二、事件が起こってからとそれまで
事件が起こる SIDE麻生花純
文化祭当日の朝、土曜日の朝七時。学校の開門と同時にツリーハウスの前に行った私はため息をついた。夏頃に比べてかなり涼しくはなっていたものの、まだ吐く息が白くなるには早い。でも何故か白い息を吐いたような気持ちになる。ほうっ、と肺の底から漏れた息で手を擦る。秋の朝は少し肌寒い。
「この学校で、いろいろなことを経験してきたなぁ……」
ふと、三年間を振り返る。好きなことを好きなだけ勉強した三年間だった。私の「オスカー・ハインリッヒみたいな科学捜査に携わる人間になりたい」という夢に向かって、ただひたすらに走る三年間だった。途中色々あったけど……いや、本当に。
朝イチの……本当に朝一番の学校にはまだ誰もいない。今この時間だけは、私がここを、独り占め。贅沢かな。でも私は間違いなく
何か、においがあった。それは錆のような……鉄のにおいだった。私の背中に「何か」が走った。私はその「何か」が気になった。気になったから、私は数歩前に出ると、ツリーハウスの前に設置された
赤黒い、染み。
それはグラウンドの砂の上にあった。ペンキか何かが固まったような、砂に染みた鉄鯖。そんな印象だった。だが如何に櫓が古い木材を使っているからといって、こんなのが足元に溜まるわけがない。私はすぐに違和感を覚えて上を見た。そして、あった。頭上……櫓の床板の裏にも、赤い染み。
総毛立つ。危険を知らせる何かが電気信号を放っている。だが私は、その異変に近づくことを選んだ。櫓をぐるりと回り込んで、裏手の、ツリーハウスと櫓の間に設置された登壇用の階段を使って、ゆっくりと上にのぼっていく。
やがて私は、それを見つけた。最初は、パニックのあまり声も出なかった。
時宗院高校文化祭、通称冬荻祭の目玉、ツリーハウスフェス。
その舞台となる櫓の上に、それはあった。
目は虚空を見つめていて、髪の毛はバラリと広がっていて、くたっと力のなくなった四肢があって……。
制服。
制服を着ている。
スカートが、ペタッと広がっていた。
時宗院高校女子生徒の死体がそこにはあった。声は遅れて出てきた。それは悲鳴のような甲高いものではなく、震えて怯えた、哀れで無力なため息だった。えっ、誰? 何この人。やがてその倒れている人が、あのツーピースバンド「ギャングエイジ」の
「だっ、誰か……」
「んー?」
と、一人の人影がツリーハウスの中から出てきた。ぐいっと伸びをして眠たそうなその人を見て、今度こそ私は声を上げた。びっくりした、現実を拒否するような声。
「しゅ、秀平?」
時宗院高校三年七組。
先崎秀平が、ツリーハウスの中から出てきたのだ。
そして彼も、見つけた。
櫓の上に横たわっている、哀れな女の子の死体……。
それから私と同じことを思ったらしい。
「ギャングエイジの……?」
私は彼につられてもう一度死体を見る。
後頭部で弾けた血。虚ろな目。伸びた体。それは間違いなく、高いところから落下したことを示している気がした。少なくとも床面に頭を打ちつけて死んだのは確かだ。そして彼女の胸元を見た。白くて細い手がそっと添えられてあって、その下には……紙が数枚、置かれていた。
私は少し近づいてそれを見つめた。五線譜……? つまり、楽譜?
『ずっと隣になんてもう言わない』
楽譜タイトルにはそうあった。作詞作曲、
知らない曲だった。真崎さんの手にあって、作者が新津くんということはギャングエイジの曲だ。でも知らない。だから、そう、もしかしたら……。
ギャングエイジの、新曲?
