第4話 自殺菌

 そんなことをいろいろ考えているうちに、自殺などというのは、

「実にくだらないことだ」

 と思うようになってきたのだが、秀郷は、自殺がくだらないと思うのと同時に、

「生きているのも、虚しいだけだ」

 とも、思うようになってきた。

「死ぬ」

 ということは、確かに、自分で選べない。

 あくまでも、自殺を否定するという考えに立ってみればのことであるが、秀郷は、ガラシャの場合とは違う意味で、自殺について考えてみた。

 しかし、考えれば考えるほど、考えがまとまらず、どうも同じところをグルグル回っているだけにしか思えなかったのだ。

 つまりは、

「永遠に結論は出ないのではないか?」

 ということである。

「永遠のテーマ」

 だと思っているのだから、それも当たり前のことだが、考えているうちに疲れてきて、次第に考えるのが億劫になってきた。

「だったら、生きるという方から考えるのも、一つではないか?」

 と思えてきた。

「押してもダメなら引いてみな」

 という言葉のような感じである。

 確かに押してみると、何も起こらない。

「じゃあ、引いてみると?」

 と考えると、やはり、何か結論が見えてくる気もしないのだ。

 しかも、死について考えるよりも、生きることについて考える方が漠然としていて、死のように味わったことのないことを考えるよりも、

「生という今実際に味わっていることまで分からないのか?」

 ということが、どうにも解せなかったのだ。

「生きる」

 ということは、どういうことなのか?

 と考えさせられる。

「生きるということは、息をして、食べたくなったら食事をして、眠くなったら眠る」

 ということの繰り返しだとまずは考える。

 いわゆる本能であろう。そして次には、まわりがいることに気づく、親などの肉親、自分に関係のある学校であればクラスメイト、さらに、就職すれば、同僚、さらに年齢差によって、先輩、後輩もできてくる。

 ただ、ここで一つまず浮かんでくる疑問であるが、前述のように、

「生まれることを選べない」

 というのと、

「人間は生まれながら平等だと言われているが、本当なのだろうか?」

 という疑問である。

 要するに、どんな親から生まれるかによって、生まれた瞬間から、金持ち、貧乏人ということで、不平等ではないか?

 民主主義の教育として、

「人間は生まれながらにして平等だ」

 と言われているが、果たして、そうなのだろうか?

 そもそも、民主主義というものの考え方は。

「法律に定められた中での自由競争」

 あるいは、

「何かの決定に多数決を取る」

 というものである。

 法律に定められたという法律というのも、そもそも、国家が、国民を統治していくうえでの法律であり、個人の意思よりも公共の福祉が優先される。

 さらに多数決で決めるということは、少数意見は、まったく切り捨てられるということで、

「これの何が平等だというのか」

 と言いたい人も多いことだろう。

 自由競争にすると、どうなるかというと、

「貧富の差が激しくなる」

 ということであり、つまりは、生まれながらお平等というものを、ことごとく否定する考えが、民主主義ではないかと思えるのだ。

 つまりは、教育で習うことと、実際に起こっていることでは、天と地ほどの差があるのだ。

 社会主義、共産主義という考え方が生まれたのも、

「そんな民主主義の欠点を補う考え方」

 ということで生まれたはずではなかったか。

 ただ、そうなると、すべてを国家が握ることになる、すべてが国営、そのため、頑張った人も、怠けている人も、給料が同じとなると、個人的に大きな差別が生まれてくる。

 もっとも、民主主義でも同じだ。

 会社の同じ部署でも、一人の人に仕事が集中してしまって、肩や、就業時間に遊んでいるような人がいるかと思えば、一人に集中して、毎日会社に泊まり込みなどという人もいたりする。

 それでも、給料が少しは高いかも知れないが、長い目で見れば、集中させられた人は、思い切り損をしていると言ってもいいだろう。

 それを考えると、

「民主主義というのも、何がいいんだか」

 と思うのも無理もないことではないだろうか?

 社会主義も、民主主義も、一長一短であり、どうしても、政府を考えるのか、個人を考えるのかという見方によって、考え方が変わってきて、それによって、結果として、

「埋めることのできない溝ができてしまい、永遠のテーマがここにも出来上がる」

 と言えるだろう。

 そうなると、すべてのことは、

「永遠のテーマ」

 だと言えるのではないだろうか?

 自分が一体、どのような生活をしていけば、この世で生きていけるかというのは、主義によって決まってくるので、

「一人の力なんて、しょせんは知れている」

 ということだろう。

 政府や、領主から搾取されて、クーデターを起こすことも、生きるためという意味では仕方のないことであろうが、成功しても失敗しても、そこには、殺し合いという悲惨な問題が孕んでくる。

 国によって、さまざまな主張もあるので、何とも言えないが、

「戦争や紛争というのも、人類の永遠のテーマの一つ」

 だと言えるのではないだろうか?

