代打の神様

にゃんしー

第1話

彼女の名前は、マユミ、といった。仮名ではない。

マユミが初めて僕にかけてきた言葉を、今でも覚えている。


「自分、イガワそっくりやんか」

僕を指差して、嬉しそうな表情で。

「なんや」

意味が分からず、そう返すのが精一杯だった。

「は? なんや」

彼女も言う。

「なんや」「なんや」「なんやねん」「自分がなんやねん」「いや、なんや」「なんやて」


やりとりとも云えない応酬を経た後、彼女は言った。

「なあ、イガワの真似してや。これ、サークルチェンジ握るときの指の形やねん」

呆気にとられたまま、彼女を真似て指の形を作る。

「ぶはは! それサークルチェンジやのうて、OK牧場やんかー!」

彼女は僕の肩を叩いて息を切らしながら爆笑した後、去っていった。

僕は彼女の後ろ姿を見送ったまま、放課後の教室に取り残された。


マユミは、どこにでもいる女の子に見えた。

セーラー服のスカートの丈は少し短めで、

小麦色をした肉付きの良い足に、校則で指定された紺のハイソックス。

顔つきはふっくらとして、髪の毛がボリュームのあるボブなのでもっと丸く見える。

目がくりっとして、いつも楽しそうに輝いている。

口を大きく開けて、よく笑う。


それから、野球が大好きだった。

マユミの云う「イガワ」は、

阪神タイガースのエース「井川慶」であるということを彼女から聞いた。

マユミは、僕によく野球の話をしてくるようになった。


「イガワ、昨日はいいピッチングやったやんか。まあ昨日だけやけどな」

「イガワ、昨日は自分のせいで勝てるゲーム落としたやんか。エースちゃうんかい」


マユミには友だちが多くいて、よくうちのクラスまで遊びに来た。

女子たちの賑やかな会話の真ん中には、いつもマユミがいるようだった。

休み時間が終わって帰ろうとするときに僕を見つけ、イガワの話をしてからかうのだった。


「俺、井川ちゃうし」

井川が打ち込まれて大敗したらしい次の日、執拗に責められた僕がとうとう反論すると、

マユミは丸い唇を尖らせ小さい声で、

「やって、うちイガワ以外に野球の話できる子おらへんねんもん」

と呟いた。


「いや、普通に野球の話したらええやん。ちゃんと聞いてるて」


マユミのことを好きだったわけじゃない、と思う。

でもそれによってマユミは、野球の話をするときにしか見せない笑顔で笑い、

僕の幼い独占欲は満たされた。要は、嬉しかったのだ。


それからマユミは、僕と話をするために教室に来るようになった。

僕のなかで、野球の、阪神の、知識が増えた。

一番足が速いのは赤星。

地味だけど守備がうまいのは藤本。

変態的なバッティングセンスを持つのは今岡。

ここ一番で頼りになるアニキは金本。

一打に賭けるのが桧山、期待の若手は濱中、ホームランを打つのがアリアス。

ウィリアムスのスライダーは絶対に打てない。絶対に打てない。

(マユミはいつもこれを二回言った)


