第8話
良恵はぴくりと片眉を吊り上げる。彼女が何が物申すときの癖だった。嫌味を捲し立てられる、そう思って莉絵は身構えた。
「帰ってないなんて嘘をついたわね。裕人、お風呂場にいるんでしょう。私に会わせないつもりね」
良恵は疑いと憎しみを宿した目で莉絵を睨みつける。
「いえ、裕人さんは」
莉絵が言いかけるのを無視して良恵はバスルームへ向かう。
バスルームからまた水音が聞こえた。
「裕人、裕人」
良恵はヒステリックに息子の名を呼ぶ。しかし、返事はない。ばちゃんと大きな水音がした。良恵は不安に駆られてバスルームのドアを開ける。
鼻腔を貫く強烈な腐臭に良恵は顔を背けた。腐臭の後から生臭さが追い打ちをかけ、耐えがたい吐き気を催して蹲る。
「一体何なのこれは」
良恵は鼻と口を手で押さえながら浴槽を覗き込む。そこには赤黒く濁った水が溜まっていた。ぱちゃんと音がして赤色の魚が跳ねた。
風呂場にこんな悪臭を放つ汚水を溜めて魚を放しているなんて、どう考えても異常だ。
「莉絵さん、これはどういう」
抗議しようと振り向いた途端、目を血走らせ歯を剥いた嫁の顔を見た。腹に熱を感じて、すぐに痛みが襲ってきた。
「ひっ、あ、あなたこんな、こんなことして」
「お義母さん。ハナがお腹をすかしているの」
莉絵は良恵の腹に突き立てた包丁を引き抜き、もう一度渾身の力で刺した。
「裕人は、裕人はどこ、救急車を呼んでちょうだい」
良恵は悲痛な叫び声を上げながらバスルームの床に尻餅をつく。腹からはとめどなく血が流れ出し、意識が朦朧としてきた。
「裕人さん、ハナが綺麗に片付けてくれたわ」
莉絵は浴槽の魚を見つめて微笑む。良恵は息子が魚の餌になったことを悟り、気が狂わんばかりの金切り声を上げた。
「この子は私たちの子よ、名前はハナ。ハナ、この人がおばあちゃんよ」
莉絵は良恵の身体を抱えて浴槽に突き落とした。頭から赤黒い水に突っ込んだ良恵は夥しい出血のために満足に身動きが取れず、手をゆるゆるとばたつかせた後動かなくなった。
「良かった、これで三日は持つかな」
莉絵は血塗れの包丁を投げ捨てた。ハナは嬉しそうに何度か跳ねてまた水の中へ潜っていった。
莉絵は服を脱ぎ、返り血をシャワーで洗い流した。浴槽の水面に気泡が立って赤色が濃くなっていく。ハナが食事をしているのだ。
あんな嫌味がましいしわくちゃの女でも好き嫌いしないのはありがたい。
風呂上がりに冷蔵庫に残っていた缶ビールでささやかな祝杯を上げた。
久しぶりに実家の母から電話があった。
「うん、元気だよ。ペットを飼い始めたの」
莉絵の明るい声を聞いて、母は安心したようだった。
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