7

「エメリヒ殿下……? いかがなされたのですか、このような時間に」


 重たい足を引きずって侯爵邸を訪ねると、馴染みの騎士が驚いた顔で俺を出迎えた。


「叔父上に用があってな。急ですまない、通してもらえるか」


「ええ、それは構いませんがどうしてお一人で?」


「……事情があってな」


 俺が療養中であったことを騎士は知らなかったようで、適当に誤魔化す。邸内に通されると、先程まであった背筋の冷えたような感覚がようやく落ち着いてきた。俺をここまで連れてきたあの男は一体、と頭を過ぎるが、すぐにそれを振り払う。今はそんなことを考えている場合ではない。

 ホールに入ってすぐに、執事長が慌てて駆け寄ってきた。


「殿下! まだ城で休養なさっているはずでは……」


「至急、叔父上に確認したいことがあるのだ。それに本調子ではないものの、俺の体調も今はだいぶいい」


 俺がそう返すと、執事長は一瞬だけ眉を顰める。だが、すぐに表情を戻した。きっと俺が無理をしていると思ったのだろう。幼い頃から侯爵邸で過ごすことも多く、この老爺とも長い付き合いになる。


「大丈夫だ。心配するほどのことじゃない」


 苦労をかけることを労うように肩を軽く叩くと、執事長は萎縮したように手を揉んだ。


「叔父上は今どうされている?」


 俺の言葉に、執事長が上階を見やる。つられてその先を見るが、俺もよく知る叔父上の執務室がある方向だ。


「本日の職務はもう終えていらっしゃる頃ではありますが、階下にはお見えになっておりませんね」


 ちりちりと、妙な胸騒ぎがする。焦燥感にかられるまま、執事長に詰め寄るように言葉を投げ掛けた。


「今すぐ会えないか? 叔父上がご気分でなければ、すぐに帰る」


「で、ですが……」


 渋るような執事長の態度に、思わず拳に力が入る。心中に漂う焦燥感の正体は分からないが、嫌な予感がするのだ。もちろん杞憂であればいい、だがそうでなければ――。

 真っ先に思い出すのは、頭にこびりついた悲鳴。大切な相手の、忌まわしい記憶である。


「――すまない!」


「お、お待ちください殿下!」


 執事長の横をすり抜けて、執務室へとホールの階段を駆け上がった。無作法は承知の上だ。それでも叔父上なら、事情を説明すれば怒ることはないだろう。


 階段の先、二階の廊下で思わず足を止める。灯りがついているのに薄暗く、どこか寒々しさが漂っていた。

 ヒンメル侯爵邸は、調度品から細かい装飾に至るまで贅を尽くしている。それが、夕暮れというだけでこうも印象が変わるのかと息を呑んだ。

 先を急がねばと歩を進めると、廊下の先に光が漏れる部屋が見える。叔父上の執務室だ。


 しん、と静けさが廊下に落ちる。勇むような駆け足が、部屋が近づくにつれて、無意識に忍ぶようなものに変わっていた。

 とうとうドアの前にたどり着き、聞き耳を立てるが何の音も聞こえてこない。まるで無人の部屋を前にしているかのように、人の気配が全くと言っていいほど感じられなかった。嫌な予感が、どろりと頭を満たす。


 意を決して、ドアをノックした。――応答はない。

 汗ばむ手でドアノブを握り、きっと疲労から深く休まれているのだろうと心中で言い聞かせた。


「エメリヒです! 休息中に申し訳ありませんが、開けますよ……」


 どこか尻すぼみに消えた言葉と共に、息を詰めてゆっくりとドアノブを回す。がちゃりと、無機質な音が廊下に響いた。

 恐る恐る足を踏み入れると、部屋の灯りに目が眩む。けれど、そこは記憶と違わぬ様相に見えた。長椅子の背もたれに、こちらに背を向けた状態で叔父上が腰かけている。一瞬肩の力が抜けたが、もたれかかっているいる様子に体調が優れないのかと慌てて正面に回った。


「叔父上、大丈夫ですか!?」


 叔父上は眠っているように頭を垂れており、いつも気を抜いた様子を見せないのに珍しいと感想を抱く。詳しい様子を窺おうと、そっと叔父上の肩へと手を伸ばした。が、ぎょっとして思わず手を戻してしまう。指先が痺れたと錯覚するほどの冷たさ。

 ふいに叔父上の体が、ぐらりと傾いた。まるで糸の切れた操り人形のように、無造作に長椅子の上へと倒れ込む。その拍子に、見えなかった叔父上の顔を、部屋の灯りが照らし出した。


「――ひっ……!」


 引きつったような声が飛び出す。全身が硬直するような感覚に襲われ、竦んだ足がそれでもその場から逃れようとテーブルの脚を蹴り上げた。

 叔父上は眠ってなどいなかった。目は限界まで見開かれ、瞳孔があらぬ方向を向いている。口の端には、赤黒い血のようなものがこびりついていた。


 目の前の光景を、一欠片も理解できない。否、頭が理解することを拒んでいるのだ。膝を折り、地面に崩れ落ちた瞬間に、胃が締まり喉から何かがせり上がってくる感覚がした。逆らわず、頭を垂れる。喉を、不快な酸味が焼いた。何度もむせ返り、吐瀉物の散った絨毯を握りしめる。生理的な涙が、顔を濡らした。


「――なぜ、だ」


 咳に混じって、そんな言葉が転がり落ちる。その瞬間。ぷつり、と何かが切れるような音がした。




「ああ、気が触れたか。命は取るな、との話だったが、これではどちらがマシか分からんな」






 ――王宮の調書によると、ヒンメル侯爵邸の執事長はすぐに、執務室へと向かった王太子エメリヒを追ったと証言した。呼びかけをしたものの返事はなく、不自然に思って執務室に入ったらしい。

 そこには事切れたヒンメル侯爵と、吐瀉物塗れの床にうずくまって要領を得ない言葉を吐き続ける王太子の姿があったという。


 ヒンメル侯爵の死因は、テーブルに置かれた遺書と空の小瓶から毒による自死だと推測される。遺書には荒れた筆跡で、国王を暗殺を計画したのも、アルトマイアー侯爵家及び侯爵令嬢リーゼロッテにその罪を被せたのも全て己の仕業である。そして自身の所業に耐え切れなくなり、死を選んだと記述されていた。

 後日、小瓶に僅かに残った液体は国王暗殺未遂に用いられた毒物と一致していることが判明した。


 王太子はその後宮廷医師によって直ちに治療と診察が行なわれたが、記憶の大部分を喪失しており、まともな会話もできない状態であるという。時折、フローラ、と名前を呼ぶが、王太子自身は最早それが誰なのかも分からないようだ。

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