第3話

「君が無事だったから良かったよ。今は少し休んでまた頑張ろう」

 思い出しては泣いてばかりいる莉絵を裕人は優しく労う。

 子供はまた作れば良い。彼の両親も莉絵を慰めながら同じことを言っていた。子供ができるのが分かって一安心だとも。

 莉絵は塞ぎ込み、一日中アパートに閉じ籠り食事も取らず家事もしなくなった。使われなかったベビー用品を見ては重いため息をついた。


 流産した妻の無気力な様子に裕人は困惑した。優しく朗らかだった妻がこんなに陰気で自堕落になるとは。やつれた妻の顔を見たくないがために仕事帰りに飲み屋で時間を潰すようになった。

 どうせ帰宅しても夕食はない。外食で済ませた方が莉絵も気持ちが楽だろう、と裕人はどこまでも勝手な解釈をしていた。


***


「ペットを見に行かないか」

 誰の入れ知恵か、裕人が莉絵を外出に誘った。子供の代わりにはならないが、気晴らしに可愛いペットを飼おうと。

 莉絵は心動かされたのか、その誘いに乗った。


 ペットショップには犬や猫、ハムスターなど見ているだけで癒される可愛い生き物がいた。しかし、アパートはペット禁止だ。哺乳類を買うのは難しい。

「魚はどうだい。ぼくの友達も熱帯魚を飼ってるよ」

 裕人に連れられて観賞魚のコーナーへきた。涼やかな水槽の中には色鮮やかな熱帯魚がゆらゆら泳いでいる。

 莉絵は気が進まない様子だったが、ふと目にした赤色の魚に引き寄せられた。


 それは形状こそ平凡な魚だったが、ビビッドな赤色が一際目を引いた。大きさは親指ほど。店員に聞くと、これ以上大きくならないし飼いやすいという話だ。

「この子が良いわ」

 莉絵は赤色の魚が気に入ったようだ。振り返って控え目な笑顔を裕人に向ける。久しぶりに見る妻の活気に、裕人も嬉しくなった。

 水槽と水草、金魚の餌を飼って赤色の魚を連れて帰った。


 子供の頃、夏祭りで金魚すくいをした。

 莉絵は一匹だけ掴まえた真っ赤な金魚を大切に家に持って帰った。庭に置いた小さな水槽に金魚を泳がせておいたが、翌朝には水槽は空になっていた。

「近所の野良猫が食べてしまったんだ」

 父親が仕方無いよ、と莉絵を慰めた。莉絵は泣きじゃくり、両親をひどく困らせた。赤い魚に惹かれたのはあの時の記憶が脳裏に焼き付いているからかもしれない。


「この子の名前、何にしましょうか」

 莉絵はぽこぽこと水音を立てる水槽の中を泳ぐ赤色の魚を飽きずに眺めている。

「ははは、魚に名前だって、何でも良いよ。君の好きに呼べばいい」

 裕人は莉絵の楽しそうな顔を見て微笑む。


 生まれるはずだった子供の名前を決めるのにケンカしたことを思い出した。一週間悩みに悩んで二人で名前を考えた。どんな子に育てたいか、二人の夢を語り合った。願いを込めてつけた名前を裕人の母親が画数が悪い、と懸念を示した。


 裕人は母親の意見を汲んで名前を変えよう、と言い出した。裕人と莉絵は大げんかをした。莉絵は口を聞かず、三日間食事も作らなかった。

 それも甘酸っぱい思い出だ、と裕人は思う。魚の名前くらい好きにつけさせてやれば良い。

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