眠らぬ子

 真っ黒い世界へ、幾艘もの小舟が進みだす。

 櫂と波の音とともに、歌声が響いている。舟の上の者たちが、漕ぎの歌を歌っているのだ。

 

 月に呼ばれて 光る者たち

 いま我らが迎えに行く

 殻の中では 産声聞こえぬ

 光り続けろ

 生きる印 我らに示せ


 漕ぎ手は、一艘に4、5人乗っていたが、誰一人、乱れた動きをしなかった。彼らは、海を知っていた。この、爪のように薄く、白い舟の動きも、もう何世代にもわたって伝えられ、その身にしっかり沁みこんでいた。

 彼らは、ここら一帯の覇者、月を戴く島の土着民—アベドだった。その誇りは、彼らの雄大な腕の動きや、轟く歌声から、にじみ出ていた。

 そんな、海を肌で知るアベドたちであったが、その夜は、全員、顔に隠し切れぬ緊張が浮かんでいた。

沖へ出ると、船首のアベドが、舳先にかかった石灯いしひで照らされる前方を、立ち上がって見つめた。石灯《いしひ》には、陽の瞳と呼ばれる発光石が入っており、波に乗り上げるたび、からからと音を立てた。

 アベドたちの歌はやんだ。彼らは、船首アベドと同じように、周囲を凝視した。船首アベドたちは、石灯《いしひ》に作られた四つの小窓のうち三つをしめた。

 ふっと、闇が降りた。海と夜空との境はなくなり、アベドたちは暗黒に取り残された。

 目が慣れて、星の瞬きが見えるようになると、どこかの舟のアベドが声を上げた。

 海面下に、薄緑色をした、楕円の光が浮かんでいた。二つ、三つ、五つ、十と、さらにさらに見えはじめ、舟の上が慌ただしくなった。

「今月は、大量だな」

 一人の男が、そう言って、上腕ほどの槍を手に持った。穂先が緑の光できらめいたが、それは、二又にわかれ、片方が短い、不思議な形をしていた。

「どの子を?」同乗する細身の女が訊ねる。

 男は、くいっと顎で一つの光を示し、間もなく、海へ滑るように潜った。

 槍を重りにしながら、男は光へ近づいた。光は、地底へ向かって緒のようなものを伸ばしていた。その緒の内部を流れる光の粒に、男は、しばし見とれた。粒は球体へ送り込まれ、煌々と海中を照らしていた。

 そんな命の線を、男は、球を抱えるやいなや、あの槍でぷつりと切断した。緒は力を失い、諦めたように残液を吐いてあたりを濁らせた。

 海面へ浮上した男が見たのは、布を広げて待つ細身の女だった。

「さあ、こっちに。他の卵もはやく回収しないと。この量じゃ、取り残しがおきちゃうわ」

 女は、さっと卵を拭くと、舟の籠におさめた。そのときには、女の口調に急かされて、すでに男は海へと姿を消していた。かわりに、別の仲間である大柄な女が、卵を抱えて浮上してきていた。「この子、お願いね!」

そうしてアベドたちは、次々と卵を回収し、やがては海も、はじまりと同じ、どっくりとした闇に戻るのだった。



「取り残しはないね?」

 海から顔を上げた男に、今度は大柄な女が、舟から見下ろして言った。豊かな肩の曲線が、再び開かれた石灯(いしひ)の光に浮かび上がった。

「ああ、全部取った。確認した」

 男は、濡れた顔を拭い、ちらとあたりを見て頷いた。

 大柄な女は頷くと、「岸に戻るよ!」と、船上のアベドに指示をした。

「すごいわ! 六つも取った。先月は二つだけだったのに!」

 男が乗船したはずみで揺れる中、細身の女は、縁に悠然と掴まりながら言った。

「海はたいそうご機嫌なようだ」

 髪を高く結った男が、櫂を手に取り、漕ぎ始めた。彼の海を見る目は、穏やかだった。

 だが、乗り込んだ男の方は、卵を見て、はっと息を呑んだ。

「おい、こいつ、動いているぞ!」

 身じろぎをするように、卵の薄緑色の外膜が上下していた。大柄な女は、さっと櫂を船員に渡した。

「急ぐよ」女はこれだけ言った。

 岸に上がると、他の舟も戻って来ていた。彼らは、せっせと卵の籠を降ろし、浜の奥の小道にとまる馬車へ向かっていった。槍持ちの男は、逆輪に石灯《いしひ》をくくりつけ、明かり持ちとして先頭を歩いた。