 今の世界において、どのように生きていくのか、まったく分からない時代になってきている。

 基本的には、戦争が起これば、まず考えることは戦うということだ。

 戦争というものには、自由は存在しない。

「国家のために戦う」

 ということになるのだろうが、果たして、国家というものが、人が殺し合うほどまでして守らなければいけないものなのだろうか?

 特に今の時代の日本などは、政治家が腐敗しきってしまっていて、自分の保身のために、部下が自殺をしても、

「私には関係がない」

 と言ってほざいていた、元ソーリもいたではないか。

「もし私にやましいことがあったら、ソーリどころか、国会議員も辞める」

 ほざいたことで、その責任を押し付けられて、自殺に追い込まれた人である。

 その奥さんが、

「証拠だ」

 と言って提出した故人のノートも政府に、

「すでに解決済み」

 ということで握りしめられる状況で、他の議員も、誰もがその元ソーリに逆らえないことをいいことに、病院に逃げ込んで、

「私は病気だ」

 と言って、ソーリを投げ出しておきながら、今また、ほとぼりが冷めたと思ったのか、のこのこ出てきているような、そんな腐った国である。

 それはさておき、今の時代、何が怖いかということであるが、順位をつけるのは、難しいのかも知れないが。

「不安」

 というのが、かなり上に位置しているのではないかと思うのは、無理もないことのように思える。

 不安というと、たくさんある。

 お金に対しての不安、まわりの人が自分のことをどう感じているかという不安、つまりは、不安の元凶として、

「自分一人でこの世が成り立っているわけではない」

 という当たり前のことであった。

 確かに、前述のように、まわりには幾層にもなった関係の人がたくさんいて、家族親族から、友達や利害関係者、そして、まったくの第三者であるが、自分の生活範囲内にいる他の人、そして、生活範囲内にいない、その他大勢の人、いつどのようにかかわってくるか分からないという意味で、どこまでが、意識すべき人なのか分からなくなることがある。

 少なくとも、利害関係にある人間までは、その範囲内だと言ってもいいだろう。

 そうなると、相手が増えれば増えるほど、争いの元になったり、その争いの元が自分だったりということもある。

 一番怖いのが、

「争いの元になっているのが、自分なのだということを知らずに、まるで他人事のようにしているのを、まわりが冷めた目で見てしまうこと」

 なのではないかと思うのだった。

 争いというのは、どの程度のものかというのも、大きな問題なのではないかと思うのだが、ちょっとした意見の違いで、自分に近しい人であれば、お互いが分かり合えた時、それぞれに、

「成長した」

 ということで、プラスになることもあるだろう。

 しかし、そんなことは、限りなくゼロに近い。

 もし成長したのだと思ったとしても、それが勘違いであったり、その思いに多少の個人差が生じてくれば、

「それは、今度は新たな争いの火種になっているのかも知れない」

 と感じるのだ。

「一つを解決しても、そこにすぐに新たな火種が生まれるかも知れない」

 この考えが、次第に大きくなってきて、

「結局、永遠のテーマというのは、一つが解決しても、新たに別のものがすぐに生まれてくるようなものではないか?」

 ということで、たとえとしては違うがイメージとして、

「まるで、トカゲが尻尾を切られても、また生えてくるかのようなもので、永遠にとどまるところを知らない」

 というものではないだろうか?

 ただ、永遠という意味では同じであり、どこまで言っても、

「交わることのない平行線」

 を描いていることになるのかも知れない。

 その平行線というのは、見えてくるわけではない。

 実際にその延長線上の中央から両方の線を見ていると、どんどん近づいてきているのだ。しかし、その先には、

「どこかで重なる」

 というようにしか見えない。

 何しろ、近づいて見えているわけだからである。しかし、平行線なのだから、永遠に交わることはない。

 ということは、その矛盾を解決するための言い訳としては。

「限りなくゼロに近いところまでは接近するが、決して交わることはない」

 という苦し紛れの考え方になる。

 それは、整数を整数で割った場合には、

「限りなくゼロに近づきはするが、ゼロにもマイナスにもならない」

 という理論である。

 これが、目の錯覚と、平行線が交わることはないという二つの問題を一気に解決してくれるものである。

 そういう意味で考えると、数学という学問は、倫理や、社会的な通念に関しての回答も含んでいるのだとすれば、それは結構すごいことである。

 これは数学がすごいのか、数字というものそのものがすごいのか、考えてしまう。しかし、数字のすごさは何であっても揺るぎのないものだと思うのは、秀郷だけではないだろう。

