8

「……最初から」


 しゃがれた声が、苦しそうに咳き込む。ベッドの中から覗く顔は、酷くこけてやつれていた。そう、生き永らえているのが不思議なほどに。


「こうしていれば、よかったのか」


 悔やむような言葉は、きっと過去の選択に対してだろう。私の記憶とずいぶん乖離した姿は、毒に蝕まれたこともそうだが何よりも気苦労を感じさせた。


 この老爺が一国の王であると言われて、何人が信じるだろうか。


 どうにか一命を取り留め、意識を取り戻したことは僥倖だ。だが完治を待っていては、その間に王宮はヒンメル侯爵によって掌握されていただろう。


「分かりません」


 王の言葉に首を横に振る。罪を、後悔を、王に――己の父親だけに背負わせるつもりはなかった。


「しかし、力のないあなたではどうしようもなかった。私も、そうです」


 権力を追い求めたヒンメル侯爵が悪かったのか。それとも、王家がエメリヒの手綱をリーゼロッテ嬢のみに任せてしまったのが悪かったのか。

 そもそも、私が第一王子として生まれてきてしまったことがいけなかったのか。


 過去をやり直すことができないのは承知の上だ。それでも、考えずにはいられない。

 違う未来が、あったのではないかと。


「クラウス。後は、お前に任せる」


 それだけ告げて、王は浅く息を吐いた。


「民のための王となるよう、身を粉にします」


 ベッドに向かって、深々と礼をする。王の返事はない。

 王を医師に任せ、部屋を出る。


 その日、王太子であるエメリヒは廃嫡され、私が王太子に任命された。




 王宮の一室。護衛として配置された騎士に断って中に入ると、華奢な少女が長椅子に腰かけていた。


「待たせてしまったようだね」


 そう声をかけると、すかさず少女は立ち上がって最敬礼をする。言葉を選ばないのであれば、彼女の格好は酷いものだ。髪は多少整えられたとはいえ、美しかった銀髪も痛み、くすんでいる。体は牢での生活で痩せ細り、それを包むドレスも急ごしらえの物でしかない。

