四、長所と調査

私の長所 SIDE麻生花純①

 思考実験。

 そのワードを手掛かりに本を探してみる。帰り道の途中で寄った駅前の本屋さん。なかなか大きくて品揃えがいいから私は好きだ。書籍検索機に「思考実験」と打ち込んで見つけたBLUE BACKSの本。

『思考実験 科学が生まれるとき』

 そんな本を一冊、手に取る。

「全宇宙を1個のバケツだと考えてみたらどうだろう?」

 物理の授業で先生が言っていたのと同じ条件だ。

 と、いうことはこれと同じ命題で考えられた思考実験があるということだ。私は本をレジカウンターまで持っていくと、受験期に入って貯まりっぱなしのお小遣いを使って本を買った。急いで……本当に大急ぎで家に帰って、本の内容に目を通す。

 やっぱり。

「宇宙全体をバケツと捉える」実験はマッハという学者が検討した研究のようだ。大雑把に、私なりに解釈をしてみると。

「アイザック・ニュートンという学者は『物質が存在するより前から存在する、変化のない無限に広がる静止空間』、いわゆる『絶対空間』というものを提唱した。これを証明するために行った『ニュートンのバケツ』という思考実験がある。この時のバケツの厚みをどこまでも厚くしていく場合の極限、すなわち、宇宙全体が大きなバケツという条件で思考実験を行ったマッハという学者がおり、この『どこまでも厚いバケツで行ったニュートンのバケツ実験』を『マッハのバケツ』と呼ぶ」

 この思考実験の詳細は省くが要するに思考実験とはこういうことだ。


 仮説を立証していく過程の最後に当たる「実験」を実際には行わず、頭の中で「原因+法則」の結果を想像し導かれた結果に置き換える。


 難しいことはない。頭の中で仮定した条件で想像してものを動かしてみる、それだけのことだ。「思考実験」の示す言葉以上のものはない。ただ……。

 想像上の検証なので、物理面の障壁が一切取り除かれる。「マッハのバケツ」のように、極端な、極限的な条件での実験が可能になる。

 そういう「実験」である。

 

 では、「ツリーハウス殺人事件」で思考実験を行うとどうなるか。

 まず、結果を考えてみよう。

 仮にとてつもなく高いところから、例えば地球の重力が作用し得る高さかつ常識的な範囲の「犯人」が存在し得る極限の場所から(仮にこれを成層圏とする。酸素がなくなると『常識的な』犯人は息ができない)真崎さんを落としたとしよう。この時真崎さんの体はどうなるか。

 ……簡単に物理方程式を解いたが落下速度は音速(340m/s)を超える。こんな速度で地表とぶつかったら文字通りバラバラというか、トマトを壁に投げつけたみたいに原型を留めないレベルのぐしゃぐしゃになるだろう。もしかしたら空気との摩擦で灰も残らないかもしれない。しかし真崎さんの遺体はそうなっていない。成層圏からの落下ではない。

 ……こんな当たり前のことを考えてどうする? 

 私が考えたいのは「真崎さんはどのくらいの高さから落下したのか?」であってこんな極限状態のことを考えるわけじゃ……。

 いやいや、「あり得ない」ことが分かっただけでも前進だ。もっと考えてみよう。

 上限を検証したのだから下限を検討してみよう。一ミリの高さから落下して人体が損傷する場合は考えにくいが転倒して怪我することは十分に考え得る。身長、つまり一メートルと少しの高さにあるものが地面に当たれば損傷する、という場合は十分に考えられる。

 では一メートルの高さから人体が落下した場合のエネルギーを検証しよう。仮に、真崎さんの体重を五十キロとした場合……。

 簡単に物理方程式を解いてみる。それから、人体が耐え得る衝撃についてGoogleで調べてみる。いくつかのサイトを当たって人体が大きく損傷するレベルの衝撃を調べ、私が先ほど導いた物理方程式から衝撃エネルギーを計算してみると……。

 ――十分だ。一メートルの高さから落ちた衝撃でも十分に死に得る。特に頭を強打した場合。脳挫傷で死に至る。真崎さんは頭を打ちつけて死んだことは各社の報道、そして私が現場を見た限りでも明らかだ。少なくとも一メートル以上の高さから落とせば、人は、真崎さんは、死ぬことになる。

