32.幕間:これは、彼らのあずかり知らぬところで起きてしまったこと


 水竜人ハイドラフォークの戦士達――彼ら及び彼女らは、貴種の風格を漂わせる戦士長イクスリュードを先頭に、森の奥へと進んでいた。


「うまくいきましたね、戦士長」


「ああ」


 調子よく声を弾ませる部下――ヤズレンに、イクスリュードは応じた。


 そうだ。確かに上手くいった。失敗との距離が薄皮一枚分の開きであったとしても、成功であることに変わりはない。


 ――『交渉決裂』は、イクスリュードが仕掛けたはったりブラフだった。

 もし、あの場であの戦士と交戦に突入していたならば――仮に勝てたとしても被害は取り返しのつかないものとなり、そうまでして万に一つ《箱》を抱えた女とその馬車を逃がしてしまえば、船で返り討ちにあった二人を含めた戦士たちの犠牲は、完全な無駄死にとなってしまう。


 あの人間の戦士と、船内でプレシオーリア達を迎え撃った船の護衛とで、決定的に異なる点がひとつだけあった。イクスリュードはそれを理解していた。


 即ち――、の差である。


 あの戦士にそのつもりがあれば、野営地に置いてきた三人の負傷者はとうにあの船でしかばねを晒していた。

 間違いなくそうだったと言う確信がある。真っ先に船から蹴落とされたヤズレンの時は別として、あの三人との交戦は、イクスリュード自身が見ていたからだ。


 調子に乗って油断しきっていたところで両腕を落とされたマグマニオ。

 二人がかりで呆気なく返り討ちにあったリュージャとバーチェクト。

 特に前者に関していえば、両腕を落としざまに首を刎ねる程度のことは造作もなかったはずだ。それだけの隙と時間はあった。


 彼らにせよ、ヤズレンにせよ――自分達に比べれば遥かにやわく貧弱な人間種族相手の、油断はあったとはいえ――みながひとかどの『戦士』と認められた者達だ。これが並みの相手であれば、ああも容易く退けられようはずもない。


 だが、あの人間は格が違った。いかな部族の戦士といえど、慢心と油断を友としながら相対して、どうにかできるような相手ではなかった。

 竜人種の再生力の強さを念頭に、部族の戦士をだけの力の差が。彼我の間には横たわっていたのだ。


 されど、一度の敗北を経て、戦士達の油断は消えた。

 そのうえ五対一の戦いともなれば、向こうも必死にならざるを得なかっただろう。もはや半端に生かしておく余裕など残りはしない。


 ――今度こそ、になった。


「所詮は鼠のように臆病な人間種族、しかも戦士ですらないだろうつまらぬ小娘! 命を懸けて死合しあ戦場いくさばの空気にあてられれば容易く心折れるであろうとの見立て、こうも見事に的中とは! さすがイクスリュード隊長!!」


「……見込みが外れれば後のない、文字通りに最後の手段だったがな」


 とはいえ、陽気にはしゃぐ部下ヤズレンほどには、イクスリュードは素直に喜べなかった。

 叶うならば、もう少し真っ当な交渉で事をおさめたかった。人間の戦士から想定外に強硬な条件を突きつけられたせいで、その線は諦めざるを得なかったが。


 てっきり、ラズカイエンの驕慢きょうまんさが戦士の不興を買ったものとばかり思っていたが――文字通りに無関係の、巻き添えでしかないまったくの他人の死に対してあれほど強硬になるほど憤っていたとは。イクスリュードには、完全に慮外の理由だった。


(だが――)


 それも詮無いことだ。ともあれ《箱》の奪還は叶った。中身の《鍵》も確認した。

 あとは、野営地――といっても、開けた平らなところで、負傷者を寝かせてきただけというだけの場所だが――へ戻って負傷者と合流し、ニミエール川を遡上して《月夜の森》へと帰るだけだ。


