6

「殿下、朝食をお持ちいたしました」


 ノックに次いでドアが開き、ワゴンを押す乾いた音が続く。俺はベッドに腰かけたまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。今日は雨らしく、窓には幾重も水滴が這っている。侍女が形式ばった礼をしたのを一瞥し、視線を外した。侍女もそれに特段それに対して何か言うわけでもなく、黙々とベッド脇に備え付けられたテーブルに料理を並べ始める。


「……では失礼いたします」


 侍女はそう言って、粛々と部屋を出た。また食事が終わっただろう頃合いを見計らって、片付けに来るだろう。

 シーツの上に投げ出したままだった足を動かして、テーブルに寄って座り直した。パンとサラダ、湯気の立つスープの匂いに息をつく。簡素だが王族に出される食事だ、生半な物で作られているわけではない。普段の、以前の俺だったらさぞ食欲をそそられたのだろうが、今は何の感情も湧かなかった。機械的にスープをすくっては口に運ぶ。口内に広がるのは生温い熱ばかりで、味覚も今は曖昧だった。時間が経ち、侍女が残した食事を片付けていく。それを見送って、あとは日がな外を眺めていると気付けば夜になっている。そんな日々を繰り返していた。


 あの日から、まるで世界は色を失ったようだ。

 今でも鮮明に思い出せる。俺はゆっくりと手を握り、目を閉じた。瞼の裏に、今も張り付いて離れない。頭の奥で反響し続けるように、フローラの悲鳴がこびりついている。

 次第に速くなる呼吸、無意識に犬のように荒くなるそれを抑えるように、胸に手を当てた。呼吸を整えようと大きく息を吐く。つつっと、脂汗が額を伝った。考えるだけで、耐えられない。

 俺は目を開き、ドアを見つける。もしかしたらフローラが今にもドアを開いて、俺の元に飛び込んできてくれるのではないか。そんな考えがずっと頭の隅に居座っている。彼女の声をもう二度と聞くことができないなんて、到底受け入れられそうになかった。


 それでも忌まわしいあの日から、一週間以上は経っているはずである。最初は叔父上が気を遣って療養を勧めてくれていたが、俺が公務に関わらなくなってから随分と時間が空いていた。流石に王が臥せっている今の状況で、王太子である俺までこの状態では叔父上の負担も大きいのではないか。

 よろよろと幽鬼のように立ち上がると、体がふらついたがどうにか持ち直す。そう言えば、叔父上を始めとした近しい者にも久しく会っていない。先日もカイが面会に来てくれていたらしいが、結局用事が入ってしまい話すことは叶わなかった。

 じくじくと心臓を苛むような痛みは止まない。フローラのことを思えば、苦しい記憶に夜毎魘されている。けれど、こんな俺を見て彼女は喜ぶのだろうか。


『エメリヒ様』


 鳴り止まない悲鳴を遮って、フローラが俺を呼ぶ声を思い出す。暖かな気持ちに胸を満たされて、少し気分が落ち着いた。ひとまず状況を知るためにも、一度叔父上に会う必要がある。誰かに話を通させようと、俺はドアの外に声をかけた。


「おい、誰かいるか」


「ーーーはい、ただいま参ります」


 呼びかけて少し経った後、冴えない風体の痩せぎすの男が現れる。その顔を見て、思わず顔を顰めた。


「何か御用でしょうか、殿下」


 平坦な声に聞き覚えはない。だがどこかで見たような、そうでないような、妙な居心地の悪さがじわりと広がった。だが、どこかで見かけた侍従なのだろうと流し、男に向かって口を開く。


「俺はヒンメル侯爵と、話さねばいけないことがある。侯爵に面会に来てもらえるか、もしくは俺が会いに行けるかどうか確認してきてくれないか」


 俺がそう言うと、侍従は少し困ったように手を揉んだ。視線がふらふらと漂って、やがておずおずと顔を上げる。


「申し訳ございません……。本日、ヒンメル侯爵は登城しておられないのです」


「何? そうだったのか……」


 ううむと首を捻った。朧げな記憶だったが、叔父上が城を開けるような用事はしばらくなかったはずである。


「体調でも崩されているのか?」


 嫌な予感がして聞いてみるが、侍従は首を横に振った。ほっと一息つくが、あまり激務が重なれば体調を崩すのも時間の問題かもしれない。未だ本調子ではないものの、俺にも何かできることがあるはずだ。おそらく叔父上はヒンメル侯爵邸にいるだろう。


「俺の外出許可は出ているか?」


 俺の問いに、侍従は一瞬目を瞬かせる。


「い、いえ……。もし外出なさりたいのであれば、一度宮廷医師の診察を受けませんことには……」


 遠回しな言い方をする侍従に苛立って、鋭く睨みつけた。ひくりと男の肩が揺れ、顔色がさっと青くなる。


「まだるっこしい! それは今日中に手配できるものなのか?」


「申し訳ございません! 恐らく無理かと……」


 すっかり萎縮しきった様子で、侍従がそう吐き出した。俺の望みとは反対の状況に、思わず舌打ちをする。どうにか心を落ち着かせるように、寝台に腰を落ち着けた。無理やり抜け出そうにも、城内に人目につかない場所なんてそうそうない。その上、療養のために用意されたこの部屋は、決して少なくない数の騎士が配置されている。それを掻い潜って、というのは不可能に近い。

