第5話
「魚の世話なんてそんなに手をかけるもんじゃないだろう。かかりっきりになってお前は異常だぞ」
裕人は足元に散乱するゴミを指差す。
「それになんだよこれは、まさにゴミ屋敷だ」
拾い上げてみると、離乳食の空き箱だった。こんなものまで食べていたのか。莉絵の異常性を垣間見て、裕人は悍ましさのあまり背筋を氷が滑り落ちるような感覚に震えた。
「なあ、病院に行こう。お前は流産してから心が病んでいるんだ。カウンセリングを受ければきっと良くなる」
裕人は莉絵を刺激しないよう、務めて優しい声で囁く。莉絵は肩を揺らしてくすくす笑い始めた。
「もういいのよ、裕人。私にはハナがいるから」
「そんなのただの魚だろ」
莉絵の気を紛らわせようとしたが、こんなことになるとは。魚なんて飼うんじゃなかった。彼女は魚を子供に見立てて現実逃避をしているのだ。
裕人は水槽に歩みより、濁った水の中に手を突っ込んだ。
「こんな魚がいるからいけないんだ」
「やめて」
半狂乱になって止めようとした莉絵を突き飛ばした。莉絵はテーブルに激突し、食べ残しのカップ麺の汁が床に飛び散った。裕人は水の中をかき回し、赤い魚を探す。
「痛っ」
指に鋭い痛みを感じて、慌てて水槽から手を引き上げる。指先が裂けて血が染み出している。まさか、あの小さな魚が噛んだのか。
裕人は目を見開いて水槽の中を覗き込む。鬱蒼と茂る水草の隙間に鮮やかな赤色の身体が見えた。
「くそっ、ふざけやがって」
裕人は怒りに任せて水槽を蹴り飛ばした。倒れた水槽から濁った生臭い水が流れ出し、赤い魚がフローリングの床に滑り出た。裕人はピチピチ跳ねる魚を踏み潰そうと大股歩きで近付いていく。
後頭部に衝撃を感じた。じんじんと熱が広がり、遅れて激痛が襲ってくる。おそるおそる手を当てると、血がべっとりと付着した。
「ハナに何てことするの」
振り向くと、莉絵がゴルフクラブを握りしめて立っていた。
「莉絵、どうして」
頭が朦朧として視界が揺らぐ。莉絵は再びクラブを振り上げ、力一杯振り下ろす。強い衝撃を食らって裕人はその場に膝をついた。
「あなたは私のことを子供を産む便利な道具だと思っていたのよ。親のいいなりで私の気持ちなんて後回し」
莉絵は膝立ちで呆然と自分を見上げる裕人の横っ面にクラブをフルスイングする。顎の骨を粉砕し、折れた歯が水に濡れた床に転がった。
「あなたが浮気をしていたのも知ってるわ、何度も臭い香水の匂いをつけて帰ってきたわね」
「そ、それは、お前が魚にかまけて俺のことを見向きもしないから、ああ、やめてくれ、すまなかった」
裕人は頭から血を流しながら床に這いつくばる。口の中に鉄錆の味が広がってきた。恐怖と悪寒のせいで身体ががくがく震えている。
「あんたよりもハナの方が大事なの」
莉絵は興奮に目を血走らせながら渾身の力でクラブを振り下ろす。
ごしゃっ、と嫌な音を立てて頭頂部が陥没した。裕人はぎょろりと白目を剥いて水槽の水が零れた床に倒れ込み、動かなくなった。
莉絵は裕人の頭皮と髪の毛がへばりついたクラブを放り出した。
裕人の流した血の海でハナはピチピチと跳ねている。赤い身体がさらに真紅に染まっていく。
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