第7話 自殺菌の正体
二十歳になって、急に自殺を考えるようになった。
それまでは自殺など、まったく考えたことがなかったのに、なぜか考えるようになった。「なぜ自殺しようと思ったのか?」
と考えてみたが、その理由が思い浮かばない。
確かに、自殺をする理由は分からないが、
「理由が分からないからと言って、自殺を考えてはいけないというのか?」
ということを考えた。
そもそも、自殺が悪いことだと考えるから、自殺を考えること自体が悪いと思うのであった。
じゃあ、どうして、
「自殺をしてはいけない?」
と考えるのか?
人に聞くといろいろな答えが返ってくるだろうが、究極は、最終的に同じところに落ち着くだろう。
「親からもらった大切な命を、簡単に捨ててはいけない」
あるいは、
「生きていれば、そのうちにいいことがある」
などと言われるが、しょせん、そのどちらかも、胸を打つものではない。
むしろ、そんなことを言われると、無性に腹が立つのではないだろうか?
本人だって、本当は死にたくないはずだ。それなのに、死を選ぶということは、選ぶまでに葛藤をして、死を覚悟しているから、自殺を考えているのだ。
それは、
「永遠に続くであろう、苦痛から逃れるためのものだ」
と思っている人間に、
「親からもらった命」
などというきれいごとを言われても、
「その親が何とかしてくれるわけではないだろう?」
と言いたいのだ。
そして、
「生きていれば、そのうちにいいことがある」
だぁ?
それこそ、ムカついてくる言葉である。
「そのうちっていつなんだよ?」
と言いたいし、
「いいことって、具体的にどういうことなんだよ? そんなものがあれば、最初から自殺なんて思わないさ」
と言いたいのだ。
人がよくいうセリフを言えばいいってもんじゃないわけで、だから、
「俺は人と同じでは嫌だ」
と、秀郷は思っているのであって、そんな自分に対して、慰めのつもりなのか、冗談ではない。
それらのセリフには悪意しか感じない。
「何様のつもりだっていうんだ」
と言いたいのだ。
死を覚悟している人間に、ある意味何を言っても同じなのだが、こんな、火に油をそそぐようなセリフしか言えないやつが、自分のまわりにはいないということなのだろうか?
そんなことを思うと、情けないと感じる。
「そんなことを言っているお前たちだって、幸せの絶頂なのか? だったら、それを説明しろよ。何が幸せなのか、俺は分からないから、死ぬしかないと思っているんだ。だから、何が幸せなのか、教えられもしないくせに、説教たれてんじゃない」
と思うのだった。
そんな連中しかいない、この世を感じていると、
「やっぱり、死んだ方がマシなのかも知れないな」
と思う。
自殺というのは不思議なもので、一度考えてしまうと、抜けられなくなるもので、最期は自殺が正しいことのように思えてくるのではないだろうか?
「人は生まれながらにして、平等である」
などと言っている人の言葉を思い出すのだが、前述のように、
「そんなものはただの理想でしかない」
金持ちに生まれるか、貧乏人の家に生まれるかなど、決めることもできないし、親の性格が遺伝するのだから、それこそ、持って生まれた性格や運命は、そう簡単には変えられない。
帰られるくらいなら、親の代で変わっていて、
「もう少しマシな家に生まれていてもよかったじゃないか?」
と言いたい。
確かに、自分の人生、人のせいにしてはいけないと言えるかも知れないが、逆に、親と正反対の性格になるかも知れない。
それは、持って生まれた性格や運命を、受け入れるしかなく、成長してくる中で、明らかに自分とは違う性格の親のようにはなりたくないとして、本人は精いっぱいで、しかし、まわりが見て、ささやかな抵抗をしている要素を、さぞや、まわりと本人との間で、ギャップや矛盾が生じているのかも知れない。
そんな状態になってまで、生きていると、最初は、そのギャップに苦しむ。
人によっては、慣れてきて、
「俺はこんなものなんだ」
と言って、諦めた人生を歩む人もいれば、
「こんな人生、お先真っ暗だ」
と思って、自殺をする人もいるだろう。
確かに、小学生の自殺というのは、あまり聞かないが、ないわけではない。
そうなると、それくらいの年の子の自殺の理由は、ほぼ、自分のギャップに失望し、その感覚に慣れる前に、自らの命を断つという発想から来ているに違いない。
だが、こんな考えもある。
「人間、一度自殺を考えてしまうと、それがいつになるかは分からないが、結果として、最期は自殺をするものではないだろうか?」
というものである。
ということは、逆に言えば、
「自殺という本懐を遂げることができた人は、自殺をしようとしたのが、この時が最初ではない」
ということだ。
自殺をしようとする人は、必ず以前にも同じ思いがあったということで、それだけ思い立った時にすぐに死ねるという人も珍しいのかも知れない。
そう考えると、
「俺はいずれ、自分の手で、この人生を終わらせることになるんだ」
という感覚が無意識にであろうが、持っているとして、次第にその違和感に慣れてきていると言ってもいいだろう。
