第6話 孤独
つまり、
「人間、最期は自分一人なんだ」
ということは、分かっているつもりである。
しかし、そう思ったとしても、実際に自分が一人になってから考えることとして、自殺を考える人と、開き直る人がいるだろう。
「その境目って何なのだろう?」
と考えてしまう。
一つは、そのキーワードとして、
「永遠」
というものがあるような気がする。
「永遠に、逃れられない苦しみ」
であったり、
「逃げても逃げえても追いかけてきて、永遠に付きまとわれる苦しさ」
そういうものを悟ってしまうと、
「自分の居場所は、もうこの世にはない」
と考えてしまうに違いない。
確かにそれはあるに違いない。
生きていて、自分が今どういう立場にあるか分からなくなると、きっと、堂々巡りを繰り返してしまうに違いない。
すると、逃げても逃げても追いかけてくるものから、永遠に付きまとわられてしまうということになるだろう。
孤独というものが、
「負のスパイラル」
を連れてきて、逃げることのできないものになってしまうと、そこから自分が、何をどうしていいのか分からなくなると、あの世にいる自分と同化してみたくて仕方がなくなる。
きっと、あの世から、お迎えが来ているのだと思うのであって、そのためには、自分が死を選ぶしかないと思う。
それは、
「楽になりたい」
という感覚に似ているのではないだろうか?
一瞬の苦しみだけで、後は永遠に苦しみのない世界にいけると思い込む。だから、死を選ぶのだ。
だからと言って、本人が、死の世界を知らないわけではない。
というのも、秀郷の場合は、仏像に一時期造詣を深めたことがあって、天界のことを勉強したりした。
すると、天界には、4つの世界があり、上二つは、神や仏になるために、選ばれた人がいくところで、3段階目は、普通の人がいく世界である。
これが一般的に言われている天国なのかは分からないが、一番下は、ご想像の通り、
「地獄行き」
というものである。
いろいろな宗教でも、死後の世界は、そこまで差はないようだが、この天界の発想として、少し他と違うところは、
「輪廻転生」
という考えと少し違うところである。
「人間に生まれ変われるのは、3段階目だけの人だ」
ということである。
上二つの段階は、そもそも、神や仏として天に召されたという考え方なので、生まれ変わりなど、そもそもないのだ。仏教でいえば、
「悟りを開いた如来」
あるいは、
「悟りを開くために、日々修行をしている菩薩」
などが、いるが、彼らがこの世に戻ってくる時は、生まれ変わりではなく、如来や菩薩として、崇められる存在として、降臨してくるのだ。
つまり、人間に生まれ変わるのは、下の二つしかないということになるが、
「天界の考え方として、地獄に堕ちた人間は、生まれ変わることができるが、それは人間ではない、他の生き物に生まれ変わるということになるのだ」
と言われている。
だから、人間に生まれ変われるのは、3つ目の段階の人だけということになるのである。
そんな世界観は、仏教だけの世界だけのものであろうか?
いろいろ考えてみると、
「地獄に堕ちた人間が、人間には生まれ変わることができない」
という発想は、的を得ているかも知れない。
他の宗教などでは、
「地獄に堕ちた人は、決して生まれ変わることができずに、永遠に、苦しみ続ける」
というものもあるが、そう考えると、違った考えも生まれてくる。
もし、人間の生死というものは、
「輪廻転生しかない」
ということであれば、地獄に堕ちた人間は、人間に生まれ変われないとすれば、
「人間は、人口がどんどん減っていく」
という理屈になるが、実際にはそんなことはない。むしろ増えているくらいではないか?
ということになれば、もう一つの考え方として、
「他の動物が死んでから、生まれ変わった時に、人間に生まれ変わる」
ということも考えられないこともない。
確かに言われてみれば、占い師に見てもらった人が、
「自分の前世は、昆虫だったって言われたよ」
という話を聞いたことがある。
ということは、この世での出来事があの世に影響するのだろうが、生まれ変わりにまで影響するというのだろうか?
とも考えられる。
昆虫は他の生物が人間に生まれ変わるのであれば、人間に生まれ変われるだけの徳を身に着けているということのなるのだろうか?