それから、代打の神様は、八木。


「うち、八木が一番好きやねんか」

放課後、マユミは机に座って、そう言った。

僕は椅子に腰かけたまま、マユミの顔を見上げる。

初夏の眩しい夕陽がマユミの表情に影を残した。


放課後、二人だけの教室で、ラジオで試合を聞くようになった。

勝った日は嬉しそうに、負けた日は悲しそうに、

そしてその両方において、マユミは寂しそうに見えた。

試合が終わった後、なかなか家に帰ろうとしなかった。

代打がコールされ、八木が打席に向かうと、祈るように手を合わせる。

そこには間違いなく神様がいて、懸けられた願いがあった。


この年の阪神は強かった。

エースの井川を中心に、アメリカ帰りの伊良部、変則派左腕ムーア、

ベテランの下柳・藪で固めた投手陣は盤石だった。

抑えには、左打者に対して圧倒的な強みを見せるウィリアムス。

打撃陣も、巧打が開花した天才・今岡に、俊足の赤星、クラッチヒッター金本、

四番の重責に応える桧山、後方から長打を放つアリアス・片岡など、

バランスよく整えられたタレントが機能した。

序盤からペナントレースを独走し、九月中盤には、勝てば優勝というその日を迎えた。


休みの日だったと思う。

受験勉強をしていたか、それには飽きて漫画を読んでいたか、の筈だ。

確か妹が僕を呼びにきて、玄関に行くと、とにかくそこに、マユミがいた。

「おいイガワ、野球見ようや! 今日勝てば阪神優勝やん!」

両手にビールの缶。

マユミは既に飲んでいたのだろうか、陽気に出来上がっていて、

僕の許可もなく家に上がり込んできた。

居間に座り込むと、テレビを付け、チャンネルを勝手に弄ってサンテレビにした。

妹が、襖の影から警戒した様子でマユミを窺っている。

お婆ちゃんがカルピスを持ってくると、マユミはそれに口をつけ、

「ぶはっ薄い! もはや水やんけー!」

と手を叩いて笑った。

それを聞いたお婆ちゃんも笑い、安心したのか、

妹が寄ってきてマユミの隣に座った。


マユミは簡単に、うちの家に入り込んでしまった。

お婆ちゃんと、母と、妹と、僕とマユミの五人で、

食卓を囲んで煎餅を食べながら試合を見た。

うちの家族はふだん野球を見ないのに、

マユミの勢いだけの解説が気に入ったようで、

同じようにテレビに齧りついた。

「打ったらいきなり二塁に走っちゃだめなの?」

妹がそう言うと、マユミは妹の頭を撫で、

「その発想はなかった! 自分、天才やな!」

と笑っていい、妹は嬉しそうにマユミに身体を寄せた。


九回裏、ワンアウト満塁、同点、阪神の攻撃。打者は、赤星。

広島の右腕、鶴田が投げたカーブを、赤星は初球から振りぬいた。

打球は、前進守備の右翼手・朝山の頭上を軽々と越え、

三塁ランナーの藤本がサヨナラのホームイン――


「よっしゃー!」


僕が両手を掲げ叫んで立ち上がると、

黙ったまま目を丸くして見ていたマユミが、

途端に腹を抱えてけたけた笑いだした。

畳に寝転がって、身体を捻じっている。

「おもろいなーもー。ヤクルトが負けへんと、優勝じゃないねん」

顔を真っ赤にして僕が座りなおすと、マユミは表情を緩めて、

「大丈夫、ヤクルトは絶対負けるて。いこか」

と言った。


僕たちは、家の近くの小川に飛び込んだ。

優勝すると阪神ファンが飛び込む道頓堀とは違う、誰もいない、小さな小川。

膝下までを水に濡らし、二人でぱしゃぱしゃ水を掛け合う。

街灯のひかりが水面に反射し、マユミは水に濡れた黒髪を耳にかける。

いつもより、大人っぽく見えた。


「なんで八木が好きなん?」

僕が尋ねると、マユミは、

「代打の神様だから」

と答えた。


その続きを伺うより前に、マユミは言った。

「うちが生まれた年に、阪神が日本一になった。

そんときに活躍した真弓をもじって、親がうちにマユミてつけてん。

阪神の真弓も、代打の神様やった」

今の代打の神様・八木が打席に立っているときの、

マユミの祈るような仕草が思い出された。

「いつかマユミにも、代打の神様が来てくれる、とか?」

僕がそう尋ねると、マユミは苦笑して言った。

「なんやねんその乙女趣味。ちゃうねん、うち自身が、代打の神様やねん。

誰かが困ってたら、うちが助けたるねん。ここ一番でな」

マユミはそれから、バットを差し出すような恰好で腕を僕に向けた。

「イガワも言うてな。人生のここ一番、一度だけ、

ここぞという場面でうちをコールしてな。そしたら、絶対助けたるから」

僕は少し考えた後、笑って言った。

「じゃあ、三十歳までお互い独身やったら、俺と結婚してや」


マユミも、笑ってくれると思った。そして冗談交じりに承諾してくれると思った。

しかしマユミは、真剣の表情のまま、僕を見据えている。

「なんなんそれ。うちのこと、好きってこと?」

真意を暴かれ、僕は途端に恥ずかしくなった。

顔を真っ赤にして黙っていると、マユミは続けた。

「そんなん、卑怯やん。ちゃんと言うてや。未来やのうで、今の話してや。

ちゃうやん。ここ一番て、今やん。

ほんまにうちのこと好きなんやったら、ちゃんと言うて」

僕は何も言えなくて、ようやく、

「阪神が日本一になったら、言う」

と絞り出した。

「ちゃんとコールしてな、代打の神様は、絶対打つからな」

マユミは、笑ってそう言い、

「阪神が優勝せんかったら、うちは生まれへんかってん。

阪神が強うないなら、うちは、何処にもおらへんねん」

と、付け足した。


阪神とダイエーの日本シリーズが始まった。

ダイエーは打撃陣に百打点カルテット、