 うーむ。一メートルの高さの場所。

 つまりツリーハウスの屋根より低い位置から落としたとしても人は死ぬ。意外だな。もっと高いところから落ちたかと思った。

 下限をここだと仮定しよう。最低でも一メートルの高さから――それも頭から、ないしは背面から落下すれば人は死ぬ。ここで現場を、やぐら及びツリーハウスの周辺環境を、検証する。

 一メートル程度の高さに足場になるような場所はない。楡の木の枝もツリーハウス建設時に取り払ったのかどの枝もツリーハウスよりも高い場所にしかない。櫓から一メートルの高さにあるのはツリーハウスの壁。せいぜい壁面の凹みやでっぱりに手や足をかけてつかまることができる程度で、到底そこに居座ったり、ましてやそこから人を投げるなんてことは考えられない。一メートルより高くすればツリーハウスの屋根やバルコニー、それに楡の木の枝など高所はある。

 仮に「一メートル前後の高さから落ちた」ことにのみこだわると、例えば櫓の上で、体格のいい男性が真崎さんを高く持ち上げ、床に叩きつければ死のエネルギーとしては十分である。うーん。体格のいい男性。

 私たちは高校生。大人よりも体つきがしっかりしてる男子だってたくさんいる。特にラグビー部とか、柔道部とか、そのあたりの部活の男子は人を押し飛ばしたり投げ飛ばしたりするのにも慣れているだろう。ではそうした人たちが真崎さんの命を奪った? どうして? 

 ……いやいや、この検討はやめておこう。私は銀島くんを思い出した。動機とか、犯人とか、そういう「人」に関わることは秀平あいつが解決してくれる。そう、あいつが……あの馬鹿。

 私は頭の中からあいつの笑顔を追い払って思考を続ける。どれくらいの体格の人なら真崎さんを投げ落とせるだろう? 仮に真崎さんの体重を五十キロだとしてこれを軽々持ち上げられるのは……いや、真崎さんだって抵抗はするだろう。暴れる女子を持ち上げて地面に叩きつける。かなりの筋力を持っていることが想定されるし、きっと真崎さんの体にも抵抗の跡が残るだろう。だが私が現場で……あの冬荻祭の朝見た彼女の遺体には乱暴された形跡は見当たらなかった。いや、私が細部まで見切れていないだけ……? ううん、ばらりと綺麗に広がった髪、ペタッと広がったスカート、あれは多分、形跡だ。無造作に転がれば如何に長い髪でも方向性を持つはず。いや、繊維が細かい髪はもしかしたら綺麗に広がるかもしれないが、スカート。スカートをあんな風に広げようと思ったらどう考えても人の手がいる。乱暴に叩きつけたわけじゃない。いやもちろん、乱暴に叩きつけた後に綺麗にスカートを戻したことも考えられるけど、そんな手間を取るくらいなら最初から綺麗に殺せる手を取るはずだ。

 となると担ぎ上げて叩きつけたパターンは却下。必然高所から、突き落とすなりの手段を取って落としたことになる。でもどこから? 最低でも一メートルの高さ、高所から落とす。手近にある高いところはツリーハウスか楡の木の枝。しかしそれらは現場になった櫓から五メートルは離れている。

 そうだ、例えば。

 ツリーハウスのどこかから投げ込んでみてはどうだろう。いや、あるいは。横方向の力が加わった状態で落下すれば斜めに落ち、着地点が櫓の上ということもあり得るだろう。

 私は再び方程式を解く。人が人を突き飛ばしたエネルギーを仮定して、五メートルの距離を五十キロの人間が落下しながら移動するのに必要な高さを算出しようとする。

 しばらくああでもないこうでもないと考えた。これ多分、ちゃんと解こうと思ったら専門的な物理学と数学の知識が必要だ。でも近似値は出せるはず。少なくとも概算でいい。どうにか……。

 やがて導き出した数字は、校舎や一般的な家屋のものを遥かに超える、十階建て以上の大きなマンションと同じくらいの高さだった。如何に楡の木が高かろうともこんな高さは出ない。不可能だ……。

 壁に当たったことになる。高い壁、越えられない壁。

 悔しくなる。悲しくなる。やっぱり私じゃ無理なのかな。秀平の、あいつの力になるなんてこと、不可能なのかな。

 でも……。

 私は目元を擦る。こんなところで止まってはいられない。

 情報だ。データが要る。

 私は考えた。どうにか現場となった櫓から情報を得る方法を。できれば現場に入る方法を。いや、そこまでいかなくてもどうにか警察の情報を得る方法を。

 そこで思い出す。

 銀島くん、そういえば……。

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