それを思うと、
「他の動物が、人間のように意思を持ち、その責任で行動し、善悪の意識を持っていない限り、人間のような、感覚にはなれないだろう」
と思うのだが、ただ、もう一つ言えることとして、
「人間というのは、そんな偉そうなことが言えるほど、優秀ないきものなのだろうか? 輪廻転生して、次は昆虫だったら、自分に意思はないのだろうから、そのまま、昆虫のまま輪廻転送していくのではないだろうか?」
と考えるのだった。
地獄というところがどういうところなのか、考えたことがあった。よくイメージとして頭の中にあるのは、
「パンチパーマに二本の角が生えていて、ギラついた目をしていて、肌が、赤かったり青かったしていて、ほとんど裸の鬼たちが、仕切っていて、人間に対して、あらゆる苦しみを与える小道具を使い、人間を懲らしめるというものである。
「懲らしめる」
というと、
「人間を正しい道に導くために、痛みを与えたりして、その人に考えさせて、いい方に向かわせる」
というものであるが、地獄に堕ちてしまうと、もう、そのすべてが遅いのだった。
「死んでしまえば、それまでだ」
と言われるが、その通りであって、死んでしまえば、生きている頃の常識は通用しないというものである。
つまり、
「死んでしまうと、何もかも手遅れで、痛い目を見るのは、自分のためではなく、痛い目に遭うために、地獄に来たのだ」
ということである。
絶対に抜けることのできない地獄。これが、宗教的にも言われていることであり、地獄と、永遠という言葉は、切っても切り離せない言葉となるのではないだろうか?
ただ、これはあくまでも、宗教上の発想であり、
「本当の地獄は、この世にある」
という発想もある。
それは、きっと、いわゆる、
「この世の地獄」
を見た人が、
「この世で、逃れられない永遠の苦痛を感じた」
からであり、人間には寿命があると分かっているので、永遠とは結びつかないことから、他の人は、
「この世の地獄」
ということにピンとこないのかも知れない。
地獄というところは、本当に孤独なところだろう。ただ、あまりにも苦痛がすごくて、孤独というものを、この世にいる時のような、苦痛に感じることはないだろう。
この世にいて、孤独を恐怖と感じるのは、苦痛の中にまだ何か余裕があるからなのかも知れない。
生きている以上、呼吸をしなければいけない。だから、呼吸をするくらいの余裕という意味で、生きるためだけの余裕は感じているのだろう。
「では、地獄では、そんな余裕など感じないのだろうか?」
少なくとも生きているわけではないので、
「生きるための苦痛や、余裕というものはない」
に違いない。
ただ、孤独というのは、地獄に限ったことではない。そうは思うのだが、
「地獄という場所においての地獄だけは、他の地獄とはわけが違うような気がして仕方がない」
と思うのだった。
地獄という言葉には、いろいろな意味が含まれているのかも知れない。
状況を示している場合もあれば、地獄という、
「想像上の場所」
という場合もある。
どちらが怖いのか、正直分からないが、それはその感じる人によっての、個人差があるということなのだろう。
ただ、この世の地獄を味わっている人は、そこに、
「孤独」
を感じているのかも知れない。
普通に地獄も何も感じずに生きている人間は、孤独をどのように考えているのだろう。
秀郷は、孤独を苦痛だとは思っていない。ただ、子供の頃は、
「孤独にはなりたくない」
と思っていた。
それは、幼稚園の頃だっただろうか? 家族で遊園地に遊びに行った時、
「子供あるある」
で、迷子になったことがあった。
親がいないので、確か、自分は泣いていたような気がする。
それが孤独だったのかどうかわからないが、少なくとも、泣きわめくことで、誰かに今の自分の状況を分かってほしいと思うのか。それとも、気づいてほしいと思ったのかのどちらかなのだろうが、どっちなのか、正直覚えていない。そのくせ、その時の感覚は憶えているのにである。
まわりが、自分に気づかずに、どんどん通り過ぎていっているのを、明らかに、
「無視された」
という感覚になっていることは分かっている。
だから、誰も気にしてくれないことを恨んでいるかのように、泣きわめくのだ。
子供だから、泣きわめくことを恥ずかしいなどと思わない。親からは、
「恥ずかしい」
と言われるが、自分はそんな風には思わないのだから、それ以上どうすればいいというのか?