この考え方は、運命というものと密接に繋がっているように思える。
逃げられないものが、運命というものにはあり、一度自殺を考え、計画をするか、実行に移すことができたのであれば、その感覚が忘れられず、自殺を違和感なく実行できるのだろう。
つまりは、
「自殺をするということが、本人にとっては快感なのかも知れない」
とも言えるだろう。
感じ方は人それぞれ、自傷行為をする人間だっている。
手首を切るのだって、本気で死ぬ気があるわけではなく、自分を傷つけて快感を得ているのかも知れない。
いわゆる、
「マゾ」
といってもいいのかも知れないが、それだけではないのかも知れない。
そのまま死というものが、次第に視界が狭くなった状態で見ていると、狭まった先には、
「これで楽になれる」
という思いだけが残っている。
これは、一番最初に自殺を考えた時に、まず感じたことだ。
結局は、そこに戻ってくるわけで、回り道はしたが、その間は、この感覚や感情に、
「慣れる」
というために、準備期間であり、
「人間というもの、一度感じたことから、そう簡単に逃げることができず。一周まわって、もう一度同じところに戻ってくるのだ」
そうなると、今度は鉄板である。
慣れというものも備わって、覚悟をしなくとも、その慣れが、苦痛を感じさせないというような世界に連れていってくれる。
そう思うと、死ぬことに対して、それほどの恐怖を感じなくなる。
「死ぬことが快感ではないか?」
とまで、感じるようになるのではないだろうか?
そんなことを感じていると、もう一つの感覚がよみがえってきた。
「人間は、生まれる時と、死ぬ時は、選ぶことができない」
というものだ。
前述の、
「人間は生まれながらにして平等だ」
などというのは、まやかしの類だというような考えを示したが、まさにその通り、どこの家に生まれるかで、その時点で、すでに不公平であり。運命というものが本当にあるのだとすれば、その運命は、この世に生を受けた時点で決まっている。
ただ、その運命は、
「本当に変えられないものなのか?」
ということが大切なのであり、変えられないとすると、それに従うしかないわけで、運命がどのようなものか、自覚できないからこそ、運命を信じない人も多い。
しかし、今自分が行っている行動が、運命なのか、それとも、運命など存在しないのかということは分からない。運命自体が証明できないのだから、当然のことだ。
しかし、やはり、少なくとも、この世に生を受ける時というのは、運命であり、不公平なものなのだろう。
死ぬ時は、運命が影響しているのだとすれば、やはり、最初から決まっていたことなのだろう。
だが、死ぬことを自由に選べるかどうなのかというのは、結局は宗教的な教えであり、
「人を殺めてはいけない」
というのが、自分であっても同じであるから自殺は許されないという考えだったとすれば、ガラシャの行動は、完全に矛盾している。
そもそも、人は殺してはいけないのだ。彼女の行動は、他の人に自分を殺させたのだ。
自分を殺すのも、殺人と同じだというのであれば、彼女の行動は、明らかな、殺人教唆ではないか。
この場合の彼女の行動は自殺ではない。
「人に自分を殺させる」
という、殺人教唆である。
そうなると、
「自殺と、殺人教唆では、どちらが罪が重いというのだろう?」
と言える。
普通に考えれば、自殺の方が軽いだろう。なぜなら、殺人教唆は、実行犯がいて、その人は本当は嫌なのに、上司の命令に逆らうことができないので、嫌々やっているわけだ。
「人を殺した人間は、地獄にしかいけない」
というのであれば、戦国時代や、帝国主義の世界大戦などの時代には、地獄に人が溢れていたことだろう。
何しろ殺し合いなのだ。
一人の人間が、何人を殺したというのか、そんなことをしていれば、ほぼどちらも全滅状態で、最期には、どちらかが戦闘不可能に陥って、降伏するか、それとも、全員が死ぬまで戦うかのどちらかだ。
そこに、妥協は許されず、時代としては、
「敵前逃亡は、銃殺刑」
となっていた時代である。
そんな中にはキリスト教信者もかなりいただろう。
それでも、戦争において、人を殺すということには、次第に慣れていくという。血や、肉体が飛び散ったような戦場を見ても、
「別に何とも思わない」
という、慣れることで、自分を肯定し、さらには、自分を殺人鬼に仕上げるに十分な心境を作り出すことになるのだろう。
確かに人間は、生まれることを選べない。そして死ぬことも選んではいけないのかも知れないが、じゃあ、最初と終わりは選べないのだとすれば、
「生きている間は自由なのか?」
と言えば、そんなこともない。
人類すべてが平等であって、そこから、自由が生まれているのであれば、本当に自由なのだろうが、もっとも、そんな自由を想像することは不可能だ。
生まれる時が、最初から不公平なのだがら、生きている間、皆平等などという理屈は成り立たない。
そもそも、このような貧富の差であったり、人間関係としての、上下関係はどこから生まれたというのだろう?
