29.すべてが終わってから振り返ってみると。おっさんはまったく冷静でいられなかったのだと、後悔ばかりの幕引きでした


 ――妥協点。

 妥協点と、竜人の男は言った。シドはひとしきり考え、ひとまず自分の考えを述べることにした。


「まず、件の《箱》とやらを依頼人のところまで届けさせてくれ。それから、道中においてあなた方に襲撃されたことを、件の依頼人に細大漏らさず報告させてもらう」


 シドは言う。


「そのうえで、一旦オルランドまで彼、ないし彼らを護衛し――然る後に、依頼人が件の問題に関与していた場合、彼らに関する情報を俺からあなた方へ提供する。あとは当事者同士で好きに決めてくれ――というので、どうだろう」


 《箱》を取り返すなり、神殿を襲った襲撃者に関して依頼人から情報を引き出すなり。好きにすればいい。


「俺も、あなた方の立場がまったく理解できないことはないと思う。

 けれど、どうかその諍いに、無関係の人間をこれ以上巻き込むのはやめてくれないか。何も知らない、ただその場に居合わせただけの人間が一人――既に、死んでいるんだ」


 イクスリュードは唸った。


「……その提案は、我々に何らのメリットもない」


 そうだろう。シドは内心、それを認める。

 これは彼らの側に真っ当な利益が存在しない、一方的で頭の悪い提案だ。

 ――だが、


「本来、俺達からあなた方に何かを渡す理由がない。そのうえで、俺達があなた方から何かを受け取る義理もない。……俺は現状を、そう判断している」


 イクスリュードは押し黙った。ひどく長く感じられる、黙考の時間が続いた。


「――できれば、今少しの妥協を願いたいな。件の『依頼人』とやらの居場所までの追跡を、我々に許可してほしい。そのうえで、我々の存在と追跡を彼らに対し明かすことなく、彼らに対して秘匿を行ってほしい」


 イクスリュードは提案を返す。


「貴殿ら二人を巻き込むことは、決してしないと確約する。我々は貴殿らのあずかり知らぬところで《箱》の拾得者――『依頼人』なる輩どもを襲撃し、《箱》を我々の手に奪還する。

 仮に彼らが我々の取引に感づいたとしても、何ら問題はない。彼らは必ず皆殺しとし、秘密を秘密のままにすべてを葬り去る。秘密を守り抜くと誓おう」


「……容認できない。その取引は件の『依頼人』に対して、あまりに不誠実なものだ」


 シドはそう返した。


「そも、俺達は件の『依頼人』がどの程度の状況を理解したうえで問題の《箱》を受け取るつもりなのか、それすら把握できていない。

 一連の事情にまったく関与しないまま――件の《箱》を、《鍵》を受け取ろうとしているのだとしたら。彼らもまた善意の第三者であり、あなた方の里への襲撃から始まる一連の状況に、巻き込まれた人間ということになる」


 強くかぶりを振って、シドはイクスリュードの提案を棄却する。


「これ以上、無関係の人間を誰一人巻き込ませない――これだけは、決して譲歩するわけにはいかない。これを果たしえない譲歩を、俺は容れない。受け容れるつもりはないんだ」 


 イクスリュードは再び黙考し――だが、程なくしてかぶりを振った。


「では、やはり交渉は決裂か。残念なことだが」


 ――ざわり、と。

 竜人達の間に、殺気が膨れ上がった。


「五対一だ。のみならず、我々は既に貴公が強い戦士であると知っている。油断はなく、侮りもなく――全力で貴公を屠る。後ろの娘諸共だ」


「そうはさせない。彼女は巻き込ませない。仮にその結果、俺が相打ちになるとしても――その前に、あなた方全員を斬り倒す」


 シドは剣を構えた。

 この期に及んでは、せめてサティアと彼女の馬車だけは無事に逃がす。そのために、いかなる手段を弄してでも、自分達を取り囲む水竜人ハイドラフォークすべてを斬り伏せる。


(そう――できる)


 ――できる、はずだ。訓練は積んできた。鍛錬は重ねてきた。知識も、経験も、練度も。

 そのすべてでもって、果たすべきを果たす――果たして、みせる。


 低く身構える竜人達。正面の二人を視界に捉えながら、後方の三人の気配に対して耳を澄ませる。

 全員のに注意を払う。向かってくるならそいつから。サティアを狙う者がいればさらにそいつを優先して。切り払う。


 イクスリュードはシドが強い戦士であるのを理解していると言ったが、その条件ならシドも同じだ。イクスリュードが強敵であると理解し、それを見越して戦うことができる。護る対象をサティア一人にまで絞り込み、その安全のため、力を費やすことができる。