 自殺をする人間の動機を考えてみた。それは、

「どうして死ななければならないのか?」

 というよりも、

「どうして、死にたいと思うのか?」

 ということの方が、問題ではないかと思うのだ。

 死にたくなるほどの理由があるのであれば、その根本的な問題が解決しなければ、問題は解決しない。

 しかし、どうして死にたくなるのか? ということを考えてみると、一つ、面白いことを言っていた人がいた。秀郷もその考えに賛成なのだが、

「人が自殺したいような不幸を感じた時、死にたくなるように仕向ける菌のようなものがある」

 という考えであった。

 似た考えとしては、

「死神」

 という発想に近いものであった。

 ただ、死神の場合は、寿命というものを分かっていて、死が迫ってい人の近くに出るだけで、実は、死に近づいている人の足を引っ張って、死の世界に引きずり込もうとしているのではないと思うのだ。

 その点、自殺菌は、

「死にたいと思っている人の気持ちに取りついて、

「死ぬと楽になれる」

 などと惑わせることで、人が死ぬことを煽っているのではないだろうか?

 きっと死神は、約束事として、

「己の力を用いて、人を死ぬ方向に導くことは許されない」

 と考えると、たまたま、死にそうな人間を分かっているので、近くにいるだけで、ひょっとすると、

「死の世界への使者」

 のようなものなのかも知れない。

 それを思うと、

「まるで、座敷わらしと正反対ではないか?」

 と言えるのではないだろうか?

 座敷わらしというのは、居間の床の間にいる子供の妖怪で、その妖怪が見える時は、その家は繁栄する。

 しかし、その妖怪がいなくなったり、見えなくなると、その家は没落してしまうというのが、座敷わらしの伝説であった。

 死神は、

「見てしまうと誰かが死ぬことになる」

 と言えば恐ろしいが、それは寿命の人だけであり、本当は死ぬ意思もない人間を死の世界に誘い込むというのは、都市伝説か、エンターテイメント性を持たせるためのものなのかも知れない。

 となれば、

「死神がいれば、死ななくていい人が死ぬことになる」

 と言われれば、死神とすれば、いい迷惑である。

 そういう意味でいえば、前述のドッペルゲンガーの方が、悪の妖怪と言えるのではないか?

 そもそも、ドッペルゲンガーは妖怪と言っていいのかどうか、問題であるが、その正体は、

「もう一人の自分」

 なのである。

 言われていることとしては、

「ドッペルゲンガーを見てしまうと、近い将来、死ぬことになる」

 と言われていることである。

 こちらは、妖怪というよりも、予知能力の類ではないかと思われる。

 というのは、ドッペルゲンガーを見ると、死ぬと言われていることとして、かつての著名人が自分のドッペルゲンガーを見たことで、死に至ったという逸話がたくさん残っているからである。

 しかも、信憑性のある形の話が残っているのである。

 芥川龍之介であったり、リンカーンであったりが、自身のドッペルゲンガーを見ている。

 これは他人から見られた場合にもドッペルゲンガーの伝説は生きているようで、一度に。40人の人から、自分と同じ人を目撃したと言われたという話も残っているだっや。

 つまり、

「ドッペルゲンガーの方がよほど、死神に近いではないか?」

 と言えるかもしれない。

 昔からあった、妖怪マンガの中で死神が出てくるが、マンガの世界の死神というのは、結構コミカルに描かれている。

 そもそも、妖怪を恐ろしく描くと、子供向けのマンガにならないということで、コミカルに描かれた妖怪マンガで、そこに出てくる死神というのは、まるで人間世界の営業職のような妖怪だった。

 閻魔大王から、ノルマが与えられ、例えば、

「一週間で、10人の魂を連れてこないと、バツを与える」

 などという、厳しいノルマがあったりする。

 死神は、そのノルマを果たすために、バスを事故に見せかけて、転落させ、集団で死人を作り、その魂を地獄に送り込もうとしたのだった。

 そもそも、地獄行きの人間というのは、芥川龍之介の、

「蜘蛛の糸」

 に書かれているように、この世で、悪さをした人が、閻魔大王の裁きによって、地獄に堕ちるかどうかが決まるというものだ。

 いくら閻魔大王が、地獄の番人であるとはいえ、事故に見せかけて人を亡き者にしてまで、霊魂を地獄に送り込んでいいわけではない。

 そもそも、死んでから、

「その人たちすべてが、地獄行きなのか?」

 ということになるのである。

 全員が地獄行きであれば、死神が何かの手段を使って、そのバスを地獄行きの人だけが乗るバスということにしたとして、果たして、全員が本当に地獄行きなのだろうか? 運転手などは、どうなるのだろう?

