向日葵が揺れている

sorarion914

Railway

 ――あれは、中学最後の夏休み。

 すべてが面倒で、すべてが虚しくて。

 でも根拠のない自信と、夢だけはやけに輝いて見えたあの頃。






 私には、忘れられない思い出がある。



 * * * * * 


 監察医になって10年目の夏。

 私はその日、思いがけない人物に会った。

 会った——という言い方は少し違うかもしれない。なぜなら相手は、生きた人間ではなかったからだ。

 解剖台の上に寝かされていた彼をひと目見た時、私は久々の再会を、何故、よりにもよってこんな場所で……と思わずにはいられなかった。

 死亡検案書の氏名欄に、その名を見た時。

 やはり彼だ……と確信した。

 最後に会ってから、もう20年以上経っている。思い出の中にいる彼は、まだ15歳のまま。

 でも今、目の前にいるのは自分と同じ。

 じき40になろうという男だ。

 伸びた髪に無精ひげ、やつれた頬。かつての面影はどこにもなかった。

 それなのに、なぜ彼だと分かったのだろう……

 私はじっと、かつての友の寝顔を見つめた。

 奇麗な顔をしている——と思った。

 まるで眠っているようだ。

 彼が目を覚ましたら、今の私を見て何と言うだろうか?

 まるで裁きを待つ罪人のような無抵抗さで、解剖台の上に横たわる彼を見て、私は目を閉じ静かに両手を合わせた。



 * * * * * * *


 彼の名は沢井アユム。

 出会ったのは中学3年の時だ。

 彼は夏休みに入る少し前に転入してきた。高校受験を控えた大事なこの時期に、ふらっと現れた彼は当然のように周囲からは浮いていた。

 以前通っていた学校の制服姿というだけでも浮いているのに、それに輪をかけて浮いて見えたのは、彼のその容姿だった。

 中学3年ともなれば、男子は髭も生えるし体格もごつくなる。声変わりもする。

 私も幼く見られる方だったが、さすがに15にもなれば男にはなっていた。

 でもアユムは少し違っていた。

 声変わりはしていたが、色が白く、痩せて小柄で目の大きな…まるで女の子のような顔立ちをしていた。

 大人しくて、いつも一人で行動していたので、私は要らぬお節介から、思わず声をかけてしまった。それが余程嬉しかったのか、それ以降、彼は事あるごとに私の傍へ来るようになった。