 馬車の近くでは、一人の小柄な老人が待っていた。老人は、籠を持った彼らがやって来ると、にやにや笑った。

「まるで、海からはい出た死人みたいな顔をしているな、守りの人のみなさんよお」

 老人は言い、明かり持ちの男は、むっとして穂先を向けた。

「ふむ、お前の顔よりは、いくらかましだと言える自信があるね。歯を磨けよ」

 男は言った。明かりに浮かび上がる老人は、朽ちた歯を見せ、おどけた顔をつくった。

「おいおい、誕生の日だって言うのに殺しをするつもりか? 馬の目を読むこの俺様を、卵切りで刺すっていうのか?」

 仲間の視線を感じ、男はさっと槍を元に戻した。

「これじゃ殺せねえよ。卵の緒しか切れねえ」

 大柄な女が、「ねえ、ちょっと!」と叫んだ。彼女は、髪を結った男とともに、荷台に籠を積んでいた。

「これ、ここに置いて平気? あんた、横転しないようにしておくれよ?」

「なに言ってる」老人が、手を叩いて荷台に近づいた。「俺たちは、最高の実績を買われてここにいるんだ。そんなぽろっととれるかさぶたみたいなことはしねえよ」

 老人は、ばりばりと膝を掻いた。そうして、馬車につながれている馬に、愛おしそうに手を伸ばした。

「ほら、こいつも、『信用せよ』と言っている。俺の相棒のエイネー馬は、嘘が得意じゃねえからな。この目は真実しか語れねえのよ」

 灰色のエイネー馬は、老人に信頼しきったつぶらな瞳を向けた。

 明かり持ちの男は、ふんと鼻を鳴らした。細身の女が、「綺麗な馬よ」と言って、男のつま先を踏む。いいかげん、喧嘩腰になるのはやめてと、彼を小さく睨む。

 老人は、相棒を褒められて上機嫌になり、欠けた歯を見せてにこにこ笑うと、御者台に飛び乗った。

「さあ、俺たち獣の人の晴れ舞台だ。いっちょ、かましてやろうじゃないか」

 彼は言うと、口笛だけでエイネー馬を操作した。馬は、実に従順に、長い脚毛に隠れた広がる蹄で、地面をしっかと踏んで、浜を離れていった。

 卵を取った守りの人たちは、しばらく海風に吹かれてその様子を眺めていたが、馬車が見えなくなると、大柄な女が言った。

「さあ、あたしらの仕事は終わった。食事をしに行かないか?」

 とたん、仲間たちは歓声を上げ、輪を描いて足を蹴り合った。

「おごり? おごり? あなたのおごり?」

 彼らは、こそこそ歌うように囁き合った。女は、大きな肩をゆすって呆れ笑った。

「わかった、わかった!」

 仲間たちは、口笛を吹き鳴らした。大仕事を終えた彼らは、解放感でいっぱいになり、熱っぽくなっていた。だから、天へ向かって、嬉々として叫んでも、だれも文句を言わなかった。

「我が国、エイネー国よ、永遠なれ!」



 老人が自負した通り、馬車は一度も立ち止まったり横転したりする様子は見せなかった。たとえ、整備の悪い石畳の道でも、エイネー馬の柔軟に広がる蹄によって、ちゃんとたしかな道を通ることができた。