「ん?」


 一行は脚を止めた。

 自分たちの行き先で、酷く中途半端な躊躇を引きずりながらこちらを待っている、巨躯の人影があったせいだ。


「ラズカイエン……」


「……首尾よくいったか」


「ああ。かろうじてな」


 問いに答え、イクスリュードは歩みを再開した。すれ違いざまに親友の肩を叩き、ついてくるよう促す。

 巨躯の親友の足取りには力がない。頭が冷えて、完全にしょげ返っていた。イクスリュードはひっそりと息をつく。


「とはいえ、真っ当な形での交渉は、ろくろく成立しなかった――貧乏くじを引かせてしまったな、ラズカイエン」


「イクスリュード……」


「お前が、死んだ戦士たちの魂のために憤っていたのは分かっている。結果を振り返ればお前を遠ざけたことに意味はなく、ただただお前の正しい怒りを踏み躙ってしまっただけのことだった――こんな至らぬ戦士長だが、許してくれるか」


「……訊くんじゃねえよ、バカ野郎が」


 ぷい、とそっぽを向くラズカイエン。プレシオーリアがクスリと笑った。


「だが、プレシオーリアにはきちんと謝れよ。彼女に要らぬ心痛を与えたことばかりは、私の一存で裁決できるものではないからな」


「むぐ」


 ラズカイエンは言葉を詰まらせた。かわいいにかけた心配を指摘されるのは、豪胆を以て鳴らす彼にとっても弱いところだったのだ。


「あまり彼女へ気苦労をかけるな。恋人つがいなのだから、いたわってやれ」


「……ぉう」


 竜人達の間で、どっと笑いが起こる。

 巨躯の水竜人ハイドラフォークのものとはとても思えない、蚊が鳴くように弱々しい返事だった。


「お、おおオレのことよりだ! んなことより、《箱》の中身はちゃんと無事なんだろうな!? この期に及んで人間サルどもの悪知恵に謀られでもしようもんなら、今度こそオレ達は部族の笑いモンだ!!」


「ちゃんと確認してきたさ。何ならお前も見るか?」


「……寄越せ!」


 イクスリュードの手から、《箱》とその鍵――精緻な文様が刻まれた菱形ひしがたのプレートをひったくる。


 元より、こんなものは気まずさゆえの照れ隠しだ。ラズカイエンとて、仲間たちが――他ならぬ親友イクスリュードが、そんな初歩的な確認を怠るなどと思ってはいない。


「……おい」


 ――だが。


「《鍵》が……!」


「何だと!?」


 気色ばむ竜人達。ラズカイエンの傍に駆け寄って次々と《箱》の中を覗き込み、そのすべてが一様に言葉を失った。

 《箱》の中に、《鍵》はなかった。

 あったのは、煤のような――チリとも粉ともつかない、真っ黒な何かだけだった。


「馬鹿、な……!」


「ありえない。我々が見た時は、確かに《鍵》は《箱》の中にあったんだ! 呪具の反応だって、間違いなく《鍵》の存在を示していた!!」


「だが、現実に《箱》の中はこのザマだ! 人間どもが、何か詐術をしかけやがったんだ――あのクソ卑劣漢ども!!」


 ラズカイエンは煤がこぼれるばかりの空箱を、忌々しく地面にたたきつけた。


「ど、どうしますか戦士長。まさか、こんな事になるなんて」


 狼狽する部下に対し――イクスリュードは苦渋を露わに唸った。


「……引き返すほかあるまい。まず手遅れだろうが、今からでも奴らの痕跡を追うんだ」


 踵を返し、来た道を戻り始めるイクスリュード。ラズカイエンや他の竜人達が続き――だが、一人だけその場から動かない者がいた。


「パトロキオス、何をしている。きみも早く来るんだ」


 あの時――人間の馬車から《箱》を見つけ、その蓋を開いた戦士だ。

 彼は背を向けて立ち尽くしたきり、その場からいっかな動く様子がない。


「パトロキオス。現状の事態はきみのせいではない。ラズカイエンを除いた、あの場にいた我々全員が、《箱》とその中身の真偽を見定められなかった――咎があるとすれば、我々すべての」


 ――ぼこり。

 背を向けたままだった竜人の頭が、風船のように膨れ上がった。


 それを皮切りに。肩が。背中が。脚が。腕が。尾が。全身のありとあらゆるところが、内側から風船のようにぼこぼこと膨れ上がり、



 ――ぱぁん!



