第4話

「ハナ、ごはんよ」

 莉絵は水槽の魚によく話しかけた。名前の由来は魚の体が赤い花弁のようだから、という。莉絵は飽きることなくハナの世話をした。

 裕人が仕事から帰宅すると、莉絵はいつも水槽を眺めていた。

「魚の餌やりも良いけど、飯も作ってくれよ。疲れて帰ってきてるんだからさ」

 裕人は不機嫌をあからさまにする。


「ハナが元気でいるか私が見守ってあげなきゃ」

 莉絵は振り返りもせずに水槽の中を泳ぐ赤い魚を見つめている。裕人はチッと舌打ちをしてストックしてあるカップ麺にお湯を入れ始めた。

 莉絵はハナに異様な執着を見せ始めた。ずっと水槽の前に張り付いて、ひっきりなしに餌をやる。泳いでいる姿を寝る間も惜しんで飽きもせず眺め続け、慈しむように名前を呼ぶ。


 家事はおろそかになり、部屋は汚れるままになっていった。

 水槽の水も最初は取り替えていたが、水が綺麗すぎるとハナの元気がなくなるからとそのままになった。

 莉絵は身なりも気にしなくなり、着の身着のまま風呂もほとんど入らず据えた匂いを放つようになった。食事や日用品の買い物にも出掛けなくなった。裕人が買ってきたコンビニ弁当を食べて、またハナの様子を眺め続ける。


 莉絵に愛想を尽かした裕人は何も言わずに外泊するようになった。アパートからひと駅の実家に帰ったり、客先で知り合った若い女の家に転がり込むこともあった。

 不貞を働いても罪悪感など無かった。莉絵は自分よりも水槽の魚の方が大切なのだ。魚の餌やりはしても夕食も作ってくれない。

 他の女に癒しを求めて一体何が悪いのだ。不貞を正当化する理由は充分にある、と裕人は考えていた。

 

 ***


 裕人が久しぶりにアパートに帰ると、鼻をつく悪臭に思わず吐き気を催した。

 部屋の惨状はさらにエスカレートしており、玄関先にまでゴミが散乱している。食べ物の残滓と水槽の匂いが混じり合い、耐えがたい異臭を放っていた。

 

 カーテンを締め切った薄暗い部屋で莉絵は水槽を眺めていた。

 数日前から同じ寝巻きのまま、髪の毛は乱雑に振り乱し、時々含み笑いを漏らしている。

「ハナ、かくれんぼしてるの、出ておいで」

 そう言いながらソーセージをポトンと水槽に落とした。


 裕人は青ざめる。莉絵は明らかに精神に異常をきたしている。

「しっかりしろ莉絵、あの小魚がそんなもの食べるわけないだろ」

 裕人は苛立ちに声を荒げ、莉絵の肩を揺さぶる。莉絵は裕人の手を乱暴に払いのける。

「ハナのこと、何も知らないくせにっ。あなたはこの子の面倒を全然見ないじゃない」

 莉絵は憎しみを込めて裕人を睨み付ける。その淀んだ瞳にはドス黒い憎悪が込められていた。裕人は嫌悪感に顔を歪める。


 

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