 まわりには、波うつ海のように、丘がいくつも連なって、こぽこぽ頭を出している。波と違うのは、斜面が段々になっていることだった。

この場所を、エイネーアベドたちは、育ての丘と呼んでいた。そして育ての丘こそ、馬車の目的地だった。

 一つの丘の麓で停車すると、老人は、相棒にねぎらいの言葉をかけてから、斜面に作られた扉へ向かって言った。

「やい、丘の守りの人よ! 覚悟して聞け!海からたーいりょうに赤ん坊がやって来たぞ!」

 すると、待っていたかのごとく、扉はぱっと開かれた。

 現れたのは、頬を上気させた、毛髪のない大男だった。彼は、馬車に山と積まれた卵を見るなり、目を見開いた。だが、すぐに気を取り直し、後からやって来た仲間に、「さあ、どんどん運べ!」と指示を出した。

「今月はやけに多いな……、いったいなにがあったんだ?」

 守りの人の大男は、なにもない頭を撫でながら、獣の人に訊ねた。だが、答えを望んでいるわけではなかった。気持ちを落ち着けるため、言葉にせずには、いられなかったのだ。

 気持ちが高ぶっているのは、獣の人も同じだった。それに彼は、もちろん大男の問いの答えを持っているわけではなかったので、「覚悟しろと言っただろ」と叫んだ。「そえより、他の出生地も多いのか?」

 大男は、頷いた。

「まだ森からの赤ん坊しか来ていないが、夕飯も食べられねえくらいてんてこ舞いだよ! この調子じゃ、イドゥリ火山島と星の洞窟の赤ん坊も多いだろうな……。ああ! 俺は明日、糸を絞られた蜘蛛の腹みてえにべこべこになっているぜ」

「間違って、赤ん坊を食わねえようにな」老人は皮肉に言った。

「あんなちいせえのじゃ、俺の腹は満たせねえよ」と大男。

 だが、彼も老人も、喜びを顔に浮かべていた。赤ん坊……そう、アベドの赤ん坊がこれほどたくさん生まれたのは、本当に久しぶりのことだったのだ。だから、どれほど忙しかろうが、自然と口が緩み、安堵の笑みを浮かべたのである。



 そんな晩、口をむっつり曲げている男が一人いた。それは、卵が運ばれた先にある大洞にいる男で、巻き髭を生やし、ぎらぎらと二つの目を光らせ、紙束をもって、卵を待ち構えていた。

 彼の部屋に入った守りの人たちは、せっせと卵を、壁にあいた穴に入れていった。

「おい、いまもってきたのは、どっからきた卵ちゃんたちだ?」

 見かけによらない言葉を髭男は使ったが、守りの人たちは、彼のことを十分わかっていたので、「海からよ、セィダ」と、淡々と答えた。

「ああ、磯の香りがぷんぷんするな。海だな!」セィダは、守りの人の言葉にかぶせて言った。

卵の入った穴の端には、数字が刻まれていた。セィダと呼ばれた髭男は、その数字と卵の様子を、あわせて紙束に記録した。彼は、この卵管理室で、赤ん坊の健康状態を診る仕事を担っていた。もう二十年も続けているこの仕事は、セィダにゆるぎない貫録を与えていた。彼は、卵管理室の主であり、赤ん坊の変化を、卵の揺れ一つ、温度一度、そして生まれてからは、髪の毛一本でも見逃さない、守りの人の大御所だった。

