第5話 自殺をするということ
自殺菌というのが、心を持っているものなのか、さらには、誰が何の目的で作ったのか?
ということであるが、これも、考え方としては、どうしても、聖書であったり、神話などから、宗教的な考え方が絡んでくる。
やはり作ったとすれば、それは、
「神の仕業だ」
ということになるであろう。
神というのは、全知全能の神であり、ギリシャ神話でいうところの、
「ゼウス」
に当たるだろう、
しかし、ギリシャ神話における、
「オリンポスの神」
と言われている神々は、物語の中で、
「人間以上に、人間臭い」
という表現で描かれている。
ゼウスや、ポセイドンのような中心的な神は、人間の女に手を出し、人間と神との間の諍いの種になったりしている。
ただ、圧倒的に神が強いので、神の考えに逆らった場合は、国ごと滅ぼされるなどということはざらだった、
アトランティス大陸や、ボンベイの都などが、一瞬にして滅んでしまったという伝説は、ひょっとすると、地震による火山の爆発などにより、破壊されたことから、
「それも神の仕業」
ということを結びつけることで、天変地異を神の力を考え、
「神に逆らってはいけない」
という伝説を作り、人間の支配者は、
「その神から、国家支配を任されている」
などという伝説を作ることで、実効支配を正当化しようとしているのだろう。
考えてみれば面白いもので、神を神格化することで、国民支配に結びつけるために、
「神というものが、いかに、人間に近いか?」
ということを示しているのは、何もギリシャ神話だけではない。遠く離れた日本でも、
「国作りの神」
があり、
神が、人間の姿で活躍する物語が、古事記である。
そこから、天皇が生まれ、
他の国には例を見ない、
「万世一系の天皇家」
という血筋が、日本という国に君臨し、2600年が経過したということになるのだ。
つまり、キリスト伝説よりも古い時代から、皇紀があり、天皇制が脈々と受け継がれてきたということなのだ。
それだけに、日本を神の国として、さらに、元寇の時代から言われている、
「日本は負けそうになっても、神風が吹いて、必ず勝利をもたらしてくれる神がおられるのだ」
ということで、
「不敗伝説」
を信じて疑わなかったのだ。
それだけに、日本が大東亜戦争に負けたと分かった時、ほとんどの国民が信じられなかったことだろう。
日本を占領した連合国も、
「天皇制をなくしてしまうと、国家の統治ができない」
と判断し、天皇を象徴としての存在を維持することになったのだから、それだけの力が実際にあったということであろう。
何しろ、万世一系で、これだけの長い間、君臨してきた国はないだろう。それが、日本という国の特徴であり、ある意味、本当の意味で、
「神の国」
なのかも知れない。
もし、
「死にたい」
と感じることが、自殺菌なるものによるものだとすれば、それを作り出したやつがいるということになるのだろうか?
神でないとすれば、誰なのか? まさか自然発生的に生まれたものなのであろうか?
ただ、この菌は、人間にしか効かないものだという。他の動物は、死にたいと思わずとも、自然の摂理により、弱肉強食で、そのうちに、天敵に食べられてしまう運命にあるだろう。
さらに、人間よりも、寿命がはるかに短い動物が多い中、死にたいなどと思う動物などいないに違いないと思う。
ウソか本当か、
「鶴は千年、亀は万年」
と言われているが、そこまで生きる動物であれば、
「生きることに疲れて、死にたくなる」
ということもあるかも知れない。
しかし、これはあくまでも、人間が生きる基準として、
「百年未満がちょうどいい」
と思っているだけで、セミのように成虫になってから、1カ月くらいで死んでしまう虫であっても、彼らには
「与えられた寿命」
ということで、決して嫌だとは思っていないに違いない。
鶴や亀でも同じことだろう。
ただ、考えてみれば、数千年も生きるのに、何も楽しみがなければ、辛いだけである。他の動物は寿命に合わせた、彼らなりの、
「時計」
というものを持っているのではないだろうか?
