9
「クラウス殿下、至急お耳に入れたいことが」
短い言葉に、執務机から僅かに顔を上げる。文官の服を纏った"影"は、執務室に入って早々にそう言ったのだ。
珍しいなと目を細め、話の続きを促してペンを置く。王位継承権がエメリヒから私に移り、忙しい日々が続いていた。今日もこのまま執務室に詰める予定である。外への用も、挨拶回り、根回し、ネズミ探しと仕事には事欠かない。
清涼剤にするにはよい知らせではなさそうだと、内心嘆息する。影の顔色も芳しくない。
「リーゼロッテ・アルトマイアーが失踪しました」
「……何?」
一瞬、告げられた言葉が理解できなかった。
「彼女が、失踪? 修道院に向かったのではなかったのか?」
リーゼロッテ嬢が解放されて、半月。彼女はその当初から修道院へ行くことを希望していた。よくも悪くも有名になってしまった彼女の行く先は中々決まらなかったものの、最終的には本人の希望が通り国境近くの修道院へと向かうことになった。
戒律が厳しいことで広く知られている場所だったが、リーゼロッテ嬢はあえてそこを選んだのだと聞いている。
そしてリーゼロッテ嬢が出発したのが、つい一週間前だ。私自身もそれを見送ったから、よく覚えている。簡素な馬車ではあったものの、万が一のために騎士団から護衛を選んだのだ。
その彼女が、失踪したというのか。
「ええ。確かに昨日、馬車は修道院へと昨日到着しました」
なら何故、と影を見ると、それはゆっくりと首を横に振った。
「もぬけの殻だったのです」
―――リーゼロッテ嬢は快適とは言えない馬車旅の中でも文句一つ言うことなく、むしろ御者や騎士たちを気遣う様子もあったという。用事がなければ積極的に馬車から出ることもなかった。
だが、いざ修道院につき、リーゼロッテ嬢に声をかけると返事がない。騎士たちが慌てて馬車の扉を開けると、そこはがらんどうで彼女の姿はまるで最初からいなかったように消え失せていた、と。
「すぐにアルトマイアー家の身辺も洗いましたが、関与の証拠は今のところ見つかっておりません」
「なんだ、それは……」
愕然として、力の入らない拳が机の上を打った。
『こうして生きていられるのも、きっと神の思し召しです』
そう言って笑った、リーゼロッテ嬢の顔が脳裏をよぎる。
「修道院から洗い直せ。騎士団の者たちも、口裏を合わせているだけかもしれない。どうにか痕跡を探し出すんだ!」
「―――はっ」
影は立ち消えた。指示を出したものの、それで何かが出てくるとはどうにも思えなかった。それでも、そうせずにはいられなかった。
震える指先を押さえるように、強く拳を握りしめる。運よく処刑を免れた令嬢が、今度は霧のように消えただなんて。
「これでは本当に、神の御業のようではないか」
諦観に満ちた声を、拾い上げる者はいなかった。
消えた令嬢、リーゼロッテ・アルトマイアー。処刑台に立たされても、神に潔白を叫んだ彼女の失踪は、市井にも広がっていった。
そして、いくらクラウス王太子が調査の手を伸ばしても、リーゼロッテの痕跡一つ見つからなかった。
人々の間では、リーゼロッテは生きたまま神の御許へと導かれたのだという噂が後を絶たなかった。
クラウスは即位後、慎ましやかに治世を行ったという。
町の喧騒は少し遠く、その食堂は昼を過ぎた頃合いだからか人もまばらで、午後の仕事に活気が出る人々とは違ってどこかゆったりとした雰囲気を漂わせていた。そこに外套を羽織った二人組が、ふらりと入ってくる。
一見して旅人だろうと分かるその二人は、小柄な方が先導して適当なテーブルへと腰を下ろした。フードをそれぞれ下ろすと、揃いの黒髪が顔を覗かせる。先導していたらしい少女が人を呼ぶと、すぐに中年の店主が向かっていった。
「この町には来たばかりなの。何かおすすめってあるかしら」
凛とした声はよく通り、どこか品の良さを感じさせる。自然と他の客も聞き耳を立てているからか、尚更それが食堂によく響いた。
「ここらは国境近い辺鄙なところだが、作物の育ちが良くってね。うちじゃ豆の煮込みに、食いでのある野菜をたっぷり入れたのが一番人気さ」
他所じゃこうはいかないよ、と店主が付け加えると、少女は一瞬考える素振りを見せたが、すぐにまた口を開く。
「じゃあそれとパンを、二人分お願い」
少女は連れの分も注文を決めて、店主にそれを伝えた。店主はそれを確認した後、好奇心を抑えて素知らぬ顔で少女へと声をかける。
「若いみたいだが、兄妹かい? その年で旅なんて、かなり訳ありのようだが」
その言葉に、少女はきょとんと不思議そうな顔をして、自身の向かいを見やった。思わずつられて店主もそちらの方を見ると、連れの青年は眉間に皺を刻んでいてじろりと鋭い眼差しが返される。
店主は何か機嫌でも損ねたかと、慌てて視線を逸らした。対して少女は気にした様子もなく、何かが面白かった様子でくすくすと笑い出す。