これは、成長してからその時のことを思い出して、あたかもその時に感じたかのように感じるのは、無理もないことなのだろうか?
特に相手が親だと、怒られれば怒られるほど、反発したくなる。
今でも子供を叱りつけている親に対して、さらに泣き出す子供を見て、
「ああ、頑張って逆らっているんだな。せいぜい頑張れ」
と感じるのだった。
子供心に、親に対しての反発は、
「子供だからできるんだ」
という思いと、
「大人になって同じことを感じれば、子供の方が正当性があるんだろうか?」
という大人のようなことを考えていた気がするのだが、
「それは、大人になったから後から思い出して感じることなのか?」
それとも、本当に、子供として感じたことを、そのまま意識が覚えていることなのか?」
と考えるが、自分としては、
「子供心にも、理屈があって、ピッタリと嵌った時だけ、意識として残っているのではないか?」
と感じるのだ。
だが、それは子供の自分がませていたというわけではなく、
「子供は子供で理解できるエリアを持っていて、そのエリアを、大人になっても、忘れないだけの意識があるのかも知れない」
と感じるのではないかと思うのだった。
迷子になった時、一人でいることを、実は怖いとか、苦痛だとか思わなかった。
いつも、親がそばにいて、口うるさくしていることが、その親がいないことで、自分たちに言っていたことが、理屈に合っていない、理不尽なことではないか?
と感じるのだった。
「ねえ、僕はどこから来たの? お父さんお母さんは?」
と、優しくお姉さんが話しかけてくれる。
心の中で、
「お母さんも、これくらい優しく言ってくれれば、嬉しいんだけどな」
と思った。
お姉さんを見て、
「キレイなお姉さんだ」
と感じたが、自分の親にはそんな感覚はなかった。
「キレイだとか、そんな感情は恥ずかしいものなんだ」
と思うのは、親だからだろうか?
今から思えば、親だということと、家の中だからということで、よく母親は、着替えなど、子供がいる場所でも平気でしていた。見られても恥ずかしいわけではないのは当たり前のことだが、子供にはそんなことまで分かるはずがない。
だが、子供としては、
「見たくない」
という思いであり、それもどちらかというと、
「そんな気色の悪いものを見たいとは思わない」
という感覚だった。
正直母親の裸を、
「気持ち悪いもの」
もっと言えば、
「汚いもの」
という感覚でいたりしたのだ。
そういう意味でも、親とはぐれて、他の人と一緒にいるのは新鮮だった。特にお姉さんは一緒にいて、気持ちを癒される気がしたのだが、もちろん、その時に、
「癒し」
などという言葉を知る由もなく、ただたんに、
「優しいお姉さんと一緒にいると、眠くなってくるような心地よさがある」
と思っていた。
それはきっと、生まれた時、いや、生まれ落ちる前まで入っていた母親の羊水の中にいるような心地よさだったのだろう。
そんな母親が与えてくれた癒しや安らぎというものを、すっかり忘れて、
「汚いもの」
というのは、失礼千万なのかも知れない。
しかし、実際になぜ気持ち悪いなどと思うのかというと、
「親と思うだけで、何かくすぐったいような気持になるのと、似たようなものではないだろうか?」
と思うのだ。
だが、相手が男性だと、お姉さんに感じたような気持はなかった。どちらかというと、形式的に、
「心配しているふりをしているだけ」
にしか見えないのだった。
幼稚園生なので、異性に興味を持つなどということはなく、色恋沙汰ではないことは当たり前なのだが、それだけに、母親の中にいたという感覚を、素直に感じられるのではないだろうか?
