25.一人の力でできることなんて、所詮は手が届く範囲の、限られたものでしかないのだという悔恨
外輪船 《ウォーターフォウル》号の医務室は、診察台とデスク、あとはベッドひとつでぎゅうぎゅうのささやかな一室だった。
そのため、夜半の襲撃による負傷者の大多数は、甲板上で船医の手当を受けていた。
擦傷や切傷の類は治療系統の術式で消毒と止血を行い、骨折の類は当て木をして固定のうえ術式を施す。
冒険者の間で広く習得されている《癒身》の術をはじめとして、大半の治癒術式が齎す効果は限定的なものだ。たとえば解毒ひとつ取ったとしても、正しく毒の正体を見極めることができなければ、対応する正しい術式を編むことはできない。術式の効果は半減以下だ。
あらゆる怪我を癒し、毒を取り除くなど、数多なる凡百の術士にとっては夢のまた夢。だが、それでも正しい診察の知見と経験、時に
術式の強度、術者の力量のみの力ずくであらゆる傷や毒を一瞬のうち癒すことのできる術士が絶無ということはないが、それこそ十二創世神を奉る聖堂の頂点において、神の化身、女神の生まれ変わりと崇め奉られるような――まさしく稀有なる高みの存在である。
――無論、その振るいうる力に、限界はあるとしても、だ。
「乗客全員無事です。避難中に転んで怪我をした御婦人などはいましたが――せいぜいがその程度です」
《ウォーターフォウル》号を預かる船長。彼が直々にそう話して伝えてくれるのを、シドは甲板の片隅で聞いていた。
視線を操舵室のある方へと向ければ、そちらの甲板は布団や毛布が敷かれた臨時の施療所になっていて、昨夜の襲撃で怪我をした船員達が船医や《癒身》の心得がある者からの治療を施されているのが見て取れた。
「船員も――甲板上の交戦で負傷者は多数出ましたが、この戦闘における死者はありませんでした。あなたのおかげです」
船長は帽子を取ると、あらためてシドに向かって頭を下げた。
だが、シドの胸に安堵はなかった。船長の迂遠な物言いが、鉤のように胸郭へと引っかかっていたからだ。
「……甲板以外で、死者が出たのですね?」
船長は口にしては何も言わず、ただ、苦しい面持ちで、一度だけ頷いた。
「乗客の避難にあたっていた船員の一人が……運悪く、奴らの別動隊に」
「拝見することはできるでしょうか。その、勇敢な船員の顔を」
「……こちらです」
船長に案内された先は、客室から大きく離れた船員用の部屋――その、奥まったひとつだった。
窓のない室内の、粗末なベッドに寝かされていた船員の顔を見た瞬間、シドは息を詰まらせていた。
「彼を、ご存じでしたか」
「……乗客の避難誘導に向かうところだった彼と、甲板に出る途中で偶然に行き会いました」
甲板へ向かう途中、鉢合わせになった二人の船員。そのうちの、一人だった。
彼は客室の乗客を避難させた後、集めた乗客を同僚に委ねると、逃げ遅れを探して船内を駆けまわっていたそうだ。
『――助勢に感謝します。御武運を!』
その力強い声に、背中を押してもらった。
彼と出会うことがなくとも、シドは自らの意思だけで、件の襲撃者と相対していただろうが。それでも、彼の言葉に力を貰ったのだ。
「避難誘導の後、その場にとどまっていれば――こんな事にはならなかったのでしょうが。どうも、乗客の中に一人、はぐれた子供がいたそうで」
その子供を探すべく、彼は飛び出していったのだ。
問題の子供は――幸いにして、というべきか――船についていた護衛の手で保護されたということだったが。
「一言二言、激励を交わしただけでしたが……とても真面目そうな、頼もしい青年だと感じました。いい船乗りだったのでしょうね、彼は」
「ありがとうございます。その言葉を聞けば、きっと彼も喜びます」
船長は、脱いだ帽子を胸に当てたまま、若い船員のために瞑目した。
シドは、拭い難い後悔にざらつく息を吐いて、船長のそれに倣った。