 実際に抜け出すとしたら部屋にある唯一の窓から出るのが確実だが、続く中庭を抜けた後に見つかってしまう可能性もある。


 何か方法がないかと思案していると、侍従がふと声を上げた。


「つかぬことをお伺いいたしますが……、殿下はもしやヒンメル侯爵邸まで向かわれるおつもりですか?」


 その声に我に返る。余計なことを悟られたと歯噛みした。どちらにせよ叔父上の状況が分かった以上、この侍従にもう用はない。どうにか丸め込んで追い出してしまおう。


「お前には関係のない話だ、もういい。さっさとこの部屋からーーー」


「殿下」


 出て行ってくれ、と続くはずだった言葉に侍従の声が被さった。たかが侍従が俺を遮るなどと、かっと頭に血が上る。だが、言い返そうとした声が出ない。

 ふと気付くと、先程までのおどおどとした態度とは反対に、侍従は気味の悪い薄ら笑みを浮かべてこちらを見つめていた。


「もし殿下がお望みでしたら、ヒンメル侯爵邸までお連れいたしましょうか?」


 侍従は茶のおかわりでも尋ねるように、淡々と告げる。あまりに平然とした様子に、俺は言葉を失った。その間も侍従は黙したままで、咄嗟に声を上げる。


「何を言っているんだ? そんな方法があるわけないだろう!」


 だから別の手立てを探しているのだ。もしや侍従ごときが俺を揶揄っているのかと思うと、怒りがふつふつと沸いてくる。いい加減に追い出してしまおうかと顔を上げる、その眼前に侍従が立っていた。


「私から見た限りでも、殿下は随分とお困りでいらっしゃる様子……。それをお助けするのが家臣、というものでございましょう?」


 くらり、と急に立ち眩みのような感覚に襲われる。昼というには少し早い頃合。窓から射す陽光の残り香だけでは、この部屋は随分と薄暗く見えた。異様さに息を呑むと、侍従は先導するように恭しく俺の手を取った。


「さあ、参りましょう殿下。ヒンメル侯爵がお待ちですよ」


 侍従がドアに向かって歩き出すと、釣られるように俺の体も前に進む。腕の力自体はそう強くない。掴む腕も細く、そもそもがいかにも文官といった風体だ。にも関わらず、まるで何かに魅入られたかのように振り払うことができない。

 ガチャリと、ドアの開く音が続く。部屋の外は無機質な廊下で、今は誰もいないようだった。踏み出す足が軽く、きょろりと辺りを見回す。その時、一瞬だけ目の前の男の姿がぶれたように見えた。はっと目を凝らして見つめるが、気のせいだったのか侍従は先程と全く変わらない姿を見せている。自分が思っていたよりも、疲労が溜まっていたのだろう。一度、大きなため息を吐いた。





「エメリヒ殿下」


 ーーーふっと、意識が浮上する。風が頬を撫でた。引かれていた手は既に離されていて、男の顔が斜陽に照らされて橙色に染まっている。呆然としていると、男は僅かに首を傾けた。


「ヒンメル侯爵邸の前に着きましたよ、いかがなさいましたか?」


 その声によって、霧が晴れるように靄がかった思考が動き始める。慌てて周囲を見回すと、どうやらひと気のない路地にいるようだ。周囲は西日に照らされているが、侍従の言う通り侯爵邸の前ならば人通りがないのも頷ける。


「待て、お前は俺をどうやってここまで連れてきた……?」


 時間もかなり経っているようで、俺の記憶も手を引かれていた以外は判然としない。はっきりと思い出せるのは、俺が療養していた部屋を出るところまで。まるで白昼夢でも見ていたような心地だ。

 そもそも城から侯爵邸は少々距離はあり、徒歩で来るには距離があり過ぎる。だが、馬車を呼んだ形跡も乗り込んだ記憶もない。


 状況を掴めずにいると、見かねて少々慇懃な態度で侍従が口を開く。


「何を仰っているんです? 共にここまで来たではありませんか。それよりもヒンメル侯爵にお会いになるのでしょう?」


 噛み合わない答えを吐きながら、侍従は路地の外を指し示す。促されるままに視線を向けると、そこには記憶そのままのヒンメル侯爵邸が見えた。本当に誰にも見つからずに抜け出せたのかという驚きと、見慣れた景色への安堵が同時に胸に落ちる。


「では、私はここで失礼させていただきます」


 侍従はふいに言い、深々と礼をした。そのまま通りに出て行きそうなところを、俺は慌てて呼び止める。


「おい、お前。そういえば名前も聞いていなかったな、覚えておこう。どこの家の者だ」


 俺の言葉に侍従は少し目を見開き、そっと居住まいを正した。


「―――家の者です」


 ごうごうと吹いた風が、侍従の声に覆い被さる。


「勿論、殿下の記憶にお留めいただく価値もない、末端の身でございます」


 元々覇気のない声色のせいか、肝心の家名がかき消されたように聞こえなかった。

 聞き直すことも考えたが、また見かけることもあるだろうと思い直す。それになんとなく、この男とこれ以上話している気にはなれなかった。早く侯爵邸に向かわねばと、ひとまずは通りに出るため侍従へと続く。


「それでは、私はこれにて失礼いたします。ヒンメル侯爵邸まですぐとはいえ、殿下もどうかお気をつけて……」


「分かっている。お前も、このことは他言無用だ。俺が不在であることが知れても、ヒンメル侯爵が良いようにしてくれるはずだ」


 心得たとばかりに侍従が首肯したのを確認して、踵を返した。見たところ、門番がいるくらいで馬車の姿もない。来客の予定があったというわけではないようだ。

 俺は逸る気持ちを押さえながら、どこか不気味な斜陽の下を急ぐ。


「また、後ほどお会いしましょう」


 背後で聞こえた声も、距離があったわけではない。だが、頭の中をすり抜けるように、雑音として脳内に響いた。耳を塞がれているように、けたたましく鳴っているはずの警鐘も今は聞こえない。


 何か言ったか、と咄嗟に振り向く。だが、そこには既に誰もいなくなっていた。

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