 だが、そんなセィダでさえも、この卵の量には、こめかみに汗を浮かばせていた。やってもやっても終わりが見えず、次々と新しい卵がやってくる。

「応援を呼びましょうか?」

 若い男がセィダに訊ねた。だが、セィダは首を振った。

「一人で十分だ。いままでもそうだったんだから」

「セィダ、夜明け前には、この子たちの〈育ての者〉がくるからね!」

「なに!?〈育ての者〉だと? それまでに全員が孵化するとでも思っているのか?」

 だが、守りの人たちは次の仕事のためにばたばたと出て行ってしまった。

 セィダは、黙々と卵の記録を続けるしかなかった。気が逸れて、漏れがあったら大変だ。

 ぶつぶつ呟きながら次の卵に移ったセィダは、ぎょっとして身を強張らせた。

 なんとその卵は、孵化の揺れを引き起こしていた。セィダは驚いたが、冷静になって、すぐさま、赤ん坊をくるむための布を持ってきた。

 だが、赤ん坊は、柔らかな外膜を何度か押したのち、静かになってしまった。

 セィダは、ほっと息をついた。壁に刻まれた番号を確認する。

「23番か。23番よ、お前はせっかちだな」

 しばらくすると、他の出生地の卵が到着した。イドゥリ火山島からの卵は、みんな力強い脈を打ってほんのり暖かく、星の洞窟からの卵は、どれも静かな冷たさをまとっていた。

 どの出生地も、やはり、大男が言った通り、多産だった。セィダは、記録をし続けるうち、卵と自分との境がなくなる感覚を覚えた。やがては、セィダは、世界に自分たちしかいないように思えた。新生な命と、老いの迫る自分との無言の対話は、セィダに、仕事を超越した、神聖な満足を与えた。これこそ、セィダが一人で仕事をしたかった最大の理由だった。

彼は、赤ん坊という存在を、心から敬畏していた。



 はじめに、腕が突き破って出てきた。白緑の液体にまみれたそれは、力強く、もう片方出てきた。そのあと、空気を裂かんばかりの泣き声が響き渡った。

 部屋の隅でうつらうつらしていたセィダは、がばっと起き上がって、泣きはらす赤ん坊のもとへすっ飛んでいった。

「結局、あんたが一番か」

 セィダは、彫られた「23番」の文字と真っ黒な髪の坊やを見つめた。坊やは、セィダの耳を壊しそうなほど一生懸命泣いていた。

 セィダは、赤ん坊に張り付いた膜を手際よく取り、体を拭いて、布でくるんでやった。

 と、思いきや、あっちからもこっちからも、まるでこの赤ん坊が皮切りだったかのように、次々と他の卵が孵化し始めた。

 長年、卵管理室で働いていたセィダだったが、十人以上の赤ん坊がぴったり一緒に誕生の叫びをあげたこの瞬間は、さすがに鳥肌が立った。だからセィダは。この黒髪の赤ん坊には、なにかあるのだろうかと思わずにはいられなかった。

 けれど、それで手を止めるセィダではなかった。彼は、じつに十五人の赤ん坊の世話をした。

 ようやくひと段落ついたとき、セィダは卵管理室の入り口で、泥のようになって座り込んでいた。時の感覚がなく、あれから一呼吸しか経っていないのではないかと思った。

 だから、だれかが部屋の入り口に立ったとき、それが起こるのに正当な時間であると思わなかったし、ましてや、存在に一切気がつかなかった。

「ひゃあ!」

 その者も、くたびれた雑巾みたいになっているセィダに、全く気がつかなかった。甲高いその声に、セィダはいらいらと顔を上げた。

「なんだ?」

「ああ、あの、大丈夫ですか?」

 立っていたのは、枝のようにひょろ長い青年だった。目ばかり大きく、首も、腕も、足も、頼りなさそうにふらふらしている。頭には、整えていないこんがらがった髪の毛が乗っかっていた。