人間関係というものは、古代に行くほど、ひどい者だった。
有史以前より、奴隷制度のようなものがあり、それが当たり前の時代だった。
それは、聖書の中での、モーゼによる奴隷解放から始まり、キリスト教の発想が生まれたのかも知れないが、あれだって、ヘブライやユダヤの人々、つまり、キリスト教圏内の民衆だけに言われていることではないか。
エジプトのファラオの支配の中には、同胞のエジプト人だって、奴隷にされていたに違いない。
それなのに、救われるのは、ユダヤの民だけだ。
エジプトでは、ユダヤの民である奴隷がいなくなれば、奴隷制がなくなるわけではない。
「ユダヤがダメなら、他から連れてくればいい」
というわけで、他の国を占領し、大量の奴隷を作ることになる。
キリスト教は、そんな他民族のことは関係ない。
モーゼだって、
「奴隷解放の英雄」
に祭り上げられているが、モーゼがいなければ、エジプトから侵略を受けることもなく、奴隷にされることもなかったのだ。
彼らは、それが
「モーゼの仕業だ」
とは言う事実を知らないかも知れないが、きっと、
「誰かが余計なことをしたから、こんな目に遭っているのだ」
と思っていたのかも知れない。
それにしても、
「モーゼの十戒」
というのも、いい加減なものだ。
いきなり、
「人を殺めてはいけない」
と出ているではないか。
人を殺めないで、生きていけるわけはない。ただ、それは、
「人間が人減の意思で殺めてはいけないということで、神は許されるのだ」
と言える。
聖書の中で、神は何度この世を滅ぼしていることか、大規模小規模含めてである。小規模というのは、局地的という意味である。
「ノアの箱舟」、
あるいは、
「ソドムとゴモラ」
しかりである。
さらに、神は、人間に、生贄を求めてもいるではないか。最終的には、
「人間の覚悟を試す」
ということで、事なきを得たのだが、これだって、神が人間を試した。
つまり、
「人間の心をもてあそんだ」
と言えるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「一体、神様というのは、何様なんだ」
と考えてしまう。
そもそも、神様というのは、そういう存在なのだから、そう思ってしかるべきなのに、人間というものを顧みた時、神の存在がどのような影響を与えるのかと思うと、決して気持ちのいい感覚ではない。
自殺菌のようなものは、ひょっとすると、これだけの歴史がある中で、とんでもなく偉い哲学者の先生などがこれだけいたのだから、考えている人もいたに違いない。
しかし。その研究は、ほとんど聞かれることもない。
都市伝説としても、聞かれることはないのだ。
ということは、
「考えた人はいたとしても、研究するにしたがって、その考えが先に進むものではなく、考えることを辞めた人が多かったということなのか?」
それとも、
「今考えているような、こんな自殺菌の考え方は、何者かによって不利なものであり、それ以上考えないように、何かの見えない力が働いている」
ということなのかも知れない。
そんな考えは、前者であれば、人間の意思で、自殺菌という考え方を排除しているのだろうが、後者であれば、明らかに、外的要素によるものである。
「自殺を考えたことがある人が、この世に果たしてどれだけいるというのだろうか?」
と考えた時、人によっては、
「ほとんどの人がいるんじゃない? 考えたことがない人の存在なんて、考えられない」
という人もいるくらいだ。
しかし、前述のような考えで、
「一度でも自殺を考えたことのある人は、最終的には自殺をしてしまう」
ということであれば、人類は皆自殺だと言えるのではないだろうか?
