閑話2

 哀れな女の話をしましょう。


 とある国に、一人の娘がおりました。貴族の良家の生まれであった娘は、食うにも困らず、高等な教育を学び、両親からの愛を受けて、何不自由なく暮らしていました。


 ですがそんな娘に、ある縁談が持ち込まれました。民であればまだしも、貴族にとっての婚姻は家と家との繋がり。恋愛結婚など望むべくもなく、幼い頃から婚約者が決まっていることも珍しくありません。

 娘は、自身の恵まれた境遇とそれに伴う貴族の責任や役目を、まだ十にも満たない年齢でありながら理解し、顔合わせの場へと向かいました。


 両親には事前に、顔を合わせてから娘の好きなように決めていいと言われていました。ですがきっと家に取っても利のある婚姻なのだと娘は思い、せめていい人であればとだけ考えていました。


 娘が父親と共に向かったのは、王宮でした。忙しなく行き交う人々は、領地やタウンハウスからほとんど出たことのない娘には知らない顔ばかりです。一室へと通される頃には、娘の表情も緊張からすっかり強張っていました。


 この時の娘は両親の意向で、縁談の相手を知らされていませんでした。本来であれば有り得ないことですが、元々が王家から持ち掛けられた婚姻であり、あまり娘の家に利のないものであったことから、王家はその条件を呑まざるを得ませんでした。


 父親と共に座して待つこと少し、とうとう部屋の扉が開かれます。立ち上がった父親に倣って立ち上がった時のことは、娘の頭に生涯ずっと焼き付くほどの光景でした。

 きらきらと、星が舞ったようでした。部屋に差す光が、少年の髪に反射して娘の瞳を瞬かせます。怜悧さに少し丸みを残す頬は、それでも娘にはまるで違う世界の生き物のように見えました。

 一礼をして入室した少年の目が、娘を捉えたその一瞬わずかに綻びます。その瞬間、娘の心臓がどくどくと早くなって、正体の分からない熱がじわじわと全身に広がっていきました。


 すっかり動けなくなってしまった娘は、父親に促されてどうにか挨拶を終えます。そんな様子を咎めるでもなく、少年と壮年の男性が娘たちの前に座りました。


 娘に素性を明かさずに、ファーストネームだけを告げて顔合わせは始まります。最初はお互いに付き添う年長者が質問を投げかけていましたが、次第に娘と少年同士で言葉を重ねるようになりました。

 娘も最初は緊張していたものの、少年がしきりに自分に気を遣ってくれているのが分かったのか、段々と落ち着いて話すようになりました。不思議なことに二人の趣味は驚くほど一致していて、最後には場に笑みがこぼれるほど打ち解けていたのです。




 その場はお開きとなり、後日。娘は少年の素性を聞かされて、とても驚きました。なんと相手は、次期王となる王太子その人だったのです。

 娘は将来王妃となることの大変さと責任を説明され、よく考えるようにと伝えられました。その大変さはきっと自分では推し量れないほど重いだろう、娘は考えますがどうしてもあの時の熱を、王太子と言葉を交わした時の喜びを忘れられませんでした。ですが、生半可な気持ちでは王妃は務まらないということも、娘は理解しています。

 だからこそ娘は、あの気持ちを心の奥に閉じ込めておこうと思いました。それを突き止めて、知ってしまえば、きっと平静な自分ではいられない。そんな予感がしました。そうなってしまえば貴族としての役目を、王妃としての教育を受けることもできるか分からなかったのです。

 ただ、あの人を支えてあげられたら。きっかけはそれだけでした。


 そうして時間をかけて出した答えを、娘は両親に伝えました。両親は複雑そうな面持ちでしたが、彼女の決意を感じ取ったのでしょう。何度か意志を確認されはしましたが、強く止められることはありませんでした。


 そして娘は、王太子の婚約者となりました。

 ですが彼女は知らなかったのです。縁談の相手のことを知らなかったのは娘だけで、王太子は事前に彼女のことを知り、顔合わせの時の振る舞いも事前に強く言い含められてのものでした。

 娘は両家にとっての利のあるもの、と信じて臨みましたが、彼女の家にとっては今更王家との縁ができたとて些細なことでした。ですが、王太子にとっては無事即位するための後ろ盾として、この婚姻が必要だった。それだけの話だったのです。


