた第二層のフロア。

 そこも窓のない――ただ、おそらく木はで組んだ何かの小屋らしき一室あった。


 第一層からの階段は、この小屋が終点。外と繋がっているのは、正面の扉だけ。


 第二層から第三層へは、別の階段なり使って上へ向かうらしい。《真人》達が遺した遺跡は、往々にしてこうした不合理な構造をしている。


 扉から外に出る。


「これ、は――!」


 シドは驚嘆した。


 そこは農園――否、果樹園と呼ぶべき場所であった。

 シド達がいたのは、果樹園の只中に立つ、納屋と思しき小屋であった。


 等間隔で植わった木々は青々と梢を茂らせ、その太く頑丈な枝の先に重たげに果実を実らせている。

 その果実はふわふわの羊毛を備え、頭と胴体と四つ足を備えた――


 とどのつまり。

 その果実とは、であった。


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