ただ、それまでに事故で死ぬ人は、自殺に至らなかっただけで、
「不慮の事故はしょうがない」
ということであったり、時代によっては、戦争などのように、無理やり、殺し合いの場に引きずり出されたり、無差別爆撃を食らったりして、結果、自殺に至らない場合もある。
では、自殺以外の人で、事故や事件に巻き込まれない場合は、基本的には、
「大往生」
しかないではないか。
大往生か、不慮の事故など以外での死というと、確かに自殺しか思い浮かばない。
大往生の人も、実は自殺を、
「機会があれば」
と無意識にだろうが、思っていたとしても、寿命というものが分からないだけに、
「結局、もたもたしているうちに、自殺する機会を失ってしまった」
という人であろう。
中にはものぐさな人がいて、
「自殺なんて、面倒臭い」
と思っている人がいるとすれば、案外大往生まで行く人は、
「気が付けば、死んでいた」
という人なのかも知れない。
「では、病気で死ぬ人は?」
と考えた時、
「実は、これこそが自殺なのでは?」
と考えられる。
昔から言い伝えというか、ことわざとして、
「病は気から」
というではないか。
つまり、病気というのは、気持ちさえしっかりしていれば、いくら老いてきたとしても、不治の病にはかからないのではないか?
ということであった。
ただ、このような表現が、病気で死んでいった人に失礼なのは分かるのだが、話をフィクションとして聞いていただけるのであれば、問題ないと思っている。何しろこの考えは、あくまでも、主人公である、
「秀郷」
が考えていることであり、他の人が何を考えているかなどということも、分かっているわけではないではないか」
病気というのは、
「寿命が近づいているから、身体が弱ってきている」
ということなのだろう。
寿命がそのまま、老けることになり、
「人間、50歳を超えると、成人病と呼ばれるものに罹る確率が、ぐんと増える」
と言ってもいいだろう。
自殺というものは、
「自分で自分の命を断つ」
つまり、真剣に病に罹らないようにしようとしても、実際に罹ってしまう人が多い。それでも、完全に立ち向かう人もいれば、
「もういいや、あれだけ一生懸命にやっても、罹ったのだから、かかってしまって、じたばたしたって、しょうがないじゃないか?」
と考えるのだ。
秀郷は、
「確かに、病気は気持ちからだというが、それが自殺ということに一足飛びに結びついてくるというのは、あまりにもいきなりの発想ではないか?」
と考えた。
しかし、自殺というものが、
「自殺菌という菌によってもたらされる」
と考えたとすれば、
「人間一人一人の発想は、そこまで一足飛びではないが、自殺菌のような存在があれば、それも不可能ではない」
ということであり、
「自殺菌というのは、人間が、潜在的に持っている発想を誘発したりするための、媒体のようなものだ」
ということを考えれば、辻褄が合うように思えてくる。
「一足す一が二」
になるわけではなく、このように数字上では、一にしかならないが、それを数式で表すと、
「一足す一は一」
ということである。
そこで生まれてくるのが、錯覚というものではないだろうか?
誰もが、結局は自殺で死んでいるのに、それを意識させない。
だから、本当に自らの命を奪うことは、許されないと言ってもいい。
つまり、死というものは、
「人間が自由に選べるものではないのだは、実際には自殺なのだ」
と考えると、一般的な自殺というものを倫理的に許せないという発想は、人間の中から生まれたものであなく、やはり聖書のように、過去から受け継がれたものであり、神からの言葉なのだろう。
それが十戒の、
「人を殺めてはいけない」
という戒律であり、その解釈で、人というのは、自分のことではないだろうか?
そうでなければ、
「人というものを文字通り解釈すれば、ほとんどの人間が、これに違反していることになる」
と言えるだろう。
つまり、この場合の、
「人」
というのは、自分のことではないか?
宗教とはいえ、自分たちの宗教内だけの、お話であり、前述の、
「モーゼの奴隷解放」
の話のように、
「負の連鎖」
というのは、どんどん続いていくものだからである。
この場合の、
「人を自分と解する」
という発想は、錯覚に近いもので、かなり強引な発想であることも分かるのだが、この方が、額面通りに受け取った場合に、戦時中などの殺し合いを理解することができなくなるからだ。
「さすがの神も、ここまで人類はおろかだとは思わなかったのか、そもそも、神なんているわけもなく、人間が、実効支配を行うために、統治目的に、考えたことではないかと思う」
と、納得がいくというものではないだろうか?
「今の人間を、宗教などを一切考えない人間、さらに宗教を毛嫌いしている人間という風に分けると、前者は、まったく宗教自体を信じていない人、後者は、信じていないつもりで考えているが、それは、根底で信じていて、怖がっているからこそ、考えないようにしているのではないか?」
ということになるのではないかと感じるのだった。
これも、錯覚によるものであり、
「人間は錯覚するものだ」
とすると、それを作った神は何を考えて、そのような錯覚を人間に与えたのであろうか?
そんなことを考えると、またしても、堂々巡りに入り込んでいくのであった。
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