人間にだって体内時計というものがある、
そもそも、一日を基準に、一年、百年という単位は、地球の自転を基準に考えられているものである。地球のように24時間くらいの星もあれば、10時間のところもある、数百時間が一日という星だってあるだろう。
同じ地球であっても、それぞれの動物で感じ方が違っている、
「一日がちょうどいい」
と思っているのは人間だけなのか、他の動物もそう感じた上で、先が見えない寿命をまっとうしようとして、一生懸命に生きているのかも知れない。
「だから、寿命というものは決まっているのだが、それを誰も知ることができないのかも知れない」
それは、人間に限ったことではなく、他の動物や昆虫にも言えることだろう。
ただ、人間であっても、一人一人の時間の感覚は違っている。ただ、一般的に言われていることに変わりなかったりするのは、偶然であろうか?
「年を取るごとに、どんどん、一日一日が短くなっていき、あっという間に一年が過ぎてしまっている」
と言われるが、これはほとんど皆が感じていることのようだ。
それだけ信憑性があるのであって、
「寿命が近づいているという意識があるからだろうか?」
とも、思えるのだ。
人それぞれの寿命は誰にも分からない。
寿命ではなく、事故や病気で死んだ人は、寿命をまっとうしたと言えないだろう。
ただ、その証明はできない。
「その人の寿命はいくつだ?」
ということが分からないからだ。
ひょっとすると、事故で死んだ人が、本当は寿命が明日だったのかも知れない。そもそも、寿命というのは、人生をまっとうして初めて寿命と満たした、大往生だというのだろうが、人間はそれぞれに寿命は違うのだ。
平均すれば、80歳ちょっとくらいなのだろうが、ひょっとすると、150歳まで生きる人もいれば、30歳を超えたあたりで、寿命だったのかも知れない。それは誰も分からないのだから、
「いや、それは間違っている」
とは言えないのだ。
人間の寿命が分からないというのも、本当はそれなりに理由があり、人によって、寿命がバラバラだということを表しているのかも知れない。
逆にいえば、
「病気で死のうが事故で死のうが、その時点がその人の寿命なのだ」
と言っても、間違いではないだろう。何しろ正解などないのだから……。
自殺菌というものが、どのようなものなのか、正直分からない。あくまでも、伝説のようなもので、
「それは、菌のようなものではなく、人の判断力を狂わせる毒のようなものかも知れない」
とも言える。
ただ、菌というものは、毒にも薬にもなるもので、
「ひょっとすると、元は何かの薬を開発するものだったのではないだろうか?」
それを考えると、
「毒を以て毒を制す」
という言葉があるが、それは、片方は、菌なのかも知れない。
実は同じものからの派生型で、どちらも毒だと思っているが、片方は、中和剤だとすれば、この言葉の意味も分かるというものだ。
化学薬品というのは面白いもので、元々、爆弾として開発されたものが、薬として使われたりするではないか、
その一番いい例として、
「ニトログリセリン」
である。
ちょっと揺らしただけで爆発してしまうという、超危険物であるニトログリセリンは、今では、
「心臓病の薬」
として、心臓発作を起こした時、飲ませるという意味で、これも、一種の、
「毒を以て毒を制す」
という言葉と同じではないだろうか?
だから、
「菌」
と呼ばれているものにも、
「病原菌」
のようなものもあれば、
健康にいいとされる薬になる菌だってある。
だから、菌というものを、
「すべて、危険なものだ」
としてしまうのは、もったいないと言えるのではないだろうか?