 初めは鬱陶うっとうしくて迷惑だったが、ある時彼が図書館に行きたいというので連れて行ってあげたら、探偵小説を貪るように読みだした。

「江戸川乱歩が好きなんだ」

 アユムはそう言って笑った。

「横溝正史は?」

 私が聞くと、「ほとんど読んだよ」とドヤ顔で言う。

 私は思わず嬉しくなった。

「西村京太郎は知ってる?列車を使ったトリック」

「知ってる!俺、いつかあの小説と同じ列車に乗って、本当にアリバイ通りになるか確かめてみたいんだ」

「俺も」

 私たちは笑いあった。

 まさか、こんな所で共通の趣味を持つ人間に会えるとは思ってもみなかった。

 漫画雑誌を読む友人は多かったが、正直、私は漫画より小説を読む方が好きだった。

 彼が自分と同じような好みを持っているとは思わず、その日は時間が経つのも忘れて、私は彼と小説談義を交わした。

 お陰で塾の時間をすっかり忘れ、母から大目玉を食らったのは良い思い出だ。


 彼は片親で、父親と2人で暮らしていた。

 家庭環境にやや問題があった彼の家には、よく民生委員の女性が訪れていた。

 父親の姿は何度か見たが、いつも不機嫌な顔で、酒にでも酔ってるような陰気なしゃべり方をする人だった。

 たまに蹴ったり叩いたりされるのか、そんな時は出来た痣を私に見せて、アユムは楽しそうに笑った。

 何が楽しいのか分からない私は、そのことを誰かに話そうとしたが、「それはやめてくれ」と彼に止められて断念した。

「そんなことをしたら、ここにいられなくなる」――と。


 当時の私は、志望校のレベルに学力が追い付いていないと、親と塾の双方からプレッシャーをかけられ参っていた。

 夏休みは塾の夏期講習で予定が埋まり、息が詰まる様な日々に辟易していた。

 そんな時。

 アユムから、「電車に乗ってアリバイ作りに行かないか?」と誘われた。

 好きな作家の作風になぞらえ、自分たちも電車を使ってアリバイ工作の旅に出かけよう――と誘ってきたのだ。

 受験生にとっての大事なこの時期に、そんなくだらない遊びに付き合うなどバカげていると思ったが、ひたすら塾と家との往復に嫌気がさしていた私は、ふたつ返事で了承した。

 リュックに、僅かばかりの金が入った財布と水筒、お菓子を詰め込むと、塾へ行く振りをして家を飛び出した。


 どこまで行って、いつ帰るかなど何も考えていなかった。

 ただ、息が詰まる様な日常から逃げ出したかったのだ。


 駅で待ち合わせをしたアユムと2人、時刻表と睨めっこしながら、如何いかに複雑なルートを選んで電車を乗り継いでいくか――

 互いに目的地など無いままに、だたただ電車に揺られ、ホームを走り、アリバイ工作の為に奮闘する犯人よろしく駆け回った。


 くだらないが、楽しかった。

 ローカル線の無人駅で、2人でベンチに腰掛けながら、ホームの向こうに風で揺れる向日葵ひまわりをぼんやりと眺めていた。

 頭の重みで俯く姿が、項垂れた人のように見えた。

 雑草に覆われた引き込み線の錆びたレールが、真夏の日差しを受けて鈍く光る。


 今自分たちがどこまで来たのか、そしてこの先どこまで行こうか……

 夕刻迫る駅のホームで、私とアユムはずっと無言のままだった。


 楽しかった一日が終わってしまう……そのことが何故か恐ろしかった。

 何か話せば、止まっていた時間が動き出して、全てが終わってしまうのではないか—―そんな気がしたのだ。

 沈黙が続く限り、永遠に終わらない時間を過ごせる。

 このままずっと。

 彼と2人で、どこか遠い所へ行ってしまおうか……


 そんなことを考えていた時、ベンチの上に置いていた私の右手の上に、アユムは自分の左手をそっと乗せると、言った。

「このまま遠くへ行っちゃおうか……」

「―――」

 私は彼の横顔を見た。

 あんなに楽しそうにいたのに、アユムは暗く沈んだ目でじっと揺れる向日葵を見つめていた。

 自分も同じことを考えていたのに――

 妙な違和感を感じて、私は首を傾げた。


 その彼の横顔越しに、こちらの方へ歩いてくる駅員の姿が目に入った。

 3人の警察官を伴って、近づいてくる。

 私とアユムは反射的にベンチから立ち上がった。

「沢井アユム君かな?」

 警官から声を掛けられて、アユムは頷いた。

「お巡りさん達がここに来た理由、分かるかな?」

「……」

 アユムは何も言わないが、繋いでいた手にギュッと力が入ったのが分かった。

「お父さんのことで、ちょっと聞きたいことがあるから、パトカーに乗ってくれるかな?」

 そして私の方を見ると「君は?友達?」と聞いてきた。

「彼は関係ないです。俺が勝手に連れまわしただけです」

 アユムはそう言うと、私の方を見て言った。

「ごめんね。せっかくできた友達だったけど、もう2度と会えないかも」

「え?」

 アユムは私から引き離されると、2人の警官に挟まれるように歩き出した。

 改札を抜けて、ロータリーに止めてあったパトカーに乗せられる。

「待ってよ、アユム!どういう事?」

 その後を追いかける私に、彼は顔を向けると、締まるドアを遮って言った。

「今日は付き合ってくれてありがとう。俺は忘れないから。ずっと――ずっと忘れないから!」

「アユム!!」


 アユムを乗せたパトカーはロータリーを抜けて走り出した。

 その後を、別のパトカーに乗せられて、私も家路についた。


 家で待つ両親は、何も言わなかった。

 警察官に伴われて帰宅した事も、塾をさぼったことも、何一つ聞かず、ただ黙って「おかえり」と言ってくれた。



 その理由を、私はのちになって知った。



 アユムの自宅で、父親が亡くなっているのを民生委員の女性が見つけたのだ。

 胸を刺されていて、刺したのは息子アユムだと――警察が行方を捜していたのだ。

 そんな騒動が起きているとも知らず、私は呑気に電車に揺られていた。



 あの時。

 彼はどんな気持ちで、一緒に揺られていたのだろう……




 その後。

 私は高校に進学し、大学へ進み――いつしか彼は、遠い記憶の残像として頭の片隅に追いやられていた。

 それが今、実体を持って目の前に現れたのだ。


 物言わぬむくろとなって。






 ――私は合わせた両手を下ろして、目を開けた。

 そして、横たわる彼の左手にそっと触れる。


 その後の彼が、一体どのような人生を歩んできたのか、私は知らない。

 でもひと夏の短い友情は、多感だった私の心に深く棘のように刺さり、今でも思い出として刻まれている。

 


『ずっと忘れないから!』

 彼はそう言った。



 君は。

 私の事を忘れずにいてくれたのだろうか?



 あの日からずっと。

 会うことがなかった私の事を、忘れずにいてくれたのだろうか?


 

「アユム……」

 私はそう呟くと、冷たくなった彼の手を、そっと握りしめた。




 まだ、 目を閉じれば見えてくる。

 鈍色にびいろの線路。

 セミの鳴き声。

 ホームの向こうには今も、向日葵だけが揺れている――




 ……END

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