その情けない姿に、セィダは、いっそういら立ちを募らせた。さらに、こんな芯のなさそうなやつに『大丈夫ですか』などと問われた自分にも、腹が立った。

「平気だ。それより、なにをしに来たんだ?」

 セィダは、髭を絞って言った。

「夜明けに、ここへ来るようにと言われたので」

「……ということは、お前は、〈育ての者〉なのか!?」

 セィダの頭皮は、縮み上がった。

青年は、自信がなさそうに、こっくりと頷いた。

「この中の一人を育てろと言われてきたんです」

 セィダは、ため息をついて目頭を抑えた。ふらふらと立ち上がる。

「お前、名前は何て言うんだ」

「〈卵取り〉の……じゃなかった、〈育ての者〉のピクランタです」

「異動になったのか」

 ピクランタは、細い首の後ろをぽりぽり掻いた。

「ええ。前は、森で卵を取っていたんです。……あのう、こういうことを聞くのもなんですけど。はじめてなもので……。そのう……」

「なんだ?」

「育てるって、大変ですか?」

 セィダは、がっくり力が抜けた。だが、青年の大きな目が、溶け落ちそうなくらい不安で潤んでいるので、これだけ言った。

「筆舌につくしがたい」

 ピクランタは、小さく息を吐いた。セィダは、だが、赤ん坊たちのほうに目を向けた。そして、青年の背中を押し、ずらりと並ぶ穴へ近づけた。

「なあ、ピクランタ。お前は、どの子を育てろと言われた?」

 セィダは、青年の動揺を鎮めようと、軽く話しかけた。だが、青年の「ええと、23番です」という答えを聞くと、管理室の主は、心の中で頭を抱えた。

「なんだって、23番?」

「はい、23番」

 セィダは渋ったが、ピクランタが、なにか不味いことでも言ったかと、さらに身を縮ませるので、何でもない風に、23番の穴へ案内した。

「こいつは、一番に孵化した子でな……」

 覗き込んだピクランタは、「わあっ……」と声を上げた。

「なんて、真っ黒な瞳!」

 その子は、純黒の瞳で、初めての世界を見つめていた。

ピクランタは、真っ黒い円の中に、自分がいるのを見つけた。青みがかった白目は純粋に輝き、傷一つない丸い額に、柔らかな漆黒の髪が映える。

そのときピクランタは、夜の闇を思った。目の前にあるのに、掴むことのできない、絶対的な黒を。

 だが、セィダは不満そうに言った。

「こいつ、一番に孵化したのに、ずっと起きているんだ。まるで、瞼がねえみたいによ。いいかげん寝たらどうだ、お魚くん」

 セィダは、23番の頬を優しくはじいた。

「お魚くんなんてだめです。こいつ、ナッシュトールですよ」

 突然のピクランタの言葉に、セィダは彼を二度見した。

「あ? ナッシュトール?」

「そうです。黒目がナッシュトールの実にそっくりじゃないですか。やあ~、ナッシュ」

 ピクランタは、ナッシュの手に指を近づけた。ナッシュトールは、エイネーに生える低木の名前だった。春になると、小指の先ほどの、堅く黒い実をつける。ちょうど春であるいまには、ピッタリの名前だとピクランタは思った。

「俺より詩的な仮名をつけたな」セィダは腕を組んだ。

「僕、陛下から真の名前をもらうまで、〈育ての者〉から番号で呼ばれていたんです。102番だったんですけど、みんなに、生まれたときから102歳だったと思われて、あだ名が長老だったんです」

 セィダはげらげら笑った。ピクランタも笑ったが、「それはそれは嫌だったんですよ」と、ナッシュを見つめた。

だが、そのとき、突如彼は、何者かに突き落とされた感覚に襲われた。

 目の前で無防備に息をし続ける赤ん坊は、これから自分の手の中が安全な場所となる。それに気づいた時、自分の愚かさで、彼の命を落としかねない、壊しかねない恐怖が、胸の中に巣食った。迫って来たのは、究極の、名前のない重さだった。

「……ピクランタ、ようく考えろ」

 青年の沈黙に気づいたセィダが言った。

「そいつを育てろと、お上に言われたんだろうが、決めるのは、やはりお前自身だ。俺は、お前たち〈育ての者〉が、途中で投げ出すのを見たくねえ。その子は……言いたくねえが、かなり手を焼くんじゃないかとみてる。だから……」