「おいおいおいおい……」
秀平が声を上げる。
「なんじゃこりゃあ?」
そ、そんな。私だって何か分からないよ。私がおろおろしていると、秀平は一歩近づいてつぶやいた。
「何かの演出か?」
私は肯定も否定もしない。現時点じゃ分からないからだ。でも、多分、もしかしたら。
これがもし本物の死体だとしたら、高いところから落ちてこの傷を負うのは、想像できる。現に血飛沫は床に広がっている。後頭部から円を描くように。つまり、何者かに殴られてついた怪我ではなさそうということだった。少なくとも殴られたのなら床面にこれほど大規模に血飛沫が散ったりしない。出血ポイントは明らかに床と接している後頭部だった。ここでインパクトがあり、その衝撃で頭蓋骨が破損、脳にダメージが入り死亡、そういう順番のはずだった。少なくともそう見てとることは可能だった! さっき私が櫓床面の裏に見た赤黒い染みはこの血が滲んだものだろう。
しかし、となると……。
私は震えてつぶやいた。
「ど、どこから、落ちたんだろ」
「……どこから?」
寝ぼけたような顔をしている秀平に私は頭上を示す。どこまでも広い空。霞んだ空。爽やかな、朝の空。
「上、何もないのに……」
さて、こうして。
時宗院高校、ツリーハウス殺人事件……通称、「堕ちてきた天使」事件は幕を上げた。しかし私たちには、考慮すべき問題がひとつあった。
*
「……で、死体を見つけた、と」
警察署。事情聴取を受けた私は、担当をしてくれた女性警察官に「はい」と頷く。警官は告げる。
「話の大筋については分かりました。これからあなたのことについて伺いたいです」
この警察官は理知的な顔をした綺麗な方だった。濃い化粧をしているわけではなく、ただ単に元の顔が華やかというか……男性警察官にモテそう、というのが最初に抱いた感想だった。私なんかと大違い……なんて思って、何でこんなことを……と自分が恥ずかしくなる。頭の片隅に浮かんだあいつの顔に正拳突きを叩き込んで、それから警察官の目を見た。
警官は続けた。
「これからは未成年の心のケアを目的とした面談です。ショックは受けていませんか?」
「えっ」
私は言葉を失った。ショック、と言えば、ショックなのだろうか。まだ現実に戻ってこれていない気は、する。
「何だか現実味が……」
と素直に応じると、警察官は深く頷いて「そうですよね」とつぶやいた。それから、一枚のカードを手渡してくる。
「自治体が実施している高校生の心のケアを目的としたカウンセリンググループがあります。もし気持ちの整理がついたら、ここに話をしに行ってもいいかもしれません。電話やチャットでのやりとりも受け付けているようなので、積極的に頼ってください」
「は、はい」
カードには、「心のひと息、つきませんか」とある。どうも私のことを心配してくれているらしい。ありがたい、けど。
「あのう……」
私は訊ねる。この聴取で私が一番聞きたかったことだ。それは、そう、さっきから私の頭の中でフラフラフラフラ浮いたり沈んだり、節操のないあいつのことである。
「秀平は……先崎くんはどうなるんでしょうか」
すると女性警官は「ふ」という感じの、どういう意味か分からないため息をついた。それから続ける。
「先崎秀平くんは別室で話を聴かせてもらっています」
そんなこと、この場にいないんだから分かっている。
「まず、あなたは校門の監視カメラで朝早くに登校していることが分かっているので、こう言ってしまってはあれですが……アリバイがありますね。現に公共交通機関の記録……交通系ICカードの記録とも矛盾がないため、あなたの無実は証明できる」
「はい」私は神妙な気持ちで頷く。
「ところが先崎くんはそうした情報が一切ない。彼の証言を私は知りませんが……あなたに比べて不利な立場にいることは間違いありません」
やっぱり、そうか。あいつは、どうしても。
そして女性警官は無情な一言を告げる。
「彼が一番疑われるところにいたことは、抗いようのない事実ですね」
「じゃ、じゃあ……」
それから女性警官は、私が一番避けていた言葉を、躊躇いなく告げる。
「彼は最重要容疑者……そう、殺人の容疑がかかっています」
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