 それでも、婚約してからの数年は安定したものでした。王太子は愛らしい娘が婚約者だということに満更ではなく、娘も王太子の元へと足を運び、王妃教育をこなしていました。

 王妃教育は幼い彼女には辛く苦しい物でしたが、王宮から帰る際に王太子が労いの言葉をかけてくれることが、娘の何よりの励みでした。

 そんな折々を繰り返しながら、日々は過ぎていきました。




 ですが、二人が学院へと入学してから、その関係は一変しました。

 元々王太子は、王としての教育が年単位で遅れていました。幼少の頃には勿論辛いものでしたが、それは教育の量がそれだけ膨大であるのを見越してのことです。

 ですが、当初から勉強にあまり身が入らず、王妃に泣きついてしまったのです。王太子に甘い王妃は、その言葉を聞き入れて、王教育を先送りにしてしまいました。

 それが学院に入ってから急に始まったのですから、間に合う訳がなかったのです。


 それに加えて、王太子の心は常に優秀な兄王子と比べられ軋んでいました。それでも自身こそが王太子であるという事実で、どうにか均衡を保っていたのです。

 それがどうでしょう、今度は婚約者までもが王太子を超えて、優秀だだの学年一の才媛だと持て囃されるようになったのです。そこで娘が調子に乗っていれば、それを指摘し、追及してやることで王太子の溜飲も下がったのでしょう。

 ですが彼女はそうはならず、王太子へと常のように接しました。王太子の決して芳しくない成績を褒め、逃げ出そうとすれば優しく諫めます。その品行方正さが、王太子の気に触ったのです。


 最初は定期的に行われていた、王宮での茶会がなくなりました。そして学園で昼食を共にすることもなくなり、王太子は娘を遠ざけたのです。それによって傷つけられる娘の気持ちも、周りから彼女がどう見られるのかも、王太子は自身の劣等感のために見ないふりをしました。

 そうしているうちに、王太子は出会ってしまったのです。とある平民の少女に。

 初対面の時は、なんて礼儀知らずな女だとそう思っていました。けれど、貴族のマナーなど欠片も知らないその素直さが、王太子の目には珍しく映ります。耳障りのいい甘い言葉が並べられる。あなたはすごい、頑張っている、それを評価しない周りがおかしいのだ。その女が意識してなのかは分かりませんが、褒めそやす声は段々と王太子の目を濁らせました。


 冷静な者が見れば、平民の少女の言葉や態度は、王太子が王太子という身分であるからこそのものでした。

 ですがそんなことにも気付かない、王太子ののめり込みようはすごいものでした。元々恋とは無縁の身分で、婚約者にも不満を持っていた心には劇薬のようだったのかもしれません。




 勿論、王太子と平民の少女の話は、娘の耳にも届いていました。

 それでも娘は、今までと何かを変えようとはしませんでした。粛々と王妃教育に努め、王太子を諫め、心を軋ませることを繰り返しました。

 王太子に今は邪険に扱われても、いつか目を覚ましてくれると思っていたのです。そして王としての責務を負って、娘との間に愛はなくとも戻ってきてくれるだろうと。とても楽観的で、夢見がちな考えでした。

 元から政略結婚であると諦めて、気持ちを繋ぎ止めておくことすら思いつかなかったのです。だからきっと、罰が当たったのでしょう。


 ある日、娘は学院で王太子を探して歩き回っていました。本来であれば娘にもやらなければいけないことが山とあるのですが、王太子が王教育を投げて逃げ出したと教育係に泣きつかれたのです。

 王太子は中々見つからず、娘は方々に行方を聞きました。その度に生徒たちの労しげな表情や、好奇の目が彼女の心をちくちくと刺します。娘にも分かっています。婚約者である自分が、どうして王太子の行方一つだって知らないのだろうとみじめさが心に重く圧し掛かりました。

 それでも王太子には教育を受けてもらわねばなりません。それが王太子のためである、と娘は思うしかありませんでした。


 ようやく学園の庭園の奥にあるガゼボに向かったという話を聞いて、娘はそこに向かいます。

 整えられた植物に遮られ、聞こえたのは穏やかな談笑の声でした。話の内容までは分からなかったものの、高い声に混じる低い笑い声が聞こえ、娘は視界すらぐらぐらと揺らぐ心地がします。