 と――まるで、ひとつの水風船のように。

 内側から血と肉片を、骨片の混じった赤黒い残骸をまき散らしながら、竜人の身体が破裂した。


「な――」


「ひ、ひぃいいいぃっ!?」


「いやあああぁぁあぁ!?」


 悲鳴が上がる。

 それは、目の前でパトロキオスが爆発したことによるものではなかった。


 部下の戦士達――ヤズレンとリティアーダの身体もまた、パトロキオスのようにぼこぼこと内側から膨れ上がりはじめていた。

 鱗をまき散らしながら、内側から膨れ上がる――その様はまるで、皮でできた泡の塊のようだった。


「ぴぎ……ぃぎゃああああああああああぁぁぁぁが!?」


「たすけっ、隊ちょ……イクスリューどだいどぼぉ!!」


 まるで、最初の一人の後を追うかのように。

 原型を留めぬ迄に膨れ上がった部下二人の身体が、イクスリュード達の目の前で爆ぜ割れた。


「……馬鹿、な」


 ラズカイエンが呻いた。呻くしかできなかった。


「馬鹿な――馬鹿な! こんな馬鹿な!! 何だこれは……これも人間サルどもの仕業か!? 何が起こった、おい!!」


「……、だ」


 力を失った、掠れ声で。イクスリュードが呻く。

 ぼこりと膨らんだ右腕を自らの鰭刃ブレードで切り落とすと、地面に落ちた腕は瞬時に爆ぜ割れ、骨片混じりの血肉をまき散らした。


「旧き……いにしえの呪詛……だが、何故……? いったい誰が、こんな、こんな、ものを」


「イクスリュード!? しっかりしろ、おい、イクス!!」


「すまない、ラズカイエン……我々は、もはや、我々、は」


 ――ぼんっ!


 目の前で。親友の上半身が粉々に吹き飛んだ。

 力を亡くし、くたりと膝をついた腰から下が、後を追うように爆発する。


「なん……だ……おい……」


 跡形もなく消し飛び、血肉の残骸と化した竜人の戦士――自分の、親友だった、


「イクス……おい、イクスリュード! おい!?」


 訳が分からず声を荒げて叫び、巨躯の竜人ははっと思い至った。

 弾かれたように振り返るその先。自分以外に残ったもう一人。可憐な薄紅色の鱗をした恋人の肩を掴み、詰め寄る。


「プレシオーリア、お前は!? お前は大丈夫か、何ともないか!? お前は!!」


「あ……ラズカイエン、私」


 ――ぼばっ!!


 びちゃびちゃと、ひどく汚い音を立てて――鼻先がむっとするような強烈な臭いと共にラズカイエンへ叩きつけられたものがあった。

 痛くはなかった。ただ、それは生ぬるく、そして目の前が真っ暗になるような、ひどく絶望的な臭いをしていた。


「ごめ、な――ラズ……よごし、て」


 それは、鎖骨の下から股まで、肋骨に護られた部分だけを残して綺麗に爆ぜ跳んだ、プレシオーリアの――だった。


「プレシオーリア!」


 目の前に残った恋人の身体を、男は懸命にかき抱いた。

 安堵のようなか細い女の息遣いが、ラズカイエンの鱗をくすぐる。


「ああ――ラズ、カイエ」


 その、腕の中で――あるいは、その腕の中から。



 プレシオーリア恋人の身体は砕け散り、赤黒い血肉となって四散した。



 ………………。

 ……………………。


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