19.船旅というのは非日常的な解放感があって、とても心躍るものであるなぁという感慨について


 ミッドレイをその領都とする、メンベンドール男爵領の南方。

 クロンツァルト以東の諸国と肥沃なる中原地方を隔てる天嶮てんけんパーン山脈――その南端と接するヴェルメニー公爵領の領内には、山脈から平原へと広がる、大河ニミエールの流れが横たわっている。


 なだらかな山麓を伝ってクロンツァルト平原地方を南へ辿るその雄大な流れは、パーン山脈をそのうちに含み、中原地方をぐるりと囲む一連の山脈群――《竜の背骨》と呼称される一帯の山麓と寄り添うようにして、途中いくつかの支流と枝分かれしながら、南西へとその舳先を変えてゆく。

 獣人達の王国を擁する、深き《月夜の森》を掠めるようにして、さらに西南西――緑豊かな南方の平野を渡るニミエールの大河は、南方諸国と沿海諸州を隔てる大いなる境界を描きながら、やがて恵み深き《地中海イナーシー》へとたどり着く。


 水源として農業を支える大いなる河川は、同時に《地中海イナーシー》沿岸と河岸の諸国を結ぶ交通・流通の大動脈でもある。

 穏やかな河川の上流と下流を行き来する大小の川船リバーボートや大型の動力外輪船が、交易と人の行き来とを担っていた。


 ヴェルメニー公爵領の領都――ナーザニスの河川港から外輪動力船に乗り、いくつかの港で停泊と積み荷の上げ下ろしを繰り返しながら、大いなるニミエールの大河を下ること八日あまり。


「おお――!」


 外輪を回す動力基の薄い振動を、靴底に感じながら。

 舳先の方から寄せる風に、平原地方ではありふれた茶色の髪を遊ばせながら。


 はるか蒼穹を貫いて高くそびえる――その巨大な《塔》の偉容に、シドは目を輝かせ、思わず舷側から身を乗り出してしまっていた。


 遺跡都市オルランドの象徴。《遺跡都市》の由来たるはるかいにしえの――しかし現在の技術においては再現不可能の、古代文明の遺物たる建造物。

 数百年前にさかのぼる発見と到達から今に至るまで、その最深踏破を果たした者はなく。有史以来、最大・最難を以て吟遊詩人たちの詩にも謳われる、《真人》種族の遺跡――


「あれが箱舟アーク……オルランドの遺跡、《箱舟アーク》……!」


 なにゆえその塔が《箱舟》なる名を与えられたのか。それを知る者はない。数多の仮説こそ存在するものの、それらの検証は未だその途上にある。

 ただ、《真人》種族が遺したいにしえの記録の中にその名が記されているという、それだけの理由で、かの《迷宮》はそう呼ばれつづけている。


 外観はまさしく、天までそびえる巨塔。

 今の距離からでは到底そうとは信じがたいが、その外周は、一万人規模の都市ひとつをゆうに飲み込むほどの大きさであるという。


 その巨体を支える分厚い灰色の外壁は、金属とも石ともつかない材質不明の何か。魔力の反応を帯びることから聖霊銀ミスリルなどに代表される霊性金属、あるいは附術工芸品アーティファクトであろうと言われているが、詳細の一切が不明。

 近年になって、オルランドに集った諸国の魔術師や研究者達の手で解析と素材の再現が試みられているものの、そのはじまりから数十年を経てなお、未だその再現には至っていないそうだ。


 遺跡は上のみならず下にも伸び、巨大な地上部分を支えるのにふさわしい、どこまでも深く沈む基部を備えている。

 塔のみならず地下へ続く迷宮メイズも広大を誇り、その最下層に対しても、未だたどり着いた者は一人としてない。


 それが、《箱舟アーク》。


 《大陸》に名高き遺跡都市オルランドの象徴。

 その発見と到達より数百年を経た今なお、ひとりとして最深踏破を果たした者のない――《大陸》最大にして最難の大迷宮である。


「あの塔がそんなめずらしい? おじさん!」


 デッキの手すりから子供のように身を乗り出しかけていたシドに気づいてか。動力基が立てるごとごとした騒音にも負けない、大きな声が飛んできた。

 どこかいたずらな猫の鳴き声を思わせる、若い娘の声だった。


 声の出所を探してあたりを見渡すと、船室に続く扉からデッキに出てきたばかりの女が、アーモンド形の綺麗な眦をにんまりと細めて、ひらりと手を振ってきた。


「ああ――珍しいというか、初めて見たものだから」


「へぇー、めずらし。そのナリだと、おじさん冒険者だよね?」


「うん。まあ……一応ね」


「ふーん?」


 シドの風体を検分するようにためつすがめつしながら、律動的な足取りでやってくる娘。

 声の印象通り、若い娘だった。赤みがかった金髪を頭の右側で一本のしっぽのように結わえていて、裾の擦り切れた膝丈ズボンにえりなしのシャツ、その上にポケットの多いジャケットを羽織るという、ラフないでたちをしていた。

 若いと言ってもターニャよりはずっと雰囲気が大人びているが、さりとて二十歳より上という風もない。くりっとしたとび色の瞳は、若々しい好奇心で輝いている。

 男物めいたデザインのジャケットと一緒に、どこか蓮っ葉な風情を肩へ引っかけた――そうした風情の娘だった。


「……なーんか冴えない感じだなぁ。おじさん、あんま仕事シゴトできなさそ」


「は、ははは……まあ、そうかな。そうかも」


 自負と自尊にあふれた若者らしい遠慮のなさで、少女はぼやくように言ってくる。シドは苦笑いするしかなかった。


「あ、気ぃ悪くした? でもさ、仕方ないじゃん? この辺の冒険者で今更あの塔に目ぇ輝かせてるなんて、どう贔屓目ひいきめに考えてもモグリかかたりだもん――それとも、もしかしておじさん、最近冒険者になったばかりのひと? 子供がやっと独り立ちして、よぉーしパパこれからは冒険で食べていっちゃうぞォー、みたいな? あたしはあんまオススメしないけどなー、そういう夢見がちな人生航路」


「あいにく、結婚には縁がなかったよ。似たようなものといえば、そう言えないこともないけれど」


 意味が分からない、とばかりに盛大に眉をひそめる娘に、シドはおっとりと笑みを広げて、


「ずっとクロンツァルトの方にいたんだ。それで……まあ、最近いろいろあってね。ようやくオルランドへ行ってみようかって、思い立ったんだ」


「ふぅん」


 分かりやすく興味が削がれた素っ気なさで、娘は唸った。


「そう言うきみは――」


 何となく言い返そうとしかけて、シドは「ええと」と唸った。


「……そのう、ごめん。失礼かもしれないんだけど。どうも同じ船に乗ってたはずなのに、きみの顔に見覚えがなくて」


「ああ、それはそうっしょ。あたし、ラーセリーから乗ったばっかだし」


「ラーセリー……」


 シドの記憶が確かなら、それは獣人達の王国を擁する《月夜の森》ともっとも近く接する、河岸の交易都市の名だったはずである。今朝の停泊地だ。


「サティア・イゼット。こう見えて交易商人。おじさんは?」


 サティアと名乗った娘は、気さくに握手を求めてきた。その手を取って握り返し、シドも名乗った。


「シド・バレンス。一応だけど、冒険者をやってる」


 その時、果たして何を思ってか。

 サティアはびっくりした猫みたいに目を丸くして握手する手を見下ろし、それからシドの背中の剣に目を向けて――


「ふーん」


 ――と。

 何とも興味なさげに、素っ気なく唸った。

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