「だけど、どの子も一緒でしょ?」

 ピクランタは何も考えず言ったが、これにセィダは、思わず髪の毛を逆立てた。

「一緒な子などいないっ、馬鹿! ここにいるのは、あぶくを出している、ただのちっこい人形じゃないんだよ!」

セィダは、はっとして正気に戻った。ピクランタが首をすくめていた。

「……すまねえ、疲れてるんだ」髭男は言った。

「僕も、言葉が悪かったです。僕はただ、赤ん坊はみんな手を焼きますよね、って言いたかっただけで……」

セィダは唸って、自分の頭を叩いた。

「俺はなあ、心配なんだよ。〈育ての者〉ってのはよ、子どものために歯食いしばってやっていく、その覚悟が必要なんだよ。ただ食べさせればいいとか、おしめ換えればいいんじゃない。育てるのは、一つの命じゃなくて、一人の命だからだ。わかるか? それは、生半可な気持ちで手え出しちゃ、ほんとにいけねえってことだよ」

黙っているピクランタに、髭男は近づいた。

「だから、はじめのはじめに、ようく、ようく、考えなきゃならねえんだ。お上の指示だろうがなんだろうが、育てるか育てねえかは、お前が決めなきゃならんのだ。いいか、お前自身なんだぞ。他に誰も、お前の気持ちや覚悟の度合いは、わからねえからな……」

「……。あの、僕は、蝶々結びができないんです」

 鼻の下をこすりながら、唐突に青年は言った。セィダは眉をひそめたが、彼の続きを待った。

「字も汚いから、友人に心配されているんです……。それでも、子どもを育てることはできるんですか?」

 セィダは、顎を掻いて、青年を正面から見つめた。

「あんた、23番のことをどう思ってる。好きか?」

 ピクランタは、静かな笑みを浮かべた。脆弱で、哀し気で、それでいて、憧れと愛に満ちたその笑みに、セィダは頷いた。

「であれば、それを23番にぶつけることだ。蝶々結びよりも大事なことを、23番はお前から学ぶだろう」

セィダは、青年の肩を叩いた。

「それに、育ては、一人の責任によるものじゃない。たくさん助けを求めていいんだ。……俺は、どうしても一人で突っ走ってしまうんだけどよ」

ピクランタは、こっくりと頷いた。セィダの熱く重い手が、ピクランタを、淀んだ憂慮の海から引き揚げた。

「……ありがとうございます」

 セィダは、「よし」と言って、彼の肩を二度叩くと、穴へ近づいた。

「お前を信用することにしたぞ。二十三番は―ナッシュは、ピクランタに任せよう。お前がこの子に当たったのも、巡り巡ってのもんだろうからな」

セィダは、ナッシュを穴から出してやった。「気をつけて抱くんだぞ。尻に手を添えて……首の下にも腕を……そうそう」

はじめてナッシュを抱いたピクランタは、細かく力の入れ具合を調整することで忙しかった。赤ん坊は、とても温かかく、崩れそうなほど柔らかで、小さかった。まるで骨入りの液体みたいだと、ピクランタは思った。

「こいつは海生まれだ。ちゃんと誕生月を覚えておけよ。花の月(四月)だからな。……ありゃ? こいつ、引き取りも第一号になっちまったな」

「ありがとう、セィダ……」

 セィダは、慈しみの目を赤ん坊に向けるピクランタを、じっと見つめた。

「〈育ての者〉の言葉に、こんなのがある。『育てに、もしだめだったらは、存在しない。失敗もなく、やり直しもない。あるのは、ただその一瞬だけ』」

「……よくわからないんですが」

「言いたいのは、一瞬がすべてだということだ。巣立ちまでの十二年間は、あっという間に終わる。お前とそいつが楽しければ、それでいいんだ。……じゃあ、なにかあったら助けに行くからな。健闘を祈るぞ」

セィダとピクランタは、ナッシュをはさんで、抱き合った。ナッシュは、虫のようにもぞもぞ動いた。

ピクランタは、ゆっくりと、しかし、よろけることなく、卵管理室を出て行った。

 セィダの仕事は、ここまでだった。彼は一つ、詰めていた息を吐き出した。だが、眉間には、険しい色が浮かんでいた。

(お魚くん、眠ってくれるといいがな)

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エイネーと二つの六日間 雲上いつき @kumogami-itsuki1

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