◆
――その日の正午前。
《ウォーターフォウル》号は南オルランドの河川港へと停泊した。
睡眠不足と精神の疲弊が相まって重たい身体を引きずり、シドは人の流れに乗って河川港の桟橋へと降りた。
「…………はあ」
胸にたまった息をつき、皮肉のようによく晴れた空を仰ぐ。
もっと上手くやれていれば、と思わずにはいられなかった。だが、そうしてどれだけ昨夜を思い返したところで、今の結果が変わるはずもない。
一人でいたのが、いけなかったのだろうか。
もし、バートラドやフローラ達――《ティル・ナ・ノーグの杖》の探索を共にした仲間達が一緒だったなら、手分けして前後の甲板を見ることだってできた。
昨夜はシド一人だけの力でも、前甲板の竜人達の目を引き、その場にいた船員たちを護ることができたのだ。仲間がいれば、きっと匪賊の別動隊にも対処しつつ、もっとより良い形で制圧が叶ったはずだ。
連中を逃がすことなく、官憲に突き出してやることだって、できたのではないか。
あの勇敢な若い船員を、むざむざと手にかけさせることもなく――
「やっほー、おーじさん!」
ばぁん、と盛大に背中を叩く手があった。
ぎょっとして振り返ると、赤みがかった金髪を右サイドで一本のしっぽに結わえた娘が、にこっと目を細めながら軽やかに手を振っていた。
「きみ……昨日の」
「サティアですけど。もしかして名前覚えてない?」
「え。ああ、いや……覚えてたよ? ちょっととっさに出てこなかっただけで」
「それ、覚えてるって言うの? いいけどさぁ」
いくぶん不満げに唇を尖らせていたサティアは、しかし一転して表情を明るくした。
「聞いたよおじさん、船員さんから。昨日は大活躍だったんだって?」
「ああ、まあ……あまり上手くはやれなかったけどね」
「なに言ってんの。大立ち回りだって聞いたよ? その背中の業物で、盗賊どもを鎧袖一触!――って感じでさ」
声を弾ませるサティアが激賞してくれているのは、シドにもわかる。ただ――それでも、本音のところを言うならば。
今はその賞賛が、どうしようもなく胸に痛かった。
シドの反応が薄いのが不満だったか――反応しそこなった、というのが実情ではあったのだが――サティアは眉を吊り上げてむくれた顔をする。
「なんだよぉ、つれないなぁー……せっかく声かけてあげてんのに、ひどくない?」
「ええと、それは……なんか、ごめん」
「……まあ、いいけど。それよりおじさん、オルランドに行くんだよね? これからどうするか、決まってんの? 乗る馬車とかさ」
「いや、そういうのは特に……」
到着に先んじてオルランドで馬車の予約をする方法なぞ、聞いたこともない。
そも、船が定刻通りに着くかどうかすら確証がないのである。
「まあ、普通はそうだよねー。でもさ、こっからオルランド行きの馬車って、並ぶよ? ほら」
と。無造作に指差すその先。
馬車の停留所と思しき先には、既に長蛇の列ができていた。
「……うそでしょ」
「ざんねんでした、ほんとデス。だって南オルランドで降りるひとなんて、みんな行先はオルランドだもの」
冒険者でなくとも――遺跡目当ての研究者や、発掘品を商う商人。果ては暇で裕福な観光客に至るまで。オルランドを訪う目的は千差万別である。
「そっかぁ……それは考えてなかった……」
「そんな粗忽者のおじさんに、いい話があるんだけど。聞きたい?」
「…………聞きたい」
正直、誘導されているのはわかりきっていたが。
半ば以上、義務感で話を促すシドに、サティアは満面の笑顔で、
「あたしの馬車に乗せたげる。かわいい女の子とオルランドまで相乗り、もちろん
自分を指さしながら、自信たっぷり胸を張って、
「どう? いい話でしょ?」
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