 それでもその所作だけは、野に咲く花が美しいように、夜空に月が輝くように、優雅さを欠片も失っていなかった。


 見るものに感嘆のため息をつかせるほど、その礼は指先から洗練されていた。

 つい見惚れてしまい、はっと声をかける。


「リーゼロッテ嬢。顔を上げ、どうかかけてもらえないか。あなたはまだ牢より解放されて、時間が経っていないだろう」


 私の言葉にリーゼロッテ嬢は顔を上げたものの、座ろうとせずに口を開いた。


「お気遣い頂きありがとうございます、クラウス殿下。ですが、立っていられないほどではございません。どうかお気になさらずに」


 淡々とした声色で、リーゼロッテ嬢が言う。その頑なさに苦笑して、私は長椅子に腰をかけた。それから彼女を促すと、ようやくゆっくりと腰を下ろすのを見届ける。


 傍らに控えていた王宮付きの侍女が、私の目の前に茶を置いた。


「リーゼロッテ嬢のものも、冷めてしまっているだろう。変えてやってくれないか」


 私の指示に侍女が応じ、リーゼロッテ嬢のものを淹れ直す。それに彼女は礼を言い、一瞬の静寂が落ちた。私は、意を決して目の前の少女を真っ直ぐ見つめる。


「まずは、王宮から謝罪を。国王暗殺未遂など事実無根。あなたの投獄、ましてや処刑は不当極まりないものだった」


 王族として、不甲斐ない事実だった。テーブルが眼前に迫るほど、深々と頭を下げる。


「殿下、お止めになってください!」


 リーゼロッテ嬢の慌てた声が頭上から降ってきたが、頭を上げることはしなかった。


「王宮はあなたに決して許されない仕打ちをした。アルトマイアー家への賠償は当然として、あなたの名誉回復にも尽力しよう。エメリヒにも追って処分が言い渡される」


 私の言葉に、小さく息を呑む音が続く。


「勿論、これで罪を償えるとは思っていない。あなたが望むことがあれば、王家の名代として叶えよう。何か――」


「もう、いいのです」


 気の収まらないまま言葉を重ねる私を遮るように、凛とした声がした。はっと顔を上げた先で、強い眼差しがこちらを射抜く。


「私は今、生きています」


 厳しい顔でリーゼロッテ嬢が口にした言葉は、あまりに重いものだった。もし、あの時処刑が中止にならなければ、事態の発覚が遅れていれば、彼女はここにはいない。

 だが、リーゼロッテ嬢は一つ息をつくと、表情を緩めた。


「きっとそれも、神が私の潔白をご存じだからこそ。アルトマイアー家の損害を補填してくださるのなら、私個人が望むことなどありませんわ」


「……寛大な言葉に感謝する。本当に、王家が間違いをこれ以上犯さなくてよかった」


 真摯な声でリーゼロッテ嬢はそう言い、ようやくカップに手を伸ばす。その様子に、一抹の不安が首をもたげた。


「何か気になることでも?」


 はっと、不思議そうに私を見つめる二つの眼に気付く。つい思考にふけってしまっていたようだ。それでも慮るような彼女の視線に、言葉が自然と滑り落ちる。


「気分を害することがあればすまない。一つ、聞きたいことがあるんだが」


「私に答えられることでしたら、なんなりと」


 薄く浮かべた笑みは、慈愛に満ち満ちている。それが今の私には――、


「あなたは一体、彼らに何をしたんだ」


 とても恐ろしく見えた。何か得体の知れないものを相手にしているような感覚に、背筋を冷たいものが伝う。

 私が震える声でリーゼロッテ嬢に問うと、慈愛の笑みに陰が下りた。


「エメリヒ殿下の廃嫡、フローラ様やヒンメル侯爵の訃報……私も先ほど聞かせていただきました」


 彼ら、という私の言葉を正しく読み取って、少し悲しげな面持ちを彼女は崩さない。


「状況的に私、アルトマイアーの手によるものとお考えになっても致し方ありませんわ。立場上反目し合っていたとはいえ、弟君ですもの。心中お察し致します」


 ですが、と彼女は言葉を切った。背筋を、冷たい汗が伝う。ひた、とまるで鋭利なナイフでも喉元に突き付けられている心地だ。


「殿下。私は何もしておりません」


 淡々とリーゼロッテ嬢は告げる。私の疑心がそうさせているのか、彼女の声すら無機質に聞こえた。


「あの牢の中で、一心に祈りを捧げていたに過ぎませんわ」


 証言は取れている。ヒンメル侯爵の差し金か、リーゼロッテ嬢にはそれこそ四六時中監視の目が付いていた。それこそ神経質過ぎるくらい、事細かに残っている。


「……そうだったな。すまない、妙なことを聞いてしまった」


 結局、続く疑問は飲み込んでしまった。

 リーゼロッテ嬢の真意は、私にはついぞ分からなかった。本能的な恐れが、彼女を慈悲の少女であると信じさせてくれない。だが、彼女が何かしたという証拠も、一つだってないのだ。


「先ほど、私が望むことがあれば叶えてくださると仰いましたよね」


 ぽつりと吐き出されたリーゼロッテ嬢の言葉に、先の私自身の言動を思い出して慌てて首肯する。


「あ、あぁ。不躾な質問をしたこともある。王家としても、私個人としても尽力しよう」


「ありがとうございます」


 そう言って頭を下げた彼女は、穏やかに口を開いた。


「立場上、私はアルトマイアー家の令嬢。王家との婚姻が立ち行かなくなった以上、いずれは次の婚姻を決めねばなりません」


 リーゼロッテ嬢の言葉に、思わず黙してしまう。やっと解放されたばかりとはいえ、彼女はよくも悪くも有名になり過ぎた。アルトマイアー侯爵の考えは分からないが、遅かれ早かれ彼女には縁談が持ち込まれるだろう。

 今回の一件で、リーゼロッテ嬢に瑕疵はなかった。だからこそ、優秀な令嬢であった彼女と懇意にしたい、アルトマイアー家と繋がりを得たいという家は多いだろう。


「ですが、それは私の本意ではないのです」


 ゆっくりとリーゼロッテ嬢は首を横に振る。


「もしや、想い合う相手でもいたのだろうか。それならどんな立場であっても王家として支援を――」


「いえ、いいえ。違いますわ」


 リーゼロッテ嬢は、困ったように小さく笑った。その笑みは、どこか自嘲するようなものに見える。


「私は殿下の心さえ繋ぎ止められなかった。そんな私が貴族の妻として、誰かを支えることなどできるわけもありません」


 自分自身にすら厳しい言葉に、私は一瞬息を呑んだ。だがおずおずとリーゼロッテ嬢の要求の意図を察し、口を開く。


「つまり、その後押しを王家にしてほしい、と」


「ええ」


 薄らと微笑むリーゼロッテ嬢だが、彼女の願いを叶えるといっても問題は多い。彼女は家柄だけでなく、優秀さからエメリヒの婚約者に選ばれた。結婚をせずとも、アルトマイアー家に残ることの利は多いはずである。


「ではあなたは一体どうするつもりなのだろう。アルトマイアー家に残り、跡取りとなる兄を支えると?」


 私が問うと、リーゼロッテ嬢は薄く息を吐いた。ゆっくりとした所作で、片手を胸に当て真っ直ぐこちらに向き直る。


「私は、神に仕える身になろうと思っております」


「そうか。それがあなたの本当の望みなのか」


 不思議と、それほど驚きはなかった。リーゼロッテ嬢は、どこか曖昧に笑う。喜びとも、悲しみとも取れぬ笑みだ。


「こうして生きていられるのも、きっと神の思し召しです。だからこそ残りの生を捧げたい、そう思うのです」


「分かった。王家としても、あなたの望みが叶うようにしよう」


「感謝の言葉もありません。よろしくお願い致します」


 リーゼロッテ嬢は深々と頭を下げる。すぐに顔を上げたものの、その様子は流石に疲れがあるように見えた。


「長々と話をさせてもらって本当にすまない。馬車を用意してあるから、タウンハウスまで送らせよう」


 元々は少し話をするだけのつもりだったのに、随分時間が経っていた。


「ありがとうございます。よろしければ手をお借りしても? 上手く歩けるか自信がないのです」


「ああ、勿論」


 先に立ち上がり、座っているリーゼロッテ嬢に手を差し出す。乗せられた手は小さく、手首は枝のように細かった。無論、生来のものではなく、牢での生活のせいだろう。

 彼女は一瞬ふらついたものの、手を貸せばどうにか危なげなく立ち上がった。


「そういえば、学園では執事を連れていたと聞くが」


 エメリヒはろくにエスコートもしなかったと聞く。だがリーゼロッテ嬢は特に不慣れな様子もない。そう言えば世話係の侍女はいたものの、専属として付いていたのは執事だったという話を思い出す。


「ええ、そうですね。でも私、執事の一人もいなくなってしまって」


 その言葉のいたましさに、何も言えなくなった。そっとリーゼロッテ嬢を支えながら、ドアへと歩き出す。

 彼女は、それでもしっかりとした足取りで小さく微笑んで見せた。

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