010 願い
橘は言葉を失った。まだ幼稚園の年齢に過ぎないこの子が、身をていして兄弟を守ろうとしていることに、彼は心の底からおどろいた。
「だから、ぼくね、神さま、に、まいにち、ずうっと、おねがい、してたんだ――」
「何を?」
「だれよりも、強く、なれます、ようにって――」
「――」
「おとうとも、いもうとも、戦わ、なくて、すみます、ようにって――」
「――」
「そしたらね、きのう、おじさんが、たちばなさんが、来たの――」
それはたんなる偶然だ。そうノドまで出かかった言葉を橘は飲みこんだ。
「だからってお前、こんな
「だって、おひゃくど、だから――」
「――?」
「とちゅうで、やめちゃ、ダメ、だから――」
「――」
「やめたら、きっと――、おじさん、かえっちゃう、から――」
「――」
「だからね、かぜひいても、やめちゃ、ダメだって、思った――」
「――」
橘はその言葉に胸をつかれた。熱くてしめった何かが、鼻の奥でツンとうずくのを感じた。
こんなに幼い子供が戦う覚悟をしているのに、自分は彼らから逃げ出そうとしていた。そのことが今は無性に恥ずかしかった。
「帰るもんか」
言葉が、橘の口をついて自然にこぼれた。
「ほん、とう?」
「ああ、本当だ」
「やく、そく、やくそくだよ――」
「約束だ」
「うん、やくそく。ゆーびきーり、げーんまん――」
ハルアキが右手の小指を橘に突き出そうとした。が、それはかなわずにその手がぱたりと落ちた。
「おい! しっかりしろ! おい!」
橘は自分の声がうわずっていくのを感じた。
ハルアキの息づかいはどんどん荒くなっている。
橘は焦った。だが左足をかばいながらではこれ以上速くは歩けない。
橘は思いきって左足を地面についてみた。その瞬間、足先から脳天までを鋭い痛みが突きぬけた。医者の言葉が頭をよぎる。
――最低一ヶ月は無理をしないでください。無理をすれば最悪、一生松葉杖なしでは歩けなくなるかもしれません――
だからどうしたと言うのだ、と橘は思った。
この子が助かるのなら、足の一本ぐらいくれてやる。もう飛べなくても、走れなくなってもかまわない――。
橘は、松葉杖と左足を同時に地面について歩き出した。
足をつく度にズキズキと鋭い痛みが走ったが、歩くスピードは前よりマシになりそうだった。二歩、三歩と足を進める。
これならいける。そう思ったときに地面の石に足を取られ、橘は勢いよく前方に転んでしまった。
必死になって地面に手を突き立てたので、幸いにもハルアキにケガを負わせることはなかった。しかし松葉杖はどこかへ飛んでいってしまった。
杖なしには身体を起こすこともできない。橘は地面をはいずって杖が放り出された方へ近づこうとした。
そのとき橘の耳に、遠くからパタパタと路面を打つ足音が聞こえてきた。
身をよじってそちらに目を向けると、そこには美沙の姿があった。
「橘くん!」
彼女は部屋にいないハルアキを心配して探しに出たようだった。
橘は心の底からホッとした。
「この子を早く!」地面に倒れたままの橘が叫んだ。
美沙が転がった杖を拾い、橘に駆けよった。
「いったい何が――?」
「朝から一人でお百度を踏みに来ていたようです。たまたま私が見つけました」
「お百度って――」美沙がそう言いかけ、急に納得した表情になった。
「くわしい話は後です。早くこの子を――」
「わかった」
美沙は橘に杖を渡し、かわりにハルアキを受け取っておぶった。
「神社で倒れてたので頭を打ってるかもしれません。揺らさないように運んでください」
「うん。大丈夫。橘くんはゆっくり来てね」
美沙はハルアキを背負って歩き出した。きれいなすり足の歩き方だった。
美沙は肩の位置をほとんど上下させないまま歩いていく。そのまま彼女は歩く速度を上げた。すり足の早歩きに思えたが、そのスピードは人間が普通に走っているのとほとんど変わらないものだった。
橘は舌を巻いた。口では現役じゃないと言っていたものの、美沙は今でも鍛錬を続けているのかもしれない。子供たちをまもるために。
橘が保養所に帰ると「医務室」と書かれた部屋に明かりがついていた。
ノックして入ると、ベッドに寝かされたハルアキの横で美沙が体温計をながめているところだった。
「熱はゆうべとそれほど変わってないみたい。頭の方も特に外傷は無いみたいだから、今のところ大丈夫だと思うわ」
「よかった」
橘は心の中でホッと胸をなでおろした。
「――ところで、くわしい話を聞かせてもらえる?」
橘は美沙に、今朝からの出来事を順を追って説明した。
保養所内に突然あらわれた謎の女のことについてもふれざるを得なかったが、妻に似ていると思ったことまでは口に出さなかった。
