第2話 接触

「……」

 気丈にもいじめに耐えていた黒江だったが、そろそろ限界に見える。

 相当に衰弱しているはずだ。

 頬もこけ、やつれ、生気も無い。

 断頭台に続く道を歩む死刑囚のようだと思った。

 後もう数歩だ。

 最悪の事態も脳裏にちらつく。

 ……そうはさせるかよ。

 こんな風に未来が閉ざされていい訳がない。

 この日の放課後、ついに一郎は黒江との接触を試みた。

 いつものよう、帰りのホームルーム終了と共に鞄を肩に掛けて教室を飛び出すように去っていく黒江。

 置いていかれないよう、その後を追う一郎。

 下駄箱へ向かった時、黒江は既に昇降口を出るところだった。

 速っ。

 自転車置き場まで駆けていくと、ガチャンという音を立て、もう黒江はスタンドを蹴っている。

 慌ててポケットをまさぐって自転車の鍵を取り出し、それを錠へと突っ込む一郎の横を、颯爽と黒江は車輪を滑らせていった。

 ちょっ!?

 もたつきながらもなんとか黒江を見失う前に、一郎も普段とは真逆の方へ自転車を走らせる。

 まだ五月だというのに日中は三十度を越えることもあり、この日もやはり気温が高かった。

 ここ山梨県勝沼も例外ではない。

 昼に降り注いだ太陽の熱は、甲府盆地に澱みのように残っていた。

 視界を通り過ぎていく緑の葡萄棚の下には早くも、葡萄の実を全て外した、残りのような姿で緑の房が生っている。

 畑の縁には鮮やかな菖蒲も植えられていた。

 どこかから飛んできたのか、芥子の花の橙色もちらほらと。

 しかし今の一郎には、そんなものに意識を向ける余裕はない。

 腰も浮かさず、スピードも落とさず、黒江は傾斜のついた道で平然とペダルを漕いでいく。

 くっそ!?

 細い癖に体力半端ないな!?

 立ち漕ぎに移行し、なんとかそれに食らいつく一郎。

 そんなことがある程度続いたが、前を行く黒江が信号でも道が分かれている訳でも無いのに、突然ブレーキを掛けて止まった。

 しめた!と、この間になんとか一郎は彼女へ追い付く。

 そしてその背後で止まると、黒江は返らないままで言った。

「……あの」

 一郎に返事をする余裕はない。

「……何で?」

 その問いに答えるには、息が切れ過ぎていた。

 まずは少しでも荒くなった呼吸を整えることに努める。

「あ、わ、私に……何かする気ですか?」

 その声は酷く怯えていた。

 学校の中だけでなく、ついに外でもいじめが始まるのかと、そう感じているようだ。

 何か言わねばと思うが、まだ息は整いそうもない。

「……違う」とだけ、一郎は返した。

「じゃあ……何……?」

 当然そう来るだろう。

 いじめでは無いとわかったからか、黒江はそれ以上続けて追求しなかったが、一郎の行動を不気味には思っているだろうことがわかった。

 しばらくの沈黙の後、ようやく一郎が話し出す。

「いじめられるの、嫌だろ?」

「えっ」

 予想外の言葉だったのか、黒江のそれは心底驚いた時にしか出ないような「えっ」だった。

 混乱しているだろう彼女へ、いきなり本題を告げる。

「君を助けたい。止めさせよう、いじめを。僕に考えがある。でもその前に……」

 辺りをわざとらしく見回してから続ける。

「場所を変えようか。車もよく通るし、ここじゃ学校の連中にも見られる。……近くに神社があるから、そこに行こう」

 しかし――。

「人気の無いところで、何かする気……ですか?」

 さすがに慎重だな。

「話をするんだよ。いじめを止めさせるための。考えがあるって言ったろ」

「嘘かもしれない……。酷いことをする……かもしれない。わ、わざわざ人気が無いところに連れ込むなんて、性的なことをされるかもしれない」

「するか!?僕が女に飢えてるとでも!?そう見えるのか!?」

 つい声を荒らげてしまった。

 黒江はそれに怯えながら、なおも言い返す。

「見た目じゃ人はわからない……ので。こ、こういうブスが好みの、変わった人かもしれない」

 こいつ……!?

 慎重が過ぎる!

「安心してくれ、彼女が居るんだ」

 本当は居たことすらないが。

 方便も必要だろう。

 それでも黒江は訝しむような目を向け続けた。

「か、彼女が居ながら、歪んだ性欲を抑えきれずに……?」

 慎重超えて被害妄想逞しい!

 もはや人を馬鹿にしてるだろ!?

 一瞬そう思った一郎だったが、すぐに思い直す。

 ……いや、立場を考えれば不自然でもないのか。

 そんな考え方をするくらいには、こてんぱんに精神をやられてるんだ。

「……本当に神社で話をするだけだよ。そんなに疑うんなら、スマホに110と打ち込んで、後は通話をタップするだけの状態にしておけばいい」

 ようやく誠意が伝わったのか、黒江が頷く。

「……わかった」

 それからすぐにスマホを取り出し、何やら操作した。

 どうやら110と打ち込んだようだ。

 マジでやるのかよ……。

 ……まあいいや。

「じゃあ、移動しようか」

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