第8話 大団円

 秀郷は、ある日、

「もう一人の自分」

 を見てしまった。

 いわゆる、

「ドッペルゲンガー」

 である。

 ドッペルゲンガーというのは、

「見た人は近い将来に死ぬ」

 と言われている。

 最初は、明らかに自分だと思う人間が近くにいた時はビックリした、それも怖いというよりも、気持ちが悪いという感覚だった。

 そして、すぐに、

「これがドッペルゲンガーだ」

 と感じた。

 そして次に、

「俺は近い将来、死んでしまうんだ」

 と思ったのだが、最初に感じた気持ち悪さよりも、それほど嫌な気分ではなかったのはなぜだろう?

 自分が死ぬということが分かったから、怖かったり、気持ち悪かったりしたのではないのだろうか? 普通だったら、そういう感覚になるはずなのに、そうではないのだ、

 どちらかというと、ビックリや、気持ち悪いという感覚は、反射的なもので、条件反射に近いものではないだろうか? 例えば、

「ムカデのように、脚が無数にあるものだったり、ヘビのように、足がないものは、自分たちのような二本足で立つ動物の感覚からすれば、まったく違うものだけに、反射的に気持ち悪いと思う」

 と感じるだろう。

 クモのように、やたらと足が長く、胴体のわりに、足を広げた大きさからの錯覚で、気持ち悪いと感じるものもある。それが、条件反射による気持ち悪さであった。

 そんな時、自分の死が近づいていることを意識はしていなかった。

 というよりも、

「別に死んだとして、何があるというんだ?」

 と考えた。

「別に俺が死んだところで、誰か悲しむ人っているんだろうか? そもそも、俺の運命は、明日までの命だったのだと考えれば、別に悲しいこともない。何かし忘れたことはないかと聞かれても、すぐにピンとくるものでもない」

 自分が死ぬ瞬間が分かるというのだろうか? 確かに、苦しくて、

「ああ、死にたくない」

 と思うかも知れない。

 ただ、それよりも、苦しさの方が強くて、

「早く、こんな苦しみから逃れたい。このまま死んでしまった方が楽じゃないか?」

 と思うのはないだろうか?

 そんなに苦しい時に、

「何かやり残したことは?」

 などと思うはずもない。それより、とにかく楽になりたいと思うはずである。

 そう思うと、

「果たして、死というものは、どういうものなのだろう?」

 と考える。

 普通、死にたくないと考える場合、この世で何かやりたいことがあるはずだということを考えるのだろうが、実際に誰かに襲われたり、殺されそうになった時、死の直前に感じる、死の世界への登竜門ともいうような、苦痛が待ち受けているとすれば、

「苦痛を乗り越えてでも、生きていたいと」

 と、果たして思うだろうか?

 死後の世界がどういうところか分からないが、このまま苦しんでも、苦しまなくとも、どうせ死ぬというのであれば、苦しまない方を選ぶだろう、

 そんな苦痛を味わっている間、このまま助かるなどということを思ったりはしないはずだ。

 また、昔の探偵小説などで、

「死ぬよりお苦しい思いを、お前に味わってもらう」

 などという話の中で、

「生き埋め」

 というものが時々出てくる。

 生きたまま、棺桶に入れられ、土葬されたりすると、本当の生き埋めになってしまう。しかも、復讐者は容赦などしない。すぐに死んでしまわないように、空気穴だけは開けておくというむごいことをするのだ。

 空気があっても、食料も水もない。そんな状態で、二度と出ることのできないその場所で、しかも、簡単には殺してくれない苦痛が、待っているのだ。これほどの悪夢はないというものではないか。

 実際に、誰かによって殺害される場合だけではなく、生き埋めになるというのは、自然災害では起こることである。

 例えば、地震という災害で、建物が倒壊し、その中に閉じ込められてしまうなどというのは、よく聞く。

「デッドラインは、72時間だ」

 と言われたりして、3日間ではないか?

 もし、自分が閉じ込められれば、本当なら、1時間くらいで、生きる気力がなくなるのではないかと思うだろう。

「早く一思いに殺してくれ」

 と感じる、

 たとえ、

「一時間半で、助けが来る」

 ということが、ハッキリと分かっていたとしても、きっと、一時間で気力がキレたら、

「早く殺してくれ」

 と思うことだろう。

 つまり、人間は、生きる気力を亡くしてしまえば、そこで終わりなのである。

 自殺をする人だって、本気で死にたいと思い、毒を飲んだりする人は、もう、生きる気力が失せてしまった人なのだろう。

 中には、助けられる人もいるだろう。

「せっかく、死のうとしているのに、何で助けるかね?」

 と、文句をいう。だが、助けた方は、

「それは君が生きていたいと思ったから、神様が、まだきちゃいけないって、生かそうとしたんじゃないか?」

 というだろう。

 思わず、吹き出しそうになってしまう。

 すでに、生きる気力を亡くし、死にたいと覚悟を決めた人間が、神様がいるかどうかわからないが、

「何が俺が生きたいと思ったかって? こちとら、自殺をするのに、そんな生半可な気持ちで死のうなんて思わないさ。確かに自殺菌が無意識に誘発したのかも知れないが、本当に死のうとして、死の境まで行ったのだから、生きていたいなどというのは、ちゃんちゃらおかしなものだ」

 と言いたいのだ。

 助けた方は、完全にヒーロー気取りで、死のうとしたこちらに対して、上から目線なのだが、そんなのはふざけていると言いたい。

 それは、電車の中で、無実の人間を、

「この人痴漢です」

 と言って、自分がヒーローになったつもりなのだろうが、実際には、冤罪という許されない罪を犯していることを知らないだろう。

 もし、その男が、他に一切悪いことやウソをついていないとして、実際に地獄に堕ちれば、きっと、

「俺は何も悪いことをしていないはずだ」

 と言って、言い訳をすることだろう。

 しかし、閻魔大王から、この時の冤罪事件の話を聞いて、この男はどういうだろう?