投手も二十勝の斉藤和巳を中心に和田・杉内・新垣とエース級を揃え、

ここ十年で一番強いチームだと言われていた。

僕が新聞で読みかじったその話をすると、マユミは、

「強いチームが勝つんちゃう。勝つチームが強いんや」

とせせら笑った。


福岡ドームにて行われた一、二戦目は休日で、僕たちはそれぞれ家で観戦した。

結果は両方とも阪神の負け。月曜日にマユミにその話を振ると

マユミは妙に腹を括ったような、落ち着いた調子で頷くだけだった。


雨天中止を挟んでの三戦目、僕たちはいつものように、

放課後の教室でラジオを聞いていた。

スタメン発表で、いつもは代打起用の八木が四番に座ったことを知ると、

マユミは久しぶりに表情を破顔させて笑った。

これに続いて、阪神は甲子園で行われた試合を三連勝した。

神様がいるとすれば、僕たちは導かれている、はずだった。


勝てば日本一という六戦目を、阪神は落とした。

この日は休日で、マユミと一緒に試合を見られなかったため、安堵もした。

もしかしたらマユミが家まで試合を見に来てくれるんじゃないかという期待もあったが、

マユミは来なかった。


「この前に来た女の子、マユミちゃんだっけ? また連れてきなさいよ。あの子、好きだわ」

僕が野球を見ていると母がそう言い、僕は聞こえていない振りをした。


日本シリーズ最終戦、七戦目。

放課後の教室でラジオを用意し、マユミを待っていた。

マユミは、来なかった。ずっと来なかった。


初めてマユミの教室に行き尋ねると、この日マユミは、学校を休んでいることを知った。


マユミの家の住所が書かれた紙を握り、イヤホンを耳に挿し、走った。

ラジオでは、阪神の投手陣がぼろぼろに打ち込まれている様子が放送された。

やがて、代打の神様・八木がコールされた。

八木の打った打球は、ふらふらと外野のミットの中に吸い込まれていった。


マユミが住んでいるという、二階建ての古いアパートに辿り付いた。

錆びついた階段を上り、マユミの家を見つける。扉の前には、ビール瓶が並べられていた。

チャイムを押すと、しばらくして、制服姿のマユミが現れた。


マユミは、困った顔をして、

「ごめん、お父さん酔っぱらって寝てるから、起きてくるまで待ってなあかんねん」

と言った。

僕は強引に、マユミの腕を引っ張り部屋から出すと、

マユミの耳に、イヤホンを挿した。もう片方を、僕の耳に。

それから、白い塗装にヒビが入ったアパートの壁に身体を預け、ふたりで試合を聞いた。

自然と、手を握り合っていた。

「うちな、お母さんおらへんで、お父さんと二人暮らしやねん」

マユミはぽつりとそう言い、スカートをたくし上げた。

太腿の外側に、殴られたような青痣があった。

「阪神ファンのお母さんがつけてくれた、マユミって名前が、大好きやってん。

そういう、代打の神様になって、好きなひとを守りたかった。

お父さんを守りたかった。そんで、ユースケ君もな」

マユミは初めて、僕の名前を呼んでくれた。


九回表ツーアウト。 五点ビハインド。

「代打、八木や! 神様なら、きっと何とかしてくれんで!」

マユミは、拳を握ってそう叫んだ。

(八木はもう出場したから、代打には出せへんねん)

僕はそれを、言えなかった。


代わりにコールされたのは、今年引退を決めていた広澤。

皮肉にも広澤の放った打球は、高く、高く舞いあがり、

左方向のスタンドに吸い込まれていった。

きれいな、きれいなホームランだった。

「お前ちゃうねん!」

マユミは、狂ったような金切声で叫んだ。


彼女の名前は、マユミ、といった。仮名ではない。

マユミが最後に僕にかけた言葉を、今でも覚えている。


「うちにはもう意味がないねん」



連勤が続いて久しぶりに取れた休日。僕は昼まで寝て過ごしていた。

隣の部屋からテレビの音が漏れて、顔を覗かせると、息子が野球を見ていた。

息子は熱中した様子でテレビに食いついていたが、僕の姿に気づくと、

慌ててテレビを消そうとした。僕が野球を嫌いなことを知っているのだ。


「ええて。消さんでええて。それより水ある?」


僕はテレビの前を横切り、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出し、コップに注ぐ。

それから、息子の隣に座る。


「……お父さん、野球嫌いとちゃうかったん?」

「ええやん見ても。いま何対何? どことどこの試合?」

「阪神対広島や。あかん、五点差で負けてる。九回ツーアウトや」

「ふーん、バッター誰?」

「言うてお父さんに分かるん? 桧山やで。今年引退決めてる、代打の神様や」

「この一打に賭けろ 気合いで振り抜けよ 誰もおまえを止められぬ 桧山よ突っ走れ」

「え? なんで応援歌歌えるん?」


桧山の放った打球は、ライトスタンドに吸い込まれ――。


「いやいや、それ、もう意味がないねん」

「意味なくなんかないわ」

僕の口から、自然と言葉が零れていた。

「おるだけでええねん、意味なくなんか、ない」

どうしてあの時、そう言えなかったのだろう。


『やから、そばにいて』


伝えるはずだった言葉が、試合終了後のネクストバッターズサークルで、

熱が失われるまで佇んでいる。

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代打の神様 にゃんしー @isquaredc

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