ひょっとすれば、最近が、
「不治の病」
と言われているものの、特効薬になるかも知れない。
「難病を少しでもなくす」
という意味で、実際に、細菌研究を行っているグループだってたくさんあることであろう。
だから、
「自殺菌」
と呼ばれるものも、本当に菌の一種なのかも知れない。
しかし、
「なぜ、死にたくなるのか?」
という根底を考えてみれば、どんな時に、
「自殺菌が、その効果を発揮するというのか?」
ということを調べていけば、ひょっとすると、自殺菌が効力を発する時は、
「気弱になった人間が、自殺菌を自分から吸い寄せようとしていて、自殺菌がその感情に反応し、人間が一番楽な道を選ぶという効果があるのかも知れない」
と考えると、
「気弱になっていない人に、特に神経質な人が気楽に、楽天的になれるようにするために、この自殺菌を使えないだろうか?」
という研究もできるというものだ。
しかし、一歩間違えると、自殺を誘発してしまうことになるので、臨床実験は、かなり気を付けてする必要があるだろう。
それを思うと、自殺しようとする人を、いかにいさめるかというものも、逆に自殺菌の改良型で、生きようとする力に変えてくれるかも知れない」
と真剣に考えている人もいる。
そもそも、自殺菌なるものが、存在すればの話であるが……。
では、一体、そんな自殺菌なるものが、いつからあるのだろう? 人間が死にたいと思うのは、基本的には、何かに追い詰められ、もう、どうにもならないと思った時だろう。
例えば、借金であったり、他人から脅されている場合、あるいは、図らずも、何かの犯罪に手を染めてしまった場合、さらには、失恋した場合などに、よくあることである。
そして、そんな動機がある中で、自殺をするにも、いろいろな方法がある。
服毒自殺であったり、手首を切る。首吊りなどもあるだろう。
あるいは、ガス中毒によるもの、高いところから、または、電車に飛び込むなどの投身自殺。睡眠薬を致死量だけ、服用する。
などと、さまざまであるが、これは、計画的に自殺をする場合、あるいは、衝動的に行う場合の二種類がある。
ただ、ほとんどの場合が計画的なものになるだろう。衝動的に死のうと思うのは、飛び降りであったり、飛び込みくらいだろう。なぜなら、それ以外には、道具が必要だからだ。
毒にしても、ガスにしても、睡眠薬にしても、リストカットにしても、衝動的にはなかなか考えにくい。あるとすれば、手首を切るくらいであろうか?
しかし、これも、常習性がある場合も多く、よく見ると、手首に、
「ためらい傷」
というものが、いくつもついている人も多いという。
その方法も厄介だったりするものもある。手首を切る場合は、洗面所が浴槽に、お湯か水をためておき、切った手首をそこに浸けておくということをするものだと、テレビドラマなどでやっていた。
最初は、
「何でそんなことをするのだろう?」
と思ったが、考えられることとしては、
「血が飛び散って、汚くなるからだ」
としか思えない。
しかし、本当に死のうと思っているほど追い詰められている人が、死んだあとのことまで考える余裕があるというのか? ひょっとすると、助かった場合のことも考えているのかも知れない。
手首を切っての自殺というと、
「リストカット」
という言葉があるが、これは、必ずしも自殺をする場合だけに限られたものではない。
人間には、
「自傷行為」
というものがあるらしい。
自殺にまでは至らないが、自分を傷つける行為であり、虐待のトラウマであったり、心理的虐待及び摂食障害、低い自尊心や完璧主義と正の相関関係があると考えられている。
自傷行為は自殺とは違うものだ。ハッキリとは分からないが、まわりに気づいてもらいたいなどの何かがあるのではないだろうか?
だから、リストカットの場合に手首を水に浸けるという行為は、ある意味、自殺というよりもむしろ、自傷行為の場合が多いかも知れない。
「自傷行為のつもりが、思ったよりも深く抉ってしまって、死に至ってしまった」
つまりは、
「死ぬつもりなどなかった」
と言えるのかも知れない。
自殺をする場合、その動機によって、あらかじめ、自殺のパターンが決まっているかのように思うのは気のせいだろうか? たまたま、動機によって自殺の方法を思いつく場合は同じだったり、心理状態が似通っていることで、手段も同じだったりするのではないだろうか?