「あれは仕方がないじゃないですか。俺が、あそこで勇気を出したから、女の子も救われたわけだし」

 と言い出したとすれば、もう救いようがない。

 本当は、自分の罪が何であったのかということを究明するのが本当なのに、まずは、理不尽さから相手を責める。

 こんなことはやってはいけないことである。

 その時点で、閻魔大王はおそらく何も言わないだろう。

 表情も無表情で、

「閻魔大王の無表情ほどど恐ろしいものはない」

 というもので、この男は、そこまで閻魔大王を怒らせたのだ。

 地獄に堕ちた人は、少なくとも自分の所業が分かっていて、分からなくてもそれを示せば、諦めがつくのだろうが、この男は引き下がらない。

 いくら他に悪いことをしていないとしても、たった一つでも、地獄にふさわしい行動をとれば、それでアウトなのだ。

 それこそ、芥川龍之介が書いた、

「蜘蛛の糸」

 のお話のようではないか。

 芥川龍之介が、

「ドッペルゲンガーを見て、それからしばらくして死んだ」

 というのも、何か皮肉なことではないだろうか。

 秀衡は、今、自分が、20歳の記憶の中にいるのだが、

「これって、本当に自分の記憶なのだろうか?」

 と考えるようになった。

 それも、

「12歳以降の記憶が実に曖昧で、他人の記憶が上塗りされているような気がするんだよな」

 と感じたのだ。

 それは、思春期の時期のもので、最初は自分の人生の続きのように思っていたのだが、次第にそうではないような気がしてくるのだった。

 それは、まるで、

「生き埋めにされて、早く殺してほしいと思いながら、死ぬのをただ待っているという苦しみとは、他の何に比べることもできないものなのだろうか?」

 と、感じたのだ。

「生き埋めは、デッドラインが、72時間」

 だとすれば、今の俺は、一体どのあたりまで、デッドラインを進んでいるというのか。

 正直助かりたいという気持ちはある。助かりさえすれば、そこから先は自分の力でいくらでも何とかなる。

「死んだことを思えば、何だってできる」

 というような考え方があるのではないか?

 生き埋めになって、72時間を、どのような気持ちで過ごすのだろう? 10分で、数年くらい過ごしたような気になる。

 そう、

「先は決まっているのだ。どうせ誰も助けにこない。72時間で俺の命は尽きる。本当は一思いに殺してほしいのだが、そうもいかないようだ。ここまでくれば、生き残りたいとは思わない。生き残ることが返って地獄なのかも知れない」

 と感じた。

 助かれば、まるで英雄みたいにちやほやされるだろう。しかし、それも一瞬、助かったことの喜びの次に感じることは、

「これから、何をすればいいんだ?」

 という思いである。

 しかし、死の覚悟をずっとしてきたのだから、いまさら生きられると言っても、完全に、生きる気力はなくなっている。

「生きる気力のない人間に、生きながらえる資格があるというのだろうか?」

 と、考えさせられるのだった。

「生と死、どちらが自分のためになるのか?」

 ということよりも、

「一度生きる気力を亡くしてしまったら、もうその人は終わりなんだ」

 と言っても過言ではない。

 虚しさが残るだけで、そんな時に、自殺菌が自分の身体や頭に侵入してくることになるのだろう。

 あるいは、それ自体が、

「自殺菌の正体」

 なのかも知れない。

「生きるということと、死ぬということ」

 これは、長所と短所のように、背中合わせであり、普段はお互いにその正体が分からないものなのだ。

 だから、

「死というものから、生きるということを考えた時、まったく理屈が分からないに違いない」

 つまりは、死神というものが本当に存在しているのだとすれば、テレビやマンガで出てくるようなコミカルなものではなく、本当に恐ろしいものなのかも知れない。

 秀衡は、そんなことを考えていると、自分の名前をいまさらながらに考えるようになった。

「そうだ、平将門を討ち取った武将ではないか?」

 と思うと、急に将門伝説が思い出された。

 菅原道真などと並んで、討たれたことで霊となって、天変地異をもたらしたりしたではないか。

 これは考えると、二人とも、謂われなき、

「賊軍」

 の汚名を着せられたも同然である。

 道真は、藤原氏や他の貴族の反感を買った。

「出る杭は打たれ、天皇も助けることもせずに大宰府に流された」

 そして、将門は、

「平安京の貴族には坂東武者のことが分からず、いつも搾取を受けていたから、関東で親皇と名乗った」

 どちらも、朝敵ではないのにである。それを討ち取ったことで、悪霊となり、恨みをこの世に残したのだろう。

 それを討った、秀郷は、きっと、何かのバチを受けたことだろう。そうなると、同じ名前を頂く自分も、誰か朝敵になっていない相手に意識することもなく、その人に罪をかぶせて、まさか、自害などという最悪の末路を抱かせたのかも知れない。

 だから、

「死にたい」

 と思うようになったり、ドッペルゲンガーを見せて、本来なら、助かるはずの命であっても、すぐに生きる気力というものをなくさせたのかも知れない。

「俺って、今一体いくつなんだろうな?」

 と思うと、自分の身体の中で、自殺菌が蠢いているのを感じた。

「やっぱり。このまま死んでしまう方が楽なんだろうな?」

 と、夢か幻か、目の前にいるドッペルゲンガーは、きっと、今の自分と同じ表情をしているに違いない……。


                 (  完  )

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生と死の狭間 森本 晃次 @kakku

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