「なるほど。大体わかったわ。ありがとうね。
「いえ、偶然です。あの女性があらわれなければ私も神社には行ってなかったでしょう」
「不思議なこともあるものね――」
「ほんとうに――。しかしあの女性は侵入者ではなかったのでしょうか?」
「敷地の四隅の結界符にも特に反応はなかったわ。あの時間ここに入ってきた人間は誰もいないはずなのよ」
「ということは、私の見まちがいでしょうか」
「――」と美沙はしばらく押し黙り、ハルアキの様子をうかがった。
荒かった息はすこしおさまり、今は静かに寝息を立てているようすだ。
しばらくそれを確認したあと、美沙はすこし小声になってから話を続けた。
「実はね。この子たちの母親になった人のうち、予後が悪くて亡くなった方が二人ほどいらっしゃるそうなの」
「――」
「もちろん守秘義務があるから、誰の母親かってところまではわからないんだけど」
「――」
「もしかしたらそのうちの一人が
そういうのを信じるほうですか、とは聞かなかった。なにしろ橘も美沙も「霊安室」の人間なのだ。
「何か、温かいものをいれてくるわね」
そう言い残して美沙は医務室を出ていった。
改めてハルアキの寝顔をながめる。相変わらず
この小さな
ドアが開き、甘酸っぱい発酵臭が橘の
「甘酒だけど、よかった?」
美沙がお盆を手にしている。盆の上には湯飲みが二つ湯気を立てていた。
「いただきます」といって片方を受け取る。一口すするとその温かさと甘さに、寒さでこわばっていた全身がほどけていくように感じた。
「お百度――何を願っていたのか、聞かないのですね」橘が疑問を口に出した。
「ああ――。おおかた、弟や妹を戦わせないでほしい、とかでしょ――」
「わかるのですか?」橘は驚いて眉を上げた。
「わかるわよ。これでもいちおう母親ですもの」
美沙が湯飲みを手にして優しくほほえんだ。
「――ううん――ううん―」
ベッドのハルアキが声を出した。甘酒のにおいに鼻を刺激されたのか、半分目が覚めてきているようだ。
「――おじ、さん――」目を閉じたままでハルアキがうわ言をつぶやく。
「なんだ」橘が応じた。
「やく――そく――ぜったい――」
「ああ」
「何を約束したの?」と美沙が不思議そうにたずねた。
「すみません。またお伝えできてませんでしたね」
「――?」
「――担当官の件、お引き受けしようと思います」
美沙が目を大きく見開いて、次の瞬間に目を細めた。
「ほんとうに――?」
「はい。よろしくお願いします」橘は短く頭を下げた。
「こちらこそよ。ありがとう――ほんとうに、ありがとうね」
橘には、美沙の目が少しうるんだように見えた。
美沙から目をそらして橘は続けた。
「しかし子供たちの方は、私になついてくれるものでしょうか」
「大丈夫よ。時間はちょっとだけ、かかるかもしれないけど」
橘は、昨日の昼と夕食の時に感じた彼らの冷ややかな目線を思い出した。
「でも彼らは、なぜか私を警戒しているようですし」
「どうしてかしらね――」と、美沙が考え込む。
「――うぅん――」
そのとき再びハルアキのうわ言が聞こえてきた。
何か意味のある言葉をつぶやいているようだ。
「――くつ――おじ、さんの――くつの、そこ――」
「靴、底? 靴がどうかしたのか?」
「待って」
美沙が座ったままの橘の左足を持ち上げた。橘があわてる。
彼女は橘の靴を強引に脱がせて、その靴底を机の角に打ちつけた。
カパン、という音を立てて靴のかかとがきれいに外れた。
中から出てきたのは、暗器としても用いられる小型のナイフだった。
「橘くん――。こ、れ、は?」
美沙がななめに顔をかたむけ、笑顔でたずねた。
笑顔だが、目が笑っていない。
昨日の美沙の言葉が橘の頭をよぎった。
――あの子たち、どういうわけか、武器のにおいに敏感なのよ。持ってる人を見るとすごく警戒しちゃうみたい――
「ち、違うんです。この靴は昔の同僚の形見で――」
橘があわてて弁解する。
――迫田、お前。いくら用意周到でも、こいつは――
美沙がわざとらしく大きなため息をつき、それから破顔した。
橘もつられて苦笑する。
「これ、どこかにしまっておいていい?」
美沙がナイフをぷらぷらさせた。
「はい。ついでにこれの処分もお願いできますか? 自分だと捨てるふんぎりがつかなそうで――」
橘はタバコと
そのときふと、橘の頭の中に妻の顔が浮かんだ。
彼女の顔は、彼に向けてやわらかくほほえんでいるように思えた。
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