04.しんどい事実を突きつけられた後でも、我が家である定宿の部屋へ帰るのは、いつだってほっと息がつける


 『《湖畔の宿り木》亭』の看板を掲げたその宿は、ミッドレイの中心からすこし西へと外れたところにある。

 ちいさいが、この街では一番古くから営業している歴史ある宿で、一階は酒場兼食堂として営業している。《大陸》ではよくある形式の宿だ。

 特段冒険者向けに商売している宿という訳ではなかったが、シドは冒険者としてこの街に来て以来、ここを定宿として寝起きしていた。


 一年と数か月ぶりに帰った定宿に入ると、「いらっしゃいませ!」と弾けるように元気な声がシドを迎えた。


「あ、シドさんだ! おかえりなさいっ!」


「ただいまターニャ。久しぶり」


 左右に結んだ三つ編みも愛らしい小柄な彼女は、この宿の娘であるターニャだ。

 ぱっちりしたどんぐりまなこは長いまつげがぱちぱちしていて、愛くるしい栗鼠りすを思わせる幼げな愛嬌がある。


 もう一人。ターニャとどこか相似た顔立ちの、けれどこちらは楚々とした淑やかな女性が奥から出てきて、やわらかく笑顔を拡げた。

 ターニャの母親――つまりはこの宿の女将、ミレイナだった。


「お帰りなさい、シドさん。いつものお部屋、空けてありますよ」


「ただいま戻りました、ミレイナさん。またお世話になります」


「お部屋、毎日お掃除して風も通してあるわ。ぴかぴかよ!」


「いつも悪いね、ターニャ――ああ、これ王都のおみやげ」


 帰り際に土産物として買ってきたそれ――赤い宝石のおさまった首飾りを渡すと、ターニャは「わぁ」と目を輝かせた。


「シドさんありがとう! ね、つけてもらってもいい?」


「はいはいお姫様、仰せの通りに――と、言いたいとこだけど。今日はもう駄目かな」


「ええ。どうしてぇ?」


 甘えたがりの子供みたいな所作で首を傾げ、むぅっと唇をとがらせるターニャ。シドはもったいぶった口ぶりで、そんな少女へ言ってやる。


「そういうのはね、将来の旦那様にしてもらいなさい。あてはあるだろう?」


 途端、ターニャの顔は熟れたリンゴみたいに真っ赤になった。


「ヨハンと結婚するんだって? 聞いたよ。おめでとう」


「あ、ありがと……なぁんだシドさん、もう知ってたんだ。えへへ」


「ミレイナさんには、これを――王都の絵葉書ですけれど」


「いつもありがとうございます。飾っておきますね」


「……ふつうに葉書で使ってくれてもいいんですけどねぇ」


 ぼやくシドへ、ミレイナはまなじりを細めて「ふふ」と笑った。魅力的な微笑だった。


「だめですよ、もったいない。冒険者のシドさんはそうでもないんでしょうけど、私みたいな町暮らしの人間にとっては、王都なんて夢のまた夢みたいに遠いところなんですから」


 絵葉書の蒐集しゅうしゅうは、昔からミレイナの趣味だった。

 自分以外の冒険者も、この宿に立ち寄るたびに方々の絵葉書を置いていっているらしい。


 さっそく、壁掛けのコルクボードへ絵葉書を留めに行くミレイナの背中を、シドはつい目で追ってしまう。

 そして、コルクボードにずらりと並ぶ絵葉書の数に目を止めて、つい苦笑がこぼれてしまうのを抑えきれなかった。


 《湖畔の宿り木》亭は、シドにとって二十年来の定宿だ。はじめて部屋を取ったときには、ここの亭主夫妻はミレイナの両親で、ミレイナ自身は夫と結婚したばかりの若妻だった。

 美しい看板娘――夫の隣で微笑むミレイナの笑顔に、ついうっかりと若い胸を高鳴らせてしまったのも、今となっては昔の話。青春のほろ苦い思い出だ。


 やがて両親が先立ち、夫も流行り病でこの世を去り――以来、十年。彼女は娘のターニャと親子二人で、両親が遺したこの宿を切り盛りしつづけていた。


「あのね、シドさん。わたし、たしかに結婚するけど、宿のおしごとはやめないからね? ちゃんと宿屋さんはつづけていくから、シドさんはずっとここにいてくれていいのよ?」


 おしゃまな――言葉を換えれば、十八歳という年頃の割には幼い口ぶりで、ターニャは口をすっぱくする。


「そうなんだ。そいつはありがたいな――ああ、でもそういうことなら、もしかしてヨハンがこっちに婿入りするってことかい?」


「ううん、わたしがお嫁入り……でも、おかあさんを一人にしたくないから。ヨハにいもね、おかあさんのこと気にしてくれて、是非そうするべきだって言ってくれてるの」


 頬を染めて恥ずかしがりながら、首を横に振るターニャ。

 朱を帯びてへにゃりと緩んだ面持ちが、ふわふわしていて何とも幸せそうだった。


「子供はね、女の子がいいなぁ……って思ってるわ。その子にも宿のお手伝いしてもらって、看板娘にしちゃうの。親子三代で宿の看板娘よ。いいでしょ?」


「素敵だね。ターニャの子供なら、きっとかわいい看板娘になるよ」


「えへへ。でしょ? でしょ?」


 何ともあどけない夢を語るターニャに、母親のミレイナはといえば、むしろ苦笑気味にしていたが。


「ターニャ、私は厨房の方に入るから、しばらく接客お願いね。シドさんもおなか空いたでしょう」


「助かります。まだ昼を食べてないもんで、もう腹がぺこぺこですよ」


「なら、すぐに食べられるもの用意しますね。その間に、お部屋へお荷物を置いてきてくださいな」


「助かります」


 奥の厨房から響くミレイナの声に向かって礼を返し、シドは二階へ上がった。

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