 学園中を探し回っていた足は、芝をさくりと踏むたびに重たく緩慢になっていきました。そしてとうとう足を止め、ただその話し声の前で俯いてしまいます。


 ですが、ふとその声が途切れました。はっと娘は顔を上げ、頭を支配していた悲しみを振り払うようにガゼボへと近付きます。

 眼前に広がっていた草木、その壁がなくなり娘はようやくガゼボの様子を目にしました。その瞬間、目を大きく見開いて、やっと踏み出した足は凍り付いたように動かなくなりました。


 ―――そこには、一つの影がありました。いえ、最初はそう見えただけですぐに気付きます。二つの影が、重なり合うようにして一つになっているのだと。

 幼少期から見つめていたはずの少年は、いつの間にか成長し、記憶の中の姿とは随分異なっています。少年というよりは、青年と言った方がふさわしいでしょう。その違いが、娘を戸惑わせます。青年はしっかりとした腕で、もう一つの小柄な体を強く抱きしめていました。

 もう一人の少女は、しな垂れかかるように青年へと身を寄せていました。安心するように身を預け、その顔には青年の影が重なるように落ちています。


 本当は、王太子を探す役目など娘がしなくてもよかったのです。それか、このガゼボに王太子と平民の少女がいると分かった時点で、あのみじめさを噛みしめた彼女は逃げ出すべきでした。

 それが敗北に等しい行為だったとしても、こんな光景を見るよりはずっとましだったはずです。


 娘の心臓に灯ったのは、燃え上がるような炎でした。幼い頃から押し込めて、見ないふりをしてきた恋心が、嫉妬という薪をくべられて轟轟と燃え上がります。

 どうして、どうして、どうして、その女を選ぶのか。私はあなたのために、身を粉にして、今まで頑張ってきたというのに!


 気付けば、娘はタウンハウスの自室へと戻ってきていました。そして、初めて病だと偽って学院を休み、王妃教育を投げ出して、自室へと閉じこもってしまいます。

 家族や使用人たちは娘を心配したものの、取り付く島もありませんでした。


 娘の中に生まれたそれは、憎しみとも愛ともつかぬ激情でした。自身の中に生まれた、炎。涙は枯れることなく、王太子への愛は娘の胸を締め付けて、平民の少女への憎悪に心中は荒れ狂います。