例えば、会社が倒産したりして自殺をする人、借金を抱えて首が回らない人など、イメージとして、工場などの梁に紐を括りつけて、首吊りをしているというイメージが強い。
確かに、道具も少なくて済むというのが一番の理由なのかも知れない。死を選ぶ人の心理は正直分からないので、何とも言えないのではあるが。
他にも、飛び降りなどもあるが、首吊りという先入観は、サスペンスドラマなどの影響だろうか? そう思うと、この思い込みは、かなり自分だけが感じる偏見のようなものに思えて仕方がないのだった。
今度は、死に方について考えてみよう。
いろいろな自殺方法があるが、
「自分が死にたいと思ったとすれば、どれを選ぶだろう?」
と考えてしまう。
昔、大東亜戦争で、日本の敗戦が確実になった時、多くの将校や司令官などが自害したものだが、その多くは、服毒だったり、拳銃でこめかみを打ち抜くものが多かったように思う。
どちらも、今ではほぼ手に入らないものだが、戦時中などは、青酸カリなどは、
「生きて虜囚の辱めをうけず」
という、戦陣訓によることから、捕虜になりそうであれば、青酸カリを服毒するということで、配られたりしたようだ。
拳銃に関しては、軍人の必須装備なので、持っていて当然であろう。
戦時中は、自殺をしようと思えばいくらでも、できるだけのものは、持参していたりしたものだったのだろう。
だが、今の時代は、自殺をさせないように、社会全体が考えているので、自殺に繋がりそうなものは、そう簡単に手に入らない。
リストカットするための、刃物であったり、飛び降り、飛び込みなどは、その場所にいけばいいだけなので、そもそも、道具のいらないものだ、
また、自殺の方法として、もう一つ考えられるものとして、
「富士の樹海」
などという、
「入り込んでしまったら、出られない」
という場所で、人知れずに、服毒をするという人もいるだろう、
しかし、この考えはなかなかうまく行かないということも、結構あったりする。というとりも、自殺を考えるうえで、あまり実用性がないからだ。
ただ、
「死にたい」
「永遠に続くであろう苦しみから逃れたい」
という思いで死を考えるという人もいるだろうが、中には、自分が死んだあとのことを考える人もいる。
つまりは、死体が見つからないと、死んだことがハッキリせず、自分の遺産が宙に浮いてしまう人もいるだろう。そういう人には、
「樹海での自殺」
あるいは、
「自殺の名所」
と言われるような、断崖絶壁から飛び降りるという方法。
どちらにしても、死体が見つかる可能性は低いと言ってもいい。
そんな場所で自殺をするという人は、
「自殺をした」
ということよりも、
「自分というものを殺してしまいたかった」
という意味で、むしろ、
「生きているのではないか?」
と思う方が強いのではないだろうか?
それは、ミステリーやサスペンスなどのトリックに使われるものであり、自分を死んだことにして、そこで何かの暗躍を行ったり、借金取りから逃げていたり、ひょっとすると、何かの事件の容疑者で、警察から逃げている場合などが考えられるだろう。
ただ、これも、表面上は、自分はこの世にいない人間なので、どこまで、自分の正体を隠して、密かに生きることができるかという意味で、
「ひょっとすると、死んだ方がマシだったのではないだろうか?」
と後悔することも多いだろう。
ただ、こういう場合は、自分一人の意思でこのような大それたことは考えない。黒幕であったり、フィクサーのような人物がいて、その人に逆らえない立場であれば、自分ではどうすることもできないことに、後悔では済まないものを、永遠に感じ続けなければいけないに違いない。
そうなると、
「生きていても、死んでいるようなものだ」
ということになり、黒幕が何かを企んでいて、自分はその罠に嵌ってしまったのだと思うと、
「ああ、なぜあの時、一思いに死んでしまわなかったのだろう?」
と考えさせられるに違いない。
もっとも、これもサスペンスドラマで時々出てくるシチュエーションなのだが、実際にどれくらい、今でもこのようなことがあるのか分からない。
他にも自殺する場合、
「どれが一番いいか?」
ということを考えるであろう。
まず、考えることは、
「苦しまずに死ぬにはどうすればいいだろう?」
ということが頭をよぎるだろう。
そして、もう一つ考えることとして、
