34.ひとときの閉幕:陽は落ちて、闇深く


 黄昏時の森の中に、男は立ち尽くしていた。

 赤黒い血と肉片、溶けかけの食事を含んでひどくすっぱい臭いをまき散らす胃酸に、その黒檀のような鱗を汚したまま。


 得体のしれない『呪詛』とやらがもたらす死を、男は待っていた。


 ――男だ。

 だが、『人間』ではない。


 二足歩行の竜を思わせる姿の、水竜人ハイドラウォーク――両腕に長大な盾の如き手甲を持つ巨躯の水竜人、ラズカイエンである。


 竜人の男は待っていた。

 同胞たる戦士達、たった一人の親友、そしてかけがえのない恋人を四散する血飛沫と肉片に変えた『呪詛』とやらが、自分の姿を彼ら彼女らと同じものに変えてくれるのを。

 ただ、立ち尽くして。茫漠たる『無』のたたずまいで、待っていた。


「………………………」


 ――だが。


 『それ』は来なかった。

 陽が中天を過ぎ、やがて西へ傾いた日差しが、森の木々に長く伸びる影をまとわせるようになっても――『その時』が彼の身に訪れることは、一向になかった。


「……どういう、ことだ……」


 どれほどの間、そうしていただろう。

 時間にすれば、せいぜい数時間と言うところであったろうが。永劫のような地獄の時を経てなお自分を殺しに来ない『呪詛』とやらに見切りをつけ、ラズカイエンはのろのろとその場を離れた。


 ――野営地に戻らなければならない。


 真っ先に思い至ったのは、そんなことだった。

 負傷した三人の戦士を休ませている野営地。イクスリュード達の身に起きた事態を共有し、彼らを連れて部族の里へ戻らなければ。


 《箱》の奪還叶わず、戦士として生き恥をさらすこととなるが、この期に及んではどうでもよかった。此度の一件を里の長老たちに伝え、速やかに報復の手勢を編成してもらわなければならない。


 ――人間サルども。

 そう――人間サルどもだ。あいつらが余計な真似をしでかして、神殿から《箱》を盗みやがったのが、すべてのケチのつけはじめだ。


 最初から皆殺しにしていればよかった。せめて犠牲は最小限に――などと無用の気を遣わず、船ごと鏖殺おうさつしていればよかったのだ。

 水竜人ハイドラウォークは水中でも自在に動けるのだから、水の中では息もできない劣等な人間どもなど、船ごと川底に沈めてしまい――然る後に、船の中から《箱》だけを回収していればよかった。


 そうしていれば――少なくとも、この地獄の様相を仕組んだ卑怯者どもに、報いを与えてやることだけはできたのに。


クソが……」


 こうも惨めな心地を抱えて――無力に苛まれながら重い脚を引きずることだけは、なかったはずなのに。決して。


 やがて、野営地にたどり着く。


 そこに広がっていた光景に、ラズカイエンは再び立ち尽くした。


「おお……おおお……おおおあああぁぁあぁぁぁ……!」


 ――マグマニオ。

 ――リュージャ。

 ――バーチェクト。


 野営地に待たせていた三人の戦士は、まるで轢き潰されたカエルのようにぺちゃんこに曳き延ばされて――そのことごとくが、見間違いようもなく絶命していた。


「どういうことだ……どういうことだ、どういうことだ何だこれは! 何があった、何が……何が、あ゛あ゛あああぁぁぁぁ―――――――――!!」


 陽が翳り、夜の闇をまといつつある森の中に。

 黒檀の竜人があげる咆哮が響く。


 誰が? 何のために?

 理由など分かりはしない。だが、『誰が』やったかは明白だった。この素晴らしい戦士たちに、こんなにも名誉とかけ離れた惨めな死をもたらして恥じることをしない愚物など、ラズカイエンにとっては『それ』以外ありえなかった。


「人間……人間! 人間! 人間!

 愚かな、貧弱な、無能な、戦士の名誉も尊厳も何も解さぬ鼠のように卑劣な……ぁあああああ人間! 人間ども! がああああああああああぁぁあぁあ!!!!」


 両のかいなを振り回し。

 木立をへし折り、突然の破壊に慌てふためく鳥達の鳴き声で夜の森を満たしながら。


 竜人の戦士は吼えた。

 腐った泥のように厭わしい人間サルどもへの憤怒と侮蔑、憎悪と呪詛の限りを込めて、慟哭の咆哮を吐き散らした。


「殺してやる! 戦士の名誉にかけて! 死んだ戦士達の尊厳にかけて! 殺してやるぞ人間サルども、殺してやる!!

 報いをくれてやる、虫けらの死をくれてやるぞ――彼らと同じに、いいやそれ以上に! 名誉も尊厳もない惨たらしさで、貴様らを殺し潰すぞ!! 人間!!!」


 その咆哮は、オルランドの城壁に立つ立ち番の衛兵の耳にまで届き、訳も分からず困惑する彼らに、魔除けの十字を切らせるほどおぞましく響き。


「人間! 人間! 人間、人間……殺してやるぞ人間、殺して――人間ぁあああああァァァ――――――――――――――――ッ!!!!」


 しかし、その正体を知る者は――


 すべてを喪い、取り残された水竜人ハイドラフォークの戦士。孤独に慟哭の咆哮をあげる彼――ただ一人だけであったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る