ただ、母親が普段から文句ばかり言っているように思っているので、癒しをくれる相手を、母親以外の女性に求めているだけなのかも知れないと思うと、
「優しいお姉さん」
という感覚も分かるような気がするのだった。
ただ、このことを考えると、
「幼児期にも、本当は第一期の思春期のようなものがあるのではないだろうか?」
と感じたのだ。
その反動というか、副作用なものとして、母親に恥ずかしいという感情を抱き、他の女性に母親を見るという感覚から、中学生の頃に感じる思春期とは、まったく違うものなのだろう。
何が違うと言って、明らかに違うのは、
「身体と平行していない」
ということだ。
中学時代は、身体が大人になりかかっているので、精神の不安定さと身体の不安定さが絡み合って、身体に異変ではないが、副作用のようなものとして、ニキビや吹き出物ができたりするのだろう。
そういえば、中学時代の秀郷は、そんなニキビや吹き出物を、自分のものであっても、気持ち悪いとしか思えなかった。だから、人の顔が近づいてきても、
「気持ち悪い」
と、相手を突き飛ばすくらいに嫌気が刺していたのだった。
だが、そんな態度にまわりも、怒ったりはしなかった。そのくせ、まわりも、自分と同じように、こちらを気持ち悪がっているように見えないのだが、それは、自分が感じていないだけだろうか。
そんな状態の頃、
「子供あるある」
で、迷子になった時、今から思えば、
「あれは、第一段階の成長期における、通過儀礼のようなものだったのではないか?」
と思うのだった。
そんな時、何が孤独なのか、そもそも、孤独などと言う言葉も、その意味も知らない子供が大人になって感じるのは、
「記憶に対して、今の意識が勝手に着色した部分が多いのではないか?」
ということであるが、
それはあくまでも、
「勝手な着色」
であって、問題は、子供の頃の記憶が色褪せることなく残っているということの方ではないかと思うのだった。
迷子になった時、怖いとか、寂しいという感覚はなかったような気がした。それよりも、子供心に、
「お父さん、お母さんに叱られる」
という思いがあった。
それは、いつもどこかに出かける時、
「迷子にならないようにね」
と言われていた。
迷子がとういうことなのかということは分かっていて、
「迷子になるというのは、恥ずかしいことだ」
というのも分かっていたつもりである。
だから、
「迷子にならないように」
と言っていた言葉の辻褄が合っていることは分かっている。
そうなると、結論として、
「迷子になるのは悪いことだから、親から叱られても仕方のないことだ」
ということになるのだ。
それで実際に迷子になったのだから、当然、怒られるに決まっている。子供としては、理屈よりも、叱られるということが嫌だったのだ。
叱られるのが、なぜ嫌なのか、本当の理由が分かっていない。
「そもそも、なぜ、迷子になるのがいけないことなのか?」
ということの理屈はまったく想像もできなかった。
大人が考えるのは、
「迷子になると、まず、親が心配する。そして、子供の安全がまず最優先なので、まわりに迷惑をかけることも仕方がない。迷子センターに言って探してもらう。その間、親はどんどん心配になってきて、最悪のことを考え始める。そうなると、心労が激しくなり、身体に変調をきたしてしまうかも知れない。ただ、これは、親として、子供が迷子になったのは、親の責任だというプレッシャーに押しつぶされそうになるからだ。子供の安否よりも、そっちの方が怖くなってくるのだ。それは、時間が経つにつれ、発想がどんどん最悪な方に向かっていくからではないだろうか?」
ということを、いろいろ考えてくる。
途中から、まったく違ったことを考え始める。それには、どこかに、交わる線が出てくるからで、平行線というものが、
「交わることのない」
というものであるのに対して、必ず交差するものは、お互いに近寄ってくるもののはずだ。
近づいて、引き合っていたはずなのに、その接点に気づいていないと、いつのまにか、遠さがっていくことに、違和感を感じ、自分がどこに向かって進んでいるのか分からなくなってくる。
それが、大人になって考えることなのだ。
「交わることのない平行線」
というものを、神聖なものとして受け入れることで、交わることを心の中で拒否してしまうことで、交わった瞬間を分かったとしても、
「まさか」
と感じることで、自分の中で分からなくなっていくのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「大人と子供の間には、明らかな結界があると思っていたが、それが交わったはずの線の交差を意識できなかったことで、最期は自分がどこを向いているのか分からなくなってしまうのではないだろうか?」
ということであった。
そんな時、人生の中にあるたくさんの交差点に対し、秀郷は、一つの答えを見つけた気がした。
その答えがすべての答えだとは思わないが、一つの結論に結びつけてくれるような気がした。
その問題と答えは、問題としては、交わることのない平行線であり、それが交わった時に何が起こるかということを考えた答えが、
「孤独というものではないか?」
と感じることであった。
孤独というものが、自分にとって何なのかということを考えると、
「子供と大人の間にある結界を、孤独というものが、こじ開けてくれることになるのではないか?」
と感じるのだった。
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