「ええ、そう。そうなの! 私たち兄妹で孤児院の出なのだけど、両親の手掛かりを求めて旅をしてるのよ」
兄と言われた青年は、ふんと鼻を鳴らし黙したままだ。
「そ、そうかい。そいつは大変なことだなあ。物珍しいものもない町だが、ゆっくりしていってくれ」
そそくさと店主は、厨房へと戻って行く。未だ笑いをこぼす少女を睨みつけ、青年は大袈裟にため息をついた。
「もっとふさぎ込んでいるかと思えば、ずいぶんな変わりようだな。リーゼロッテ」
「ちょっと。そう呼ぶのはやめてって、何度も言ってるじゃない」
悪態とも取れる声に、少女―――リーゼロッテは口を尖らせる。それにも構わずに青年は、肩を竦めて返すだけだ。
「もう国境を越えたんだ。流石にあのクラウスも、他国にまでは容易に手は伸ばせんだろう」
「それはそうかもしれないけれど、用心しておくに越したことはないでしょう?」
青年―――ファウストと名付けられた悪魔は、不機嫌さを終始隠そうともしない。
「何? 私が落ち込んでいないのがそんなに不満?」
きゃらきゃらと笑うリーゼロッテには、以前の面影は欠片も見えなかった。貼り付けた笑みの仮面を被り、じくじくと腐り落ちる自身の体内をおくびにも出さない。そう、熟れすぎて腐りかけの果実のようだった。指先一つで崩れてしまいそうな、薄氷の上に立つ女だったのだ。
それが今はこうである。まるで年頃の娘のように笑っているのが、悪魔はいっとう面白くない。
「ああ、つまらなくてならん。そもそも俺はお前の復讐にも不満があったんだ。何故、あの馬鹿を殺さなかった?」
ファウストの問いかけに、リーゼロッテの表情に初めて影が差した。口角だけが曖昧に上がり、何かを思い出すように彼女が瞼を伏せる。
「愛していたからよ。もしかしたら、今もそうかもしれないわ」
淡々と告げる声色に、熱はない。ただ懐かしむような、慰撫するような響きだけが、どことなく哀愁を感じさせた。
「私を邪険にして、別の女を愛したあの方は憎いわ。でも、小さい頃のあの方を、私は確かに好きだった」
そうして、沈黙が落ちる。ファウストがそれを無言で見つめていると、リーゼロッテの視線がテーブルの端を手繰って、その内ぽつりと声が続いた。
「殺さなかったんじゃない。できなかったのよ」
「……甘い女だ。未練がましくするならば、いっそ泣き伏せっていれば愉快なものを」
この甘さが、一欠片の情が、ファウストを苛立たせる。リーゼロッテを貶めた狸侯爵も、男を奪った平民女も、殺すと決めたのは彼女だ。ファウストはただ実行したに過ぎない。ただ事実を調べ上げ、リーゼロッテに手渡した。計画を練ったのも、全て彼女だ。
それだというのに、元婚約者―――愛した男を殺す決断をリーゼロッテはとうとうすることができなかった。
「涙はとっくに枯れ果てたわ。むしろ、あなたに出会ったあの時に、捨てたのかもしれない」
視線を上げて、薄く笑みを浮かべる。今にも泣いてしまいそうな顔の中に、涙だけが足りなかった。
「はい、お待たせ」
意識の外から投げかけられた声に、リーゼロッテがはっと身を固くする。店主の男が、木のボウルに入った煮込みと、パンの皿をテーブルに並べていった。
「ありがとう。はい、これお代よ」
慌てて取り繕うリーゼロッテだが、店主は気に留めた様子もない。不自然に聞き耳を立てる連中が不快だったから、少しだけ力を使った。きっと他愛のない世間話をしているようにしか聞こえなかっただろう。
店主に応対するリーゼロッテの顔には、先程のような哀切は既に消え失せていた。
「これからどうするつもりだ」
店主が引っ込んでいってから、リーゼロッテにそう問いかける。彼女はううんと首を捻った。
「まだ考えていないけれど、残り少ない命だもの。面白おかしく生きてやるわ」
「図太いにも程がある。神も名を利用されて、さぞ腹を立てているだろうよ」
思えば、処刑台でのリーゼロッテの言葉には笑ったものだ。罪を犯していないとは、これからの罪の宣誓でしかない。そんな女をあの国の民は、尊いもののように未だ語っているらしいのだから人間は救えないのだ。
「馬鹿ね、神様なんていないわ」
ふわり、とリーゼロッテが笑う。物の美醜に興味はないが、それはそう―――花が綻ぶといっても遜色ないものだっただろう。
「哀れな私を助けてくれたのは、悪魔だけだったもの! いない人のことなんて、どうだっていいのよ」
そう言ってリーゼロッテは、匙で湯気を立てる煮込みを口に放り込む。あちっ、と顔を顰めた彼女を、ファウストは横目で見やった。
ずいぶんと不味そうな―――曇りのない魂になってしまったものだと、悪魔は大きなため息を一つ吐き出した。
神はおわします、と悪役令嬢は言った。 古倉慎 @kokkurasan
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