 細く、限界まで絞った呼気を吐いて。シドは五感のすべてを、研ぎ澄ましてゆく。


 ――誰かが、動いた。



「――待って!」



 ――サティアが。

 静止の声を上げた。


「わかった! もう、わかったよ!――あたし、あなた達に降参する。おじさんにも依頼人さんにも悪いけど、でも無理。あたしは自分の命がいちばん惜しい」


 震える声で。サティアは訴えた。


「《箱》でも、《鍵》でも、なんでも渡す。馬車の中を好きなだけ漁って、あなた達の探し物を持ってってよ。それでぜんぶチャラにして。それでいい? それなら満足でしょう!?」


「……サティア」


 呆けたように、呻くシド。サティアは悄然と項垂れ、「ごめん」と小さく呻いた。

 限界まで張り詰めた緊張が呆気なく解け、イクスリュードもまた、その構えを解いた。


「人間の娘よ。きみの尊ぶべき決断に、私は心より感謝の意を表明する」


 深く、そのこうべを垂れて。

 面を上げたイクスリュードは、顎をしゃくる一挙動で、後方の竜人達に馬車の捜索を命じた。 


「そして――我々からの謝罪と、この先きみが被るであろう損失に対するせめてもの埋め合わせとして。この箱は、どうかきみに受け取ってもらいたい」


 戦闘の気配が満ちると同時に、プレシオーリアが自身の足元へ置いていた箱――宝石をおさめた箱を手に取ると、イクスリュードはそれを馬車の御者席へ、サティアのすぐ傍へと置いた。


「イクスリュード! 《箱》です。ありました!」


 馬車に乗り込んでいた竜人が、声を弾ませた。

 瀟洒なつくりの箱を手に持って掲げながら馬車を降た竜人のもとへ、イクスリュードとプレシオーリアを含む他の竜人達がめいめい集まっていく。

 五人の竜人は互いの顔を見合わせると、《箱》を囲むようにして何事かを始めた。


 竜人達の様子から――《箱》の蓋が開かれたことだけは、シドにも察することができた。彼らは何らかの鍵で箱を開き、中の《鍵》を確認したのだ。


「――確かに」


 箱を閉じ、イクスリュードが重々しく頷いた。


「《箱》と《鍵》だ。これを以て、我らの秘宝が間違いなく我々の手へ返還されたことの確認とする」


 竜人達はイクスリュードの身振りへと応じ、整然と一列に並んだ。

 そして、一様に首を垂れ、礼を示した。


「娘よ。きみの尊ぶべき決断に、あらためての感謝を――そして、その決断によって報われたるすべての戦士と部族の名代として、賢明なる人の子の未来に幸多からんことを祈念する」


 それが、彼らなりの敬意の表明だったのだろう。首を上げた彼らはもはや振り返ることなくシドたちに背を向け、森の奥へと姿を消していった。


「……よかったのかい?」


「いいよ、べつに。もとはといえば、あたしがおじさんのこと巻き込んだんだし」


「俺の事なんかいいよ。そうじゃなくて――」


 シドの言葉を遮るように――はは、と。力なく、サティアは笑った。


「それにさ、ほら。あいつらずっと、おじさんとばっか話してて。あたしのことなんか、べつにどうでもいいみたいな感じだったしさ。

 だから、おじさんが一緒じゃなかったら……もしもここにいるのがあたし一人だったらさ、あたしなんかあいつらにあっさり殺されちゃって、馬車ごと全部取られてたかもしんないし。……だから」


 そうして。


「だか、ら……あたし」


 ――今になって、すべての恐怖を思い出したというように。

 サティアは激しく震え出した自分の身体を抱きしめ、子供のように丸めた背中を震わせ続けた。

 そして、その頬を濡らす、とめどなくぽろぽろと溢れ出した涙を――俯かせた顔にかかる、髪の影へと隠していった。


「怖かった……」


「……すまない」


「怖かっ、た……あたし……!」


 項垂れ、詫びるしかできないシドに、サティアは激しくかぶりを振った。嗚咽に濡れた声が、他にどうしようもなく、訴える。


「……怖かった、ぁ……!」


 ……………………。


 ………………………………。

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