「確実に死ねる方法」
というのも、頭をよぎるに違いない。
この二つは、意外と矛盾している場合が多く、
「苦しまずに死のうと思うと、実は楽に死ねると思っていることが、実は苦しかったりするものだ」
と考えたりするものだが、一般的に、
「楽かな?」
と思うものとしては、まず、
「リストカット」
を思うであろう。
手首を切る瞬間は痛いが、後は、意識がゆっくりと薄れていくものだろうと考えるからだ。
しかし、実は結構苦しいものだと聞いたことがあった、ショック状態に陥る場合があるからだ。
また、本当に苦しまずに死ねるものとして、
「睡眠薬の服用」
というものが考えられるが、
これも、昔と違って、今は安全な、つまり、簡単に死ねない睡眠薬が増えてきているので、中途半端な服用をすると、死にきれずに、睡眠薬の副作用で、嘔吐などの苦しみを経るだけで、死に至らない場合も多いだろう。
しかも、その場合は、後遺症が残る可能性もある。
そもそも、自殺を思いだって、死のうとしても、死にきれなかった場合に、残るものとしては、まず、
「後遺症の問題」
がある。
痺れが取れないとか、頭痛が慢性的に続くなどという後遺症である。
さらに、自殺しきれずに、苦しんでいるところを誰かが発見し、病院に運ばれ、治療を受けて回復したとしても、その治療費は、基本的に健康保険はきかない。
何と言っても、
「健康」
保険なのである。
死のうとして、死にきれなかった人は、健康を、そして生きることを放棄しようとしたわけであり、保険がきくということにしてしまうと、逆に自殺を煽ることにも、繋がりかねないだろう。
しかも、個人で入っている生命保険も、その会社や特約の内容によっても違うのだろうが、健康保険がきかないのだから、生命保険もきなかいと考えるのが、当たり前であろう。
となると、下手に生き残り、長期療養が必要となると、莫大な金が必要になる。下手をすれば、家族に迷惑をかけてしまうことになりかねないではないか。
そんなことを思うと、自分がどうして死のうと思ったのか、死にたいと思ったのかという根本的な考えが、頭の中から失せてしまうような気がして、おかしな気分になってしまうだろう。
まわりに迷惑をかけるという意味で、死ぬことができたとしても、残された人間を確実に不幸にしてしまうのが、
「飛び込み自殺」
である。
つまりは、電車などに飛び込む場合である。
これは、
「電車の運行を確実に止めてしまう」
ということであり、自殺者が本懐を遂げて、死ぬことができたとしても、それは関係がない。
鉄道会社は、被った迷惑を、遺族に容赦なく、要求してくる。
ただ、この場合、実におかしなことで、
「確かに鉄道会社は、遺族から、賠償金を貰うように請求するが、だが、それはすべて、鉄道会社に行くだけである。
そもそも、鉄道会社の理念は、
「決まった時間に、安全に人やものを送り届ける」
というものではなかっただろうか?
決まった時間に届けることができなかったのであれば、それは鉄道会社の責任であり、本来であれば、一番迷惑を被ったのは、客のはずである。それなのに、賠償金は、すべて鉄道会社が受け取るだけで、客には一切のバックはないだろうから、これほどの理不尽はないのではないだろうか?
そういう意味で、遺族に対してまで、賠償金を請求する鉄道会社は、
「やくざよりもひどい」
と言ってもいいのではないだろうか?
ただ、もしこれを、
「自殺をする人に対しての抑止になればいい」
ということであれば、分からなくもないが、抑止になるということはない。
なぜなら、
「他の方法で死ねばいいだけのこと」
だからである。
「列車に飛び込むのは、後のことを考えるとやめておいた方がいい」
ということで、鉄道自殺の抑止にはなるだろうが、そうなると、さらに、鉄道会社は、露骨に、
「自分たちだけのことしか考えていない」
と言われても仕方がないだろう。
世の中というのは、しょせん、そういうものである。
だから、自殺をしようという人が後を絶たないのだ。
自殺をする人はなぜ自殺をするのか? いろいろ理由はあるだろうが、究極の理由として、
「生きていても、孤独でしかないからだ」
ということになるのだろう。
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