 もし、運転手が助かるということにしたとしても、生き残った場合に、事故の責任を取らされることになり、下手をすれば、

「生き残った方が地獄だ」

 という思いをしなければならない。

 そう、運転手は事故を起こした時点で、

「もう、人生としては、終わってしまったも同然なのだ」

 と言ってもいいだろう。

 ということは、

「事故を起こして集団で人を殺すということは、いくら閻魔大王から指令が出たとしてもしてはいけないこと」

 なのである。

 最後はどういう形で事件を解決したのか忘れてしまったが、たぶんマンガの世界としては、死神をやっつけることで、その野望をくじくというものだったはずだが、その時、死神は逃げてしまうのだ。

 考えてみれば、

「妖怪はしなない」

 のだ。

 退治すると言って、どうするのだろう?

 昔からの逸話などでは、魔法を使って封印し、どこか山奥にでも、埋めてしまうという話が一般的だが、そのマンガの死神は逃げ回って、まるで、準主役でもあるかのように、ちょっとした場合に出てきたりする。

「きっとマンガ家が、ネタに詰まった時の切り札として、死神のようなマンガの世界では、少し憎めないタイプの妖怪を生かしておいているのだろう?」

 と思うのだった。

 確かに死神は、バスを転落させるかのような悪だくみをした悪党として描かれているのだが、死神は、別に、

「悪いことをしている」

 という意識がない。

 それは、まるで、人間界でも同じことで、人の命令で自分が困ってしまうと、死神のようなことを考える人間だっていないとは限らない。自分にその力がないだけで、力さえあれば、

「自分のために、誰かを犠牲にしてでも助かるというのは、悪いことではない」

 と、人間というのは、自分を正当化させるだけの理屈を思いつくのが、他の動物に比べて実に長けている。

 他の動物にはできないことなのかも知れない。

 そんな中で、死神やドッペルゲンガーとは少し考え方が違うが、ある意味、もう少し、科学的な考えではないかと思えるものがあった。

 それは、

「自殺菌」

 という考えで、一種のウイルスのようなものである。

 これは先生病のようなもので、そもそも、自殺を考えるということを、

「一種の病気なのではないか?」

 という考えが一番強くてしかるべきだと思えるのに、それを言い出す人が少ないのではないだろうか?

 それを思うと、ドッペルゲンガーのような怪奇現象に近い話も、ひょっとすると、この、

「自殺菌」

 なるものの影響なのかも知れない。

 病を及ぼすウイルスであれば、人に幻を見せることもあるだろう。人がフラフラと電車に飛び込む時や、眩暈を起こしたように、崖の上から急に飛び降りる人は、まるで。

「何かに操られているようだった」

 というではないか。

 だから、

「死神」

 というのを想像したのだろうが、いわゆる妖怪の世界の死神というのは、

「死の世界への案内人」

 というだけで、自分のノルマのために、人を殺めるなどということは絶対にしないはずである、

 それこそバレれば、どんなバツが待っているか分からないというものだ。

 地獄には、地獄のルールがある、そのルールを守らなければいけない。特に、そのルールは厳しいものだろう

 となると、地獄への案内という重要な役目がある妖怪に、厳しいノルマを負わせるというのもおかしな話である。

 そもそも、

「地獄で一番偉いのは閻魔大王なのだが、閻魔大王よりも偉いものがいないのか?

 と考えれば、

「地獄にはいないかも知れないが、他の世界にはいるのではないだろうか?」

 と言われる。

 その人が閻魔大王を見張っていて、

「地獄のルール」

 を破るようなら、閻魔大王を更迭し、違うものを、地獄の番人にすることだろう。

 閻魔大王も、自分の仕事を奪われては大変だ。それこそ、必死になって、地獄のルールを守るに違いない。

 しかし、

「自殺菌」

 というのは、そうではない。

 どのようなウイルスなのかは分からないが、他のウイルスと同じだとすれば、感情も何も持っているわけではない。誰かが何かの目的で作ったのだろうが、「

万能の神」

 と呼ばれている中の一人に違いないだろう。

 それでは、なぜそんなウイルスを作ったというのだろう?

 そもそも、人間社会には、無数のウイルスが存在している。もちろん、菌と呼ばれるものも含めてのことだが、ウイルスは基本的に、

「人間に対して、何か悪いことを及ぼすものだ」

 というのが、多い。

 伝染病にしても、そうだ。

 インフルエンザであったり、かつて流行した、結核、コレラ、チフスなどは、いわゆるところの、

「病原菌」

 というものだ。

 中には、変異して、どんどん強くなってくるもの、あるいは弱くなってくるものとさまざまであるが、ただ、すべてが、人間のために、悪影響になるものだけではない。

 中には、ビフィズス菌であったり、ナットウキナーゼのような健康食品であったり、キノコのように、毒があるものは別にして、食料として、貴重なものもたくさんあるのも事実である。

 だが、自殺菌は明らかに悪玉菌であり、今はその正体を知っている人はほとんどおらず、知っているとしても、

「都市伝説の類」

 としてでしかないだろう。

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