15.どうせ河岸を変えるなら、いつかに後悔しないくらいめいっぱいの冒険をしてやろう――と、おっさん冒険者は決めました


 シドはなんとなしに《湖畔の宿り木》亭、その一階の酒場兼食堂を見渡し、ある一点でふとその目を留めた。


 カウンター近くの壁。そこに張られたコルクボードいっぱいに並ぶ――絵葉書。

 シドはその前に歩いてゆき、ミレイナが趣味で集めたその一枚一枚を追ってゆく。


 そのうちの、ひとつ――きっとこの中でいちばん古い、歳月を経て角が痛み、日に焼けて色あせた一枚。雲突くように伸びる巨大な塔に、その目を留めた。


「《遺跡都市》――オルランド」


 はるかないにしえの時代、大陸中に広がり、絢爛なる魔法文明を誇ったと伝えられる、七柱の旧種族――御伽噺にも伝わる、伝説の《真人》種族達。


 神々の怒りを受けて姿を消したとされる彼らがこの世界に残した、旧文明の遺跡。そのひとつ――大陸において最大を誇り、未だその完全踏破に至った者は一人としていないという、


「懐かしいですね、その絵葉書」


 いつの間にか隣に立っていたミレイナが、やわらかく言った。


「そうですね。これ、ずっとここにありますもんね」


「それもありますけど」


 ふふっ、と。

 ちいさく笑みを含んで、目を細めるミレイナ。


「シドさん、この宿に来たばかりの頃にもこれを見てたんですよ。この、オルランドの絵葉書を見上げて――」



 ――いつかすっげぇ冒険者になって、このオルランドにも行くんです!

 ――オルランドだけじゃないですよ! 《大陸》中、いえ、東の《多島海アースシー》や南方亜大陸、世界中どこにだって行ってみせます! 俺、冒険者だから!!



「――って」


「そんなこと、言ってました……?」


「はい。今もこうして思い出せるくらい、はっきりと」


「うそでしょ……なにそれ恥ずかしい……」


 若気の至りというにしてもあんまりだ。

 しかも、ミレイナが覚えているのに当のシドはさっぱり覚えがないというのがなおさら恥ずかしい。


 すまない、本当に済まない、若く夢と希望にあふれていた十五歳のシド・バレンスよ。二十二年が過ぎてくたびれたおっさんになってしまった三十七歳のシド・バレンスは、今までオルランドなんて一度も行ったことないし、《多島海アースシー》にも南方亜大陸にも行ったことなんかない。

 ただ、南の草原地帯ステップや、西方のハイランド地方、あと東方諸国の西側くらいまではギリ行きましたということで……その、なんとか、勘弁してはもらえないでしょうか。どうか。


「いつか……このオルランドの遺跡も、自分が踏破してみせるんだって。私はただの町の女でしたから、そんな風に夢を語って胸を張れるシドさんが、ほんとうに眩しかった」


「……その、すみません。今となっちゃこんな有様で」


「あら、今のシドさんだって素敵ですよ。歳を取って貫禄がつきました」


「そんな風に言えるのは、ミレイナさんが素敵な女性だからですよ。周りを照らせるくらいに素晴らしく輝いているから、そうやって他人のことも好ましく、綺麗な形で見られるんです」


 むきになって言い返すシドに、ミレイナは珍しくきょとんとしていたが。

 やがて衒うような笑みを含んで、「あらあら」とはにかんだようだった。


「小じわのできたおばさんに言う言葉じゃありませんよ、それは。もっと年頃の、若くて妙齢の女性に言ってあげるべきです」


「そんなことないです。ミレイナさんは昔から綺麗な方でしたけど、歳を重ねた分だけ深さが増したというか……その、もっと、素敵になられたと思います」


「お口が上手で押し気味なのは、十五の頃から変わらないんですね?」


 子供をあしらうみたいに返してくるミレイナに、参ったな、と心の中で白旗を揚げる。


 ミレイナはあの頃からシドよりずっと大人な女性で、やっぱりシドより大人だった男性と結婚していた人妻で。

 今でも変わらず、年上の女性なのだ。


「そうですか……でも、そんなことを言っていたんですね。あの頃の俺は」


 ――かの遺跡は、《大陸》最大にして最難。


 数百年に渡って謳われ続け、誰一人その踏破に至ることなくある、


 いにしえよりの、大迷宮――


「私も、この絵葉書を見上げながら、遠くの土地を夢に描いていた頃がありました」


 ミレイナは言った。


「いつかは、もしかしたら、いつかは――なんて。けれど、私はその景色を、瞼の裏の夢に描くばかりで。結局あのひとウィルフレッドと結婚して、この土地に根を下ろしました」


 シドの隣で、彼女も古びた絵葉書を見ていた。

 たぶん、


「もちろん、それを後悔しているなんてことはないんです。けれど、でも……そうですね。何て言ったらいいんでしょうか」


 たぶん、それは――十五だったシドの隣で、初々しい新妻だった日の彼女が、そうしていたのと同じようにして。


「私にはこの宿がありますし、きっとこの場所へ行くことはない。

 もしこの先、ターニャがこの宿を継いでくれて、子供ができて、私がこの宿に必要のない女になる日が来たとしても――きっと、もう行くことなんてできないんだと思うんです。私は、その頃には……決して」


 やわらかな唇を閉じる間、彼女は果たして何を思っていただろう。

 やがて彼女はシドを見上げた。十五のシドが、彼女へそうしていたように。


「シドさんはそうではない。いえ――きっとシドさんでも、いつかはどこへも行けなくなってしまう日が、来るのだと思います。けれど」


 けれど。今は、


「今は違う。そうではない――シドさんは遠いところにだって歩いてゆけるし、私はそれを羨ましいと思うんです。私は多分、『そうしていいんだ』と言われても、周りのものを置き去りになんてできなくて……その重さを言い訳にして、きっと言い訳ばかりして、どこへも行けない駄目な女ですけれど」


「その重さは、ミレイナさんがこれまでしてきたことの大きさ、その年月としつきそのものです。素敵なことだって、俺は思いますよ」


「ありがとう――でも、シドさんは遠くへ行けるんです。それは、シドさんがしてきたことが私なんかより軽いとか、そういうことではなくて……きっと、シドさんはそうすることができるひとなんです。あなたは、今は……未だ」

 

「…………ええ」


 口の端に、自然と笑みが浮かぶ。


 ずっと忘れていた、いつかに語った夢の残照。年月にさらされてくたびれ、日に焼けて色褪せ、それでも今なお誰にも踏破されることなく、遠き地で残され続けているもの。


 ――河岸かしを変えるなら、きっとこれくらいがちょうどいい。


 それでも、いつかは――いつかは、たどり着くことさえできなくなってしまう。そこはそうした場所なのだから。


「――そうですね」


 

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