『私の何がいけなかったの』


 娘の口から、無念の声がこぼれ落ちました。


『私は、どうすればよかったの』


 嗚咽混じりの娘の声に、いっそう情けなくなって視界がくしゃくしゃと歪んでいきます。

 ですが、本来ならば返す者などいないはずのその声に、応じるものがありました。


『悔やんでも無駄だ。もはや、全てが遅い』


 娘の背後で、声がしました。


『今更悔いたところで、あの男の気持ちは既に、否最初からお前にはなかったんだ。お前は目を背けていたようだが』


 はっと寝台に伏せていた顔を上げると、そこには見知らぬ男がいました。勿論、部屋の扉には鍵がかかっていましたし、そもそも誰かが入ってくるような物音一つしていません。

 その顔に浮かんでいたのは、純粋な嘲笑でした。娘は咄嗟に怯えて身構えますが、男は意に介した様子もありません。


『あなたは誰……?』


 娘の問いに、男はくつくつと笑いました。そして値踏みするように娘を見下ろして、表情を歪めます。


『悪魔、とでも言っておこうか。勿論、信じなくとも構わん』


 淡々と男は言いました。その返答に、娘は思わず顔を顰めます。悪魔なんて現実にいるわけがない、そうは思うものの男は突然にこの部屋へと現れたのも事実です。

 娘は、この得体の知れない男と二人でいるのは危険だと思い、助けを呼ぼうと大きく息を吸い込みます。


『だが、お前のその苦しみ―――王太子への愛と憎しみを、そのままにしていいのか?』


 悪魔と名乗った男の声に、娘は息を呑みました。


『どうして、それを知っているの』


 絞り出した声には、一匙の怯えが滲んでいました。悪魔はそれに対して愉快そうに口角を上げ、言葉を続けます。


『さあ。だが、壊してやりたいとは思わないか。あのままだと王太子はお前を捨て、あの女と結婚するはずだ。お前に、許せるのか?』


 悪魔の声に、つい娘は想像してしまいました。幼い頃に夢見た、自分が王太子を支える光景にあの平民の少女が重なるのを。

 二人はきっと仲睦まじく立っていて、皆に祝福される。そんな様を思い浮かべた瞬間、ぱちりと火花が弾けるように娘の中にまた炎が渦巻いていきます。


『……許せない、許せない、許せるわけがない!』


 怨嗟の声にも似たそれは、最早淑女であると讃えられた娘が発してたものとは思えないほどの怒りに満ちていました。


『私は、私だってずっと―――、あの方を愛していたのに!』


 一度口に出してしまえば、その情念は留まることを知りません。滂沱の涙を流しながらも唇を噛みしめ、怒りに震えるさまは、悲壮感を纏いながらもどこか見るものに恐ろしさと狂気を感じさせるものでした。


『そうだろう、そうだろうとも』


 ふっと悪魔は先程までの態度とは一転して、恭しく娘の前に膝をつきました。その目はどこか慮るような光を宿しています。


『お前の無念はよく分かる。だからこそ、このまま捨てられるのを待つというのか?』


 捨てられるという言葉を聞くだけで、娘の心は悲鳴を上げました。苦痛に顔を歪めながらも、彼女は首を横に振ります。


『けれど、今の私に何ができるというの……』


 弱気な娘をまるで勇気づけるように、悪魔は彼女の手を取りました。娘は生白い手の冷たさに驚きながらも、何故かそれを振り払うことができませんでした。


『復讐だ』


 悪魔が囁いた言葉に愕然とし、娘は咄嗟に手を引こうとします。ですが、悪魔によって強く押さえ付けられ、叶いません。


『復讐をしろ。お前の苦しみを、憎しみを、奴らに知らしめてやれ』


 頭の片隅で遠く、警鐘が鳴り響いています。今すぐこの手を振り払い、部屋を飛び出すべきだと理性が告げているのです。

 ですが、足はいつの間にか恐怖に竦み、手も震えるばかりで役に立ちそうにありません。


『そ、そんな、恐ろしいこと私には……』


 せめて、口先で抵抗しようにも、悪魔は朗々と言葉を紡ぎます。


『何も恐ろしくなどないさ。お前はもう身を引き裂かれるような痛みを味合わされた。それが愚かな奴らに返るだけだ』


 悪魔の言葉は、じわじわと娘の心の内に入り込みます。そう、娘は手ひどい扱いを多くされました。王宮でも学院でも顔を合わせたくないというように避けられ、とうとう舞踏会でのエスコート役すら引き受けてくれなくなりました。婚約者のいる身でありながら、兄に手を引かれる娘に対する好奇の眼差しも、自分の目の前にいない王太子を思うことも、全てが苦痛でした。


『復讐は、お前の当然の権利だ。力が、手段が必要なら、俺が貸してやろう』


 まだ一欠片の理性が、それでも娘自身に語り掛けます。悪魔ならただで助けてくれるわけがない。騙されるな、その手口に乗ってはいけない、と。

 娘は、一つため息をつきました。そして、恐怖から収まっていた涙が一筋だけ頬を伝います。ともすれば、それが彼女の最後の良心だったのかもしれません。


『悪魔でもなんでもいいわ。私の復讐を助けて、そのためなら何を差し出したっていい』


 震える声は、それでも悲壮な決意を宿していました。娘は悪魔の冷たい手を強く握り、悪魔を睨むように見つめます。


『いいだろう。契約成立だ』


 高らかに悪魔は言い、満足そうに笑みを浮かべました。そして悪魔は契約の証として、自分に名前を与えろ、と娘に告げます。

 その言葉に、娘は少し悩み、ややあってから口を開きました。


『あなたの名前は、ファウストよ』


 そうして娘は寿命の半分と、死後の魂を悪魔に譲り渡しました。それを代償に、彼女は未だ燻る炎を抱えながら復讐を願います。


 愚かな娘は、知りませんでした。彼女の復讐には何の意味もないことも、それによって満たされることなど少しも有り得